第16話 失われた源流を探して
鐘の音は、リゼットが一歩進むたびに遠ざかっていった。
坑道の壁は湿っていた。指先で触れると、冷たい水が細い筋になって流れ落ちる。けれど足元には水がない。かつては水路だったはずの溝が、長い年月のあいだに土と石で埋められているのだ。
リゼットは松明を掲げた。
壁面に、古い文字が刻まれていた。
――水は高きより低きへ。記憶は低きより高きへ。
意味を考える間もなく、背後で怒鳴り声が響いた。
「リゼット!」
オルフェンたちが坑道へ入ってきたのだ。松明の赤い光が、闇の奥へ伸びてくる。
彼らはエドガルの進んだ水音の道を選ばなかったらしい。鍵を持つリゼットを追うことを優先したのだろう。
リゼットは走った。
鐘の音は、今度は右手の壁の向こうから聞こえてきた。だが目の前には道がない。崩れた石が積み重なり、通路を完全にふさいでいる。
そのとき、雨の記憶が指先に触れた。
遠い昔の音が、濡れた糸となって胸の奥へ流れ込んでくる。
木槌の音。石を運ぶ人々の息遣い。幼い子供の笑い声。誰かが歌っている。水路を掘る者たちの歌だった。
歌の中に、短い言葉が繰り返されていた。
――三つ目の石を、裏返せ。
リゼットは壁へ駆け寄り、崩れた石を数えた。
一つ目。ひび割れている。
二つ目。苔に覆われている。
三つ目は、他の石よりわずかに白かった。
両手で押すと、石は思いのほか簡単に動いた。裏側には鉄の輪がついている。輪を引くと、奥から乾いた音がして、積み上がった石の一部がゆっくり沈んだ。
狭い通路が現れた。
「そこを動くな!」
オルフェンの声が近づく。
リゼットは通路へ身を滑らせた。肩を石にこすり、松明の火が消えかける。背後で兵士が石を蹴り飛ばす音がした。
狭い道の先に、小さな空洞があった。
中央には、ひびの入った石の台座が置かれている。台座の上には、何もなかった。
鐘の音は、そこから聞こえていた。
リゼットは耳を澄ませる。
鐘ではない。細い金属管に風が通り、遠い水門の振動を伝えているのだ。
台座の側面に、文字が刻まれていた。
――源流を失えば、水路はただの穴となる。
――源流を隠せば、町は声を失う。
――源流は石の下にあらず、人の記憶の中にある。
「そんな……」
彼女は台座に手を置いた。
雨の音が一気に押し寄せた。
視界が白く染まり、見知らぬ景色が浮かび上がる。何十年も前の雨の夜。町の中心にある広場で、人々がひとつの大きな石樋を囲んでいた。
水は北の山から流れてきていた。山の中腹にある泉から、長い地下水路を通って町へ運ばれている。
だが、泉の前に男たちが立っていた。
伯爵家の先代当主と、役人たち。彼らは水路の入り口を壊し、泉へ続く道を岩で埋めていた。代わりに水を南へ引き、伯爵家の貯水池へ流したのだ。
そこで、ひとりの少女が叫んでいた。
「源流を隠しても、水は忘れない!」
少女の声とともに、記憶は途切れた。
リゼットは息を乱しながら台座から手を離した。
「北の山……泉が源流」
これまで調べた記録には、泉のことなど一度も書かれていなかった。地図から消され、道標を変えられ、町の人々には南の水路だけが残されたのだ。
背後の石が崩れた。
オルフェンが空洞へ姿を現す。濡れた外套の裾から泥が滴っていた。
「ようやく見つけたか」
「あなたは知っていたのですね」
「何のことだ」
「源流の場所を。北の山の泉を隠した」
オルフェンの表情がわずかに揺れた。
「証拠はどこにある」
「あなたが知っていること自体が証拠です」
「子供じみた言いがかりだ」
彼が手を伸ばした瞬間、坑道の奥で激しい水音が鳴った。
地下が震えた。
石の隙間から水が吹き出し、空洞の床を走っていく。エドガルが水路のどこかを開いたのだ。水は台座の周囲を巡り、壁に刻まれた溝へ入り込んだ。
その溝の先で、古い金属板が浮かび上がった。
リゼットは板を拾い上げた。表面には、泉から町へ続く水路の図と、建設に関わった人々の名が刻まれている。最後の欄には、先代伯爵の印と、改修工事の命令書を示す王都の記号が残っていた。
「これで十分です」
「渡せ」
「嫌です」
オルフェンが剣を抜いた。
だが、彼が一歩踏み出すより早く、坑道の入口から複数の足音が響いた。
「リゼット!」
セシリアの声だった。
町人たちが、エドガルとともに駆け込んでくる。エドガルの額には血がにじんでいたが、手には濡れた書類の束を抱えていた。
「貯水池の底から帳簿が出ました」
彼はリゼットを見た。
「そちらは?」
「源流の記録です」
二人は同時に証拠を掲げた。
オルフェンは周囲を見回した。もう彼の背後に立つ兵士たちはいない。水路を開けた振動で、彼らは入口近くまで押し戻されていた。
「こんなものが、伯爵家を倒せると思うのか」
オルフェンが低く笑う。
リゼットは金属板を胸元で握りしめた。
「倒すのは私たちではありません。真実です」
その言葉が坑道に響いた。
外では雨が降り続けている。けれど、遠い北の山から、かすかな水の音が返ってきた。
失われたと思われていた源流は、まだどこかで流れている。
次に探すべき場所は、北の山だった。




