第11話 身分を捨てる決意
谷の奥へ進むにつれ、町のざわめきは遠ざかっていった。
朝の光はまだ低く、濡れた岩肌に細い筋を描いている。昨夜まで沈黙していた水路は、ところどころで土砂に遮られながらも、確かな流れを取り戻していた。水は石の隙間を走り、草の根を濡らし、乾ききった谷底へ新しい色を広げている。
リゼットは水路沿いに歩きながら、何度も後ろを振り返った。
町では、臨時委員会の準備が始まっている。農夫や職人たちは、誰を委員にするか話し合い、セシリアは押収した帳簿の整理に取りかかるだろう。彼女がそこに残らず、エドガルと谷へ向かうことを、町の人々はどう思うだろうか。
「気になるなら、戻っても構いません」
前を歩いていたエドガルが言った。
「あなたがいなくても、委員会は動き始めています」
「そういう意味ではありません」
リゼットは足を止めた。
水路の脇に、白い花が一輪咲いていた。干ばつの間に枯れた草の中で、その花だけが水の音に耳を澄ますように揺れている。
「町へ戻れば、私はまた子爵令嬢として扱われるのでしょうね」
エドガルは振り返らず、黙っている。
「今日、広場にいた人たちが見ていたのは、私の家名ではありませんでした。私が何を聞き、何を示したかです。それなのに、王都へ戻れば、父の借金や領地の売却話ばかりが先に語られる。私が何をできるかではなく、どの家に生まれたかで判断される」
「あなたの家は、まだ子爵家です」
「ええ。でも、もう長くはありません」
リゼットは自分の手を見た。指先には乾いた泥が残っている。かつて母が贈ってくれた薄紫の手袋は、破れたまま鞄の底にしまわれていた。
父が倒れてから、家の財産は急速に失われた。王都の屋敷は抵当に入り、残された領地も売却を待つばかりだった。親族たちは、彼女が誰か裕福な家へ嫁ぐことを望んでいる。そうすれば、子爵家の名だけは保てると。
けれど、その名を守るために、自分が何を失ってきたのか。リゼットはようやく考え始めていた。
「昨日、セシリアに言われました」
「何を」
「調査局の臨時職員にならないかと。水路や記録を扱う職として、王都で正式に雇うこともできるそうです」
エドガルが今度は振り返った。
「受けるのですか」
「分かりません」
リゼットは水の流れへ目を向けた。
「職を得れば、家を捨てることになります。子爵令嬢という立場を離れ、父の許しもなく、自分の名前だけで生きることになる。怖くないと言えば嘘になります」
「家名がなくなると、困ることは多いでしょう」
「ええ」
「ですが、家名があることで、できないこともあります」
淡々とした声だった。慰めようとしているわけではない。ただ、測った距離を読み上げるように、事実を置いている。
「あなたは昨日、町の人々の前で言いました。自分だけで決めない、と」
「覚えていたのですか」
「私は測量士です。聞いたことは記録します」
リゼットは思わず笑った。
その笑いはすぐに消えた。谷の奥から、低い音が響いたからだ。
二人は同時に顔を上げた。
水路は崖の下へ入り、黒い石造りの暗渠へ続いている。入口は半ば崩れた土で塞がれていたが、奥から水の音が聞こえた。さらにその奥で、何かが規則正しく打ち合うような音も混じっている。
「鎖……でしょうか」
「確認します」
エドガルが道具箱から細い測量紐を取り出した。暗渠の周囲を調べ、崩落の危険がないことを確かめていく。リゼットは入口の石へ手を触れた。
冷たい。
だが、石の中には遠い記憶が残っていた。
大勢の足音。木箱を運ぶ音。怒鳴り声。水門を閉じる重い金具。そして、若い男の声。
――この先を開ければ、北の畑へ水が流れる。だが、開けるには記録が要る。
別の声が答えた。
――記録は残しておく。誰かが必要とする日が来る。
音はそこで途切れた。代わりに、紙を折る音と、金属の蓋を閉める音が続く。
リゼットは指を離した。
「何か見つかりましたか」
「水路の先に空間があります。古い貯水槽か、記録庫かもしれない」
エドガルが紐の端を暗渠へ投げ入れた。
「ただ、入口を開けるには、上の崩れた石をどかす必要がある」
「町から人を呼びましょう」
「そうするべきです」
彼はそう言いながら、リゼットを見た。
「あなたが一人で決めないのと同じように」
その言葉に、リゼットは静かに頷いた。
けれど心の中では、すでに決まりつつあるものがあった。
家名を手放すことは、過去を捨てることではない。父や母の記憶を否定することでもない。誰かの娘や、子爵家の後継者という肩書きだけではなく、自分の手で選んだ仕事を名乗ることだ。
リゼットは鞄から、古い紋章入りの封蝋を取り出した。子爵家の文書を封じるために使っていたものだ。指の間でしばらく眺め、それを水路脇の石の上へ置いた。
「どうしたのですか」
「決意を形にしておこうと思って」
リゼットは封蝋を拾い上げ、岩へ強く押しつけた。紋章はひび割れ、二つに割れた。
「私は子爵令嬢の身分を捨てます」
声は震えていた。それでも、言葉は水音に消えなかった。
「これからは、リゼットという名前で、水路の記憶を読みます。必要とされる場所で、必要な仕事をします」
エドガルは割れた封蝋を見つめ、それから頷いた。
「では、リゼット。町へ戻って、人を呼びましょう」
「はい、エドガル」
二人は暗渠を背に、来た道を戻り始めた。
谷にはまだ、失われた水路が残っている。誰かが隠した記録も、消された名前も、これからさらに見つかるだろう。
けれどリゼットは、もう自分の立つ場所を迷わなかった。
水の流れが、足元で新しい道を選ぶように鳴っていた。




