第14話 伯爵家からの退去命令
翌朝、南の分岐点へ向かう準備をしていたリゼットたちのもとへ、一頭の黒鹿毛が駆けてきた。
馬上にいたのは、伯爵家の紋章をつけた従者だった。彼は馬から降りるなり、封蝋の押された封書をエドガルへ差し出した。
「グレイヴ伯爵家より、正式な通達です」
エドガルが封を切る。読み進めるにつれ、その眉間に深い皺が刻まれた。
「何と書いてあるのですか」
セシリアが尋ねる。
「本日の日没までに、伯爵家の敷地内から退去せよ、と」
リゼットの胸が冷えた。
彼女たちはここ数日、伯爵家が所有する古い測量所を借りていた。町の中心から近く、記録庫で見つけた資料を広げるには都合がよかった。伯爵家は長く町の水利権を管理してきた家柄であり、現在の当主は王都に滞在していると聞いていた。
退去命令の紙には、理由として「無許可の調査活動」「家名を利用した民衆扇動」「私有地の器物確認」が挙げられていた。
「家名を利用した覚えはありません」
リゼットは紙を見つめた。
「私は、ただ水路の記憶を調べているだけです」
「向こうは、そう受け取らせたいのでしょう」
エドガルは封書を折りたたんだ。
「伯爵家の敷地から出れば、調査資料を保管する場所も失います。水門へ向かう前に、ここを封鎖される可能性があります」
従者は不安そうに周囲を見回した。
「私は命令をお伝えしただけです。ですが、若様の配下がすでに裏手へ向かっています。書類を運び出すなら、急いだ方がよろしいかと」
「若様とは?」
「伯爵家の次男、オルフェン様です。現在、町の臨時委員会を監督しておられます」
ローディン商会と親しい人物だという噂を、リゼットは以前に聞いていた。
エドガルは即座に指示を出した。帳簿の写しはセシリアがまとめ、地図は巻いて革筒へ入れる。町人たちの証言書は、原本と写しを分けた。原本は宿屋の地下へ運び、写しはそれぞれ別の人間が持つ。
「全部を一か所に置くのは危険です」
セシリアが言う。
「ええ。証拠を守るためには、散らしておく必要があります」
リゼットは机の上に残った一枚の紙へ手を伸ばした。
それは、昨日の夜に見つかった水路図の切れ端だった。紙の端には、二つの輪が並んだ印がある。老人の鍵と同じ印だ。
指先が触れた瞬間、低い風の音が立ち上がった。
石を引きずる音。水が押し返される音。そして、甲高い女の声。
――ここを開ければ、伯爵家の土地まで水が流れる。勝手な真似は許さない。
続いて、若い男の声が響いた。
――ならば、伯爵家の名で封じればいい。町の者は、古い命令に逆らえない。
リゼットは手を離した。
「この水路は、伯爵家の敷地を通っています」
「だから退去させるのですね」
エドガルが静かに言った。
「水門を開けるには、敷地内を通らなければならない。私たちを追い出して、先に鍵を奪うつもりでしょう」
そのとき、廊下の向こうで複数の足音がした。
扉が開き、濃紺の外套を着た青年が入ってくる。オルフェンだった。整った顔立ちをしているが、目元には人を値踏みする冷たさがあった。背後には、伯爵家の兵士が四人控えている。
「退去の準備はできたようだな」
オルフェンは、部屋いっぱいに広げられた地図と帳簿を見て笑った。
「測量士殿、王都の役人でもないあなたが、伯爵家の土地を勝手に調べる権利はない」
「調査許可は町の委員会から得ています」
「臨時委員会の許可など、伯爵家の権利に優先しない」
エドガルは一歩も退かなかった。
「では、退去後に水門を調べることを妨げないと、書面で約束してください」
「水門など、存在しない」
即答だった。
リゼットの背中を、冷たいものが走る。
オルフェンの言葉に重なり、紙の上からかすかな水音が聞こえた。否定の声とは裏腹に、どこかで水が流れている。しかも、一定の間隔で金属が震えていた。
「存在しないものを、なぜ今否定するのですか」
リゼットが言うと、オルフェンの顔から笑みが消えた。
「娘。君は伯爵家の庇護を受けている身だろう。没落しかけた子爵家の者が、町の騒ぎに首を突っ込めば、家名まで失うぞ」
「家名を失うことより、水を失ったままの人々を見捨てる方が怖いです」
「感情論だな」
「いいえ、記録と証言です」
リゼットは机の上の帳簿を指した。
「それに、あなたは水門が存在しないと言いました。調べていないなら、なぜそんなに確信できるのですか」
兵士の一人が息を呑んだ。
オルフェンは舌打ちし、兵士へ合図を送る。
「すべてを運び出せ。伯爵家の資料も混じっているかもしれない。確認のため預かる」
「触れないでください」
エドガルの声が鋭く響いた。
「証拠品を押収する権限は、あなたにはありません」
その瞬間、外から大勢の足音が聞こえた。町人たちが測量所の前へ集まっていた。粉屋の老人、宿屋の女主人、鍛冶屋の親方。彼らはそれぞれ写しの証言書を手にしている。
「帳簿を奪わせるな!」
誰かが叫んだ。
「水門を隠すな!」
声は次々に重なった。
オルフェンが窓の外を見る。集まった人々の数は、すでに兵士の手に負えるものではなかった。
リゼットは、騒ぎの中でまた水音を聞いた。
伯爵家の裏手。石壁の向こう。水は確かに流れている。
そしてその音は、昨日老人から渡された鍵に呼応していた。
「エドガル」
「分かっています」
彼は地図を巻き、革筒を肩へ掛けた。
「退去命令には従います。ただし、調査をやめるわけではありません」
リゼットは測量所を出る前に、振り返った。
奪われた場所から追い出される。それは敗北のように思えた。
けれど、町人たちはここに立っている。記録はすでに一人の手の中にはなく、声は広場へ広がっていた。
伯爵家の門が閉じられる音が響く。
その向こうで、隠された水門が低く震えた。
リゼットは鍵を握りしめ、南の分岐点へ続く道を見た。
「今夜、開けましょう」
エドガルが頷く。
「ええ。誰にも隠せない場所で」
退去命令は、彼らを追い払うためのものだった。
しかし同時に、隠された水路の入口を、町全体へ示す合図にもなった。




