第13話 町人たちの証言
記録庫の帳簿は、すぐには持ち出さなかった。
紙は湿気を吸い、表紙も背表紙も、触れれば崩れそうなほど傷んでいる。エドガルは机の上へ油紙を敷き、セシリアに頁の順番を記録させた。リゼットは壁の水路図を写し取りながら、紙に残る音を一つずつ聞き分けていく。
古い紙からは、筆先が走る音、椅子を引く音、遠くで水が流れる音が立ち上った。けれど声はほとんど途切れていた。誰が何を決め、どの水門をいつ閉じたのか。肝心な部分だけが、長い年月の中で薄れている。
「帳簿だけでは、決定的な証拠にならないかもしれません」
エドガルが頁をめくりながら言った。
「ここにあるのは、水路の構造と維持費の記録が中心です。水門を隠した人物の名は、別紙に書かれていたのでしょう」
「別紙なら、どこかに残っている可能性があります」
セシリアが石棚を調べた。
箱の中には、乾いた泥の塊や折れた木札があった。リゼットは一つずつ手に取り、音を確かめる。木札からは、子供の笑い声と荷車の音が聞こえた。かつて水路のそばに市場があったらしい。別の紙片からは、怒鳴り声が響いた。
――組合の印を返せ。町の水を、ひとりの商人の倉庫へ流すな。
その後に、低く冷たい声が重なる。
――水が欲しければ、こちらの値で買えばいい。
リゼットは目を開いた。
「商人、という言葉が聞こえました」
エドガルの手が止まる。
「名前は?」
「分かりません。ただ、水を売る話をしていました」
「この町で水を売っていた者を調べる必要がありますね」
外では、作業を終えた人々が待っていた。記録庫を見つけたと聞き、農夫だけでなく、仕立屋や鍛冶屋、宿屋の女主人まで集まっている。
セシリアは帳簿の写しを抱え、広場の中央に長机を置いた。
「記録庫にあった内容を、順に確認します。覚えていることがある人は、些細なことでも話してください。推測ではなく、いつ、どこで、何を見たかを」
最初に名乗り出たのは、粉屋の老人だった。
「俺の父親から聞いた話だ。昔、南の水路には石の蓋があった。夜になると、誰かが蓋を開けていたらしい。粉ひき用の水が急に減ることが、何度もあった」
「それはいつ頃ですか」
エドガルが尋ねる。
「俺が子供の頃だ。四十年ほど前になる。水路が消えたと言われるより、ずっと後だ」
次に、宿屋の女主人が口を開いた。
「父がまだ荷運びをしていた頃、王都から来た役人が泊まりました。夜中に、町の水利組合の男と話していたそうです。『古い水門の記録を買い取る』と」
「役人の名は覚えていますか」
「父は名を知らなかった。ただ、連れの商人を見て、あれは今のローディン商会の先代だと言っていました」
広場がざわめいた。
ローディン商会は、干ばつが始まってから井戸水と運搬水を扱い、町で大きな利益を上げている商会だった。現在の代表は、町の有力者であり、臨時委員会の設置にも反対している。
セシリアが記録を書き留める。
「見間違いの可能性は?」
「もちろんあるよ。でも、父は荷運びで何度も顔を合わせていた。先代の商会主が、古い水利組合の印を持っていたことも覚えている」
鍛冶屋の親方も続いた。
「うちの工房に、昔、水門の部品を作った注文書が残っている。注文主は組合になっていたが、支払いは個人名義だった。確か、ローディンという名だったはずだ」
「注文書は?」
「店の奥にある。明日、持ってくる」
証言が一つ、また一つと重なっていく。
農夫の女は、祖父から聞いた話として、夜明け前に南の畑だけが濡れていたことを語った。羊飼いの少年は、谷の近くで見知らぬ男たちが石を運んでいたと話した。年老いた仕立屋は、組合が解散した日の夜、町長の屋敷へ大きな木箱が運び込まれたことを覚えていた。
どれも単独では決め手にならない。けれど、地図と帳簿に記された水路の位置へ重ねると、すべてが同じ場所を指していた。
リゼットは、人々の声の間に混じる音を聞いていた。
怯えた声。悔しさを押し殺した声。そして、長い間誰にも語れなかった記憶が、ようやく日の当たる場所へ出てくる音。
「みなさんの証言は、記録として残します」
彼女は立ち上がった。
「ただ、私の力で聞いた音は、証言そのものにはなりません。私が聞いたことと、みなさんが見たことを分けて記録しましょう。そうすれば、誰か一人の言葉に頼らずに済みます」
エドガルが頷いた。
「測量図と帳簿、そして町人の証言を照合します。水路が実在したこと、現在も水が流れていること、その水を誰かが塞いだこと。この三つを示せれば、王都へ正式な調査を求められる」
「ローディン商会は黙っていないでしょうね」
セシリアが不安そうに言った。
「だからこそ、証言をひとつに集めるのです」
エドガルは広場の人々を見渡した。
「誰か一人を黙らせても、記録全体は消せません」
その夜、町の書記所には灯りが絶えなかった。
人々は順番に訪れ、自分の知ることを話した。セシリアは一人ずつ名前を書き、エドガルは証言の場所を地図へ印した。リゼットは傍らで、証言者の言葉に重なる古い音を聞き取り、音の由来と時期を推測していく。
最後に現れたのは、杖をついた老人だった。
「水路を塞いだ場所を知っている」
彼はそう言って、古びた鍵を机へ置いた。
「父が死ぬ前に、これを俺へ渡した。いつか町が水を取り戻そうとする日まで、捨てるなと言われたんだ」
鍵には、二つの輪が並んだ印が刻まれていた。
リゼットが触れると、遠い昔の音が響いた。
――証言が集まったなら、最後の水門を開けよ。
彼女は顔を上げた。
「この鍵は、記録庫の水門とは別のものです」
エドガルが鍵を取り、刻印を確かめる。
「南の分岐点にある、二つ目の水門かもしれません」
広場の地図へ新しい印が加わった。
失われた水路は、ただ埋められていたのではない。誰かが順番に、記録と水門を隠していたのだ。
そして今、町人たちの証言が、その隠された順番をほどき始めていた。




