第12話 となりで結ぶ調査糸
町へ戻ると、広場には見慣れない顔が増えていた。
谷の崩れを知らせた使いが先に着いていたらしく、農夫たちが荷車を連ね、鍬や綱を積み込んでいる。職人たちは暗渠の入口を支える木材を用意し、臨時委員会の書記に選ばれたセシリアは、紙束を抱えたまま指示を飛ばしていた。
「遅いわよ、リゼット!」
姿を見つけるなり、セシリアが駆け寄ってくる。
「何が見つかったの?」
「暗渠の奥に、水門と記録庫らしき空間があります」
答えたのはエドガルだった。
彼は谷で描いた略図を広げ、地形と水路の位置を指で示した。町の人々がその周囲へ集まり、肩を寄せ合って紙をのぞき込む。以前なら、測量士の説明を聞く者は少なかっただろう。だが今は、誰もが水路の行方を自分の暮らしの問題として見つめていた。
「記録庫があるなら、隠された水門の証拠も残っているかもしれないわね」
セシリアが言った。
「それだけではありません」
リゼットは暗渠で聞いた音を思い返した。
「水門を開くには、記録が必要だと言っていました。誰かが、後の人のために何かを残したのです」
「声まで聞こえたのか」
農夫の一人が尋ねた。
リゼットは頷いた。
「ただし、どの時代の人かは分かりません。音が古すぎて、言葉の輪郭も途切れていました」
「それでも十分だ」
別の男が言った。
「今まで水路がないと言われ続けてきた。あるかもしれないってだけで、掘る理由になる」
その言葉に、周囲から静かな同意が広がった。
かつてなら、リゼットが何かを言えば、子爵家の娘だから信用されるのだと思われただろう。今は違う。彼らは彼女の身分ではなく、示された音と地図を見ている。
その事実が、胸の奥を温めた。
作業は昼前に始まった。
崩れた石を一つずつ外し、暗渠の入口を広げていく。エドガルは崩落の危険を確かめながら指示を出し、町の男たちは交代で綱を引いた。セシリアは運び出された石の大きさと位置を記録し、リゼットは水音の変化を聞き分けていた。
「右側の壁を、もう少し残してください」
リゼットが声を張る。
「そちらに空洞があります」
作業を止めて壁を調べると、確かに石の奥から低い反響が返ってきた。
「聞こえるのか?」
「音が違います。水が流れている音ではなく、閉じた空間に響いています」
エドガルが槌の柄で壁を軽く叩いた。硬い石の音に混じり、奥から鈍い空洞音が返る。
「ここだ」
彼の目がわずかに光った。
やがて壁の一部が外され、人ひとりが通れるほどの穴が開いた。中には狭い通路があり、その先に鉄製の扉が立っていた。錆びた蝶番には、古い紋章が刻まれている。
子爵家のものではない。
だが、町の共同水路を管理していた組合の印だと、セシリアが気づいた。
「この紋章、昔の水利組合の記録にあったわ。組合が解散させられた後、印章も帳簿も消えたとされている」
「扉を開ける鍵は?」
農夫たちが周囲を探し始めた。
リゼットは鉄の表面へ手を触れた。
冷たさの奥から、細い音が立ち上がる。
鍵を回す音。誰かが息を詰める音。扉の向こうで紙を重ねる音。そして、あの若い男の声。
――水門の鍵は、記録の最後に結びつける。水を奪う者がいるなら、次に来る者がほどけるように。
続いて、別の声が囁いた。
――糸を二本、同じ輪へ通せ。ひとりの証言ではなく、二人の記録として残すのだ。
音が消えた。
「鍵はありません」
エドガルが言った。
リゼットは目を閉じ、耳を澄ませた。扉の右下、錆の深い部分から、かすかな金属音が響いている。彼女はそこへ指を伸ばした。
「エドガル、ここを測ってください」
彼はすぐに測量具を当てた。
「厚みが違う。隠し箱かもしれない」
職人が慎重に周囲の錆を削ると、小さな鉄箱が壁へ埋め込まれていた。蓋には二つの穴が並んでいる。ひとつは細い棒を差し込むためのもの。もうひとつは、糸を通すためのものだった。
セシリアが息を呑む。
「記録の最後に結びつける、というのはこのことね」
リゼットは鞄から調査用の糸を取り出した。雨音を写し取るために使っていた、細く丈夫な白糸である。
「二人の記録として残す、と言っていました」
エドガルが彼女を見る。
「私の測量図と、あなたの音の記録を結ぶのでしょう」
「はい」
「なら、二人でやります」
彼は自分の帳面から一枚を切り取り、暗渠の見取り図と現在の水位を書き込んだ。リゼットは聞き取った声と音の順序を記す。二人の紙を重ね、白糸を二つの穴へ通した。
糸は抵抗なく滑り、箱の奥で小さく震えた。
その瞬間、扉の内側から金具の外れる音が響いた。
誰も言葉を発さなかった。
エドガルが取っ手へ手をかける。リゼットはその隣へ立った。肩が触れそうな距離だったが、今度はどちらも離れなかった。
「開けます」
「はい」
二人で力を合わせると、扉は長い眠りから目覚めるように軋み、ゆっくりと内側へ開いた。
奥には、石棚に並ぶ木箱と、壁一面に張られた古い水路図があった。中央の机には、黒ずんだ帳簿が一冊置かれている。
表紙には、消えかけた文字が残っていた。
――谷間水利組合 引継記録。
リゼットは帳簿へ手を伸ばしかけ、ふと隣を見た。
エドガルは何も言わず、彼女へ測量用の鉛筆を差し出した。
受け取ったリゼットは、彼の帳面の隣に自分の紙を並べた。
失われた水路を見つける仕事は、もう一人のものではない。
一本の糸を、二人で結んだ。
その先に、町の未来へ続く記録が眠っていた。




