第15話 雨の夜の別れ道
日が沈む頃、空はとうとう崩れた。
南の分岐点へ向かう一行の上で、雲は低く垂れこめ、細い雨が絶え間なく降り始めていた。町人たちは濡れた外套の裾を握りしめ、松明を胸元でかばいながら歩いている。誰も大声では話さなかった。けれど、足音のひとつひとつに、今夜こそ水門を見つけるのだという決意がこもっていた。
リゼットは革袋の中の鍵を確かめた。
老人から渡された二つの輪の鍵。冷たい金属は、歩くたびにかすかな音を立てた。
「寒くありませんか」
隣を歩くエドガルが尋ねた。
「少しだけ。あなたは?」
「私は平気です」
「それは、寒さを感じないという意味ですか。それとも、感じても言わないという意味ですか」
エドガルはしばらく黙った。
「後者です」
思いがけない答えに、リゼットは笑った。雨の匂いに混じって、濡れた土と鉄の匂いがした。彼の外套の肩には水滴が並び、黒い髪からも雫が落ちている。
「今夜は、無理をしているでしょう」
「あなたもです」
「私は、ずっと無理をしてきました」
「知っています」
短い言葉だった。けれど、リゼットの胸に深く残った。
分岐点には、古い石柱が三本立っていた。昼間に見たときはただの崩れかけた道標にしか見えなかったが、雨に濡れた石の表面には、細い溝が幾重にも浮かび上がっている。
セシリアが松明を近づけた。
「地図の印と同じです。ここから道が三つに分かれています」
ひとつは南の森へ続く道。ひとつは伯爵家の裏手へ向かう細道。そしてもうひとつは、崩れた斜面の向こうへ消えていた。
「老人の話では、古い水路は南の分岐点から西へ曲がるはずでした」
エドガルが測量器を開く。
「ですが、地形と記録が一致しません。水を流すなら、ここから低地へ落とすのが自然です」
リゼットは石柱に手を置いた。
雨音が、指先から糸のように伸びていく。
無数の音が重なった。車輪の軋み。馬の嘶き。誰かが石を積む音。遠くで泣く子供の声。そして、水の流れ。
記憶は霧の向こうにあった。
古い道を、二人の男が走っている。一人は町の役人の服を着ていた。もう一人は伯爵家の紋章をつけている。彼らは分岐点で立ち止まり、地面に杭を打ち込んだ。
――東へ行けば、町へ戻る。
――西へ行けば、伯爵家の貯水池だ。
――では、標識を変えろ。町の者が西へ入れないように。
声が消えると同時に、別の音が重なった。
錠前が回る音。三度、低く響く金属音。
リゼットは目を開けた。
「西です。水路は西へ曲がっています」
「ですが、あちらは伯爵家の敷地へ続いています」
「だから、道標を変えたのです」
オルフェンの顔が脳裏に浮かぶ。退去命令を読み上げた冷たい声。存在しないと言い切った、水門の音。
そのとき、森の奥で枝が折れた。
町人たちが一斉に振り向く。松明の明かりの外側に、複数の影があった。
「追手です!」
鍛冶屋の親方が叫んだ。
濃紺の外套を着た男たちが、木々の間から現れた。伯爵家の兵士だった。先頭にはオルフェンがいる。雨に濡れた顔には、昼間の余裕がなかった。
「その鍵を渡せ、リゼット」
「嫌です」
答えたのはエドガルだった。
彼はリゼットの前へ立ち、測量杖を地面へ突き立てた。
「これは町の水路に関する証拠です。あなたの命令で奪えるものではない」
「王都の許可証を持つだけの測量士が、伯爵家に逆らうのか」
「水を私物化する者に従う理由はありません」
兵士たちが剣の柄へ手をかけた。町人たちの間に動揺が走る。
リゼットは、雨の中で耳を澄ませた。
西の斜面の下から、かすかな金属音がする。三度。少し間を置いて、また三度。
「エドガル、時間がありません」
「分かりました」
彼はリゼットを振り返った。
「西の道を。私はここを止めます」
「あなた一人で?」
「一人ではありません」
セシリアが松明を掲げた。
「町の人間は、もう伯爵家の門番ではありません。自分たちの水路を見に行きます」
粉屋の老人が前へ出た。鍛冶屋の親方も続く。次々と人々がリゼットの横へ並んだ。
オルフェンが苛立ったように叫ぶ。
「道を開けろ! これは伯爵家の命令だ!」
「ならば、町の水を止めた証拠を見せろ!」
誰かが叫び返した。
「見せられないから、鍵を奪うのだろう!」
声が雨を打ち破った。
エドガルはリゼットの手首をつかんだ。
「走ってください」
二人は西の斜面へ駆け出した。泥が靴にまとわりつき、雨が視界を白くする。背後では怒号が響き、松明の光が揺れていた。
斜面を下った先に、崩れた石壁があった。壁の中央には、古い鉄扉が埋もれている。
鍵穴は二つ。
リゼットが鍵を差し込むと、扉の向こうから水の音が大きくなった。
「二つ同時です」
エドガルが言う。
リゼットは彼と目を合わせた。
「私が左を。あなたは右を」
二人が同時に鍵を回す。
重い音がして、鉄扉が内側へ沈んだ。
そこには暗い坑道があり、底を細い水が流れていた。水は確かに生きている。長い年月、封じられていただけだった。
その流れの先から、かすかな女の声が聞こえた。
――急いで。雨が降る夜にしか、道は戻らない。
リゼットは息を呑んだ。
「今、何か聞こえましたか」
「いいえ」
エドガルはそう答えたが、彼女の顔を見て、何も問わなかった。
坑道の奥には、二つに分かれる道があった。片方は低く、激しい水音がする。もう片方は乾いているが、遠くで鐘のような音が響いていた。
リゼットは目を閉じた。
雨の記憶が、二本の糸になって指先へ集まる。
水の道は伯爵家の貯水池へ。鐘の道は、町の古い水門へ続いている。
「別れ道です」
彼女は言った。
エドガルが静かに頷く。
「あなたは水門へ。私は貯水池を調べます」
「危険です」
「あなた一人で町を救うつもりですか」
彼は少しだけ目を細めた。
「対等な相棒なら、分かれることも必要でしょう」
リゼットの胸が痛んだ。
「必ず戻ってきてください」
「あなたも」
エドガルはそう言って、水音のする道へ消えていった。
リゼットは振り返り、鐘の響く暗がりへ進む。
雨の夜、道は二つに分かれた。
けれど、それは別れではない。二人が同じ明日へたどり着くための、短い遠回りだった。




