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雨音を編む令嬢は、辺境の測量士と明日の水路を描く  作者: 銀細工ナギ


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11/20

第11話 身分を捨てる決意

 谷の奥へ進むにつれ、町のざわめきは遠ざかっていった。


 朝の光はまだ低く、濡れた岩肌に細い筋を描いている。昨夜まで沈黙していた水路は、ところどころで土砂に遮られながらも、確かな流れを取り戻していた。水は石の隙間を走り、草の根を濡らし、乾ききった谷底へ新しい色を広げている。


 リゼットは水路沿いに歩きながら、何度も後ろを振り返った。


 町では、臨時委員会の準備が始まっている。農夫や職人たちは、誰を委員にするか話し合い、セシリアは押収した帳簿の整理に取りかかるだろう。彼女がそこに残らず、エドガルと谷へ向かうことを、町の人々はどう思うだろうか。


「気になるなら、戻っても構いません」


 前を歩いていたエドガルが言った。


「あなたがいなくても、委員会は動き始めています」


「そういう意味ではありません」


 リゼットは足を止めた。


 水路の脇に、白い花が一輪咲いていた。干ばつの間に枯れた草の中で、その花だけが水の音に耳を澄ますように揺れている。


「町へ戻れば、私はまた子爵令嬢として扱われるのでしょうね」


 エドガルは振り返らず、黙っている。


「今日、広場にいた人たちが見ていたのは、私の家名ではありませんでした。私が何を聞き、何を示したかです。それなのに、王都へ戻れば、父の借金や領地の売却話ばかりが先に語られる。私が何をできるかではなく、どの家に生まれたかで判断される」


「あなたの家は、まだ子爵家です」


「ええ。でも、もう長くはありません」


 リゼットは自分の手を見た。指先には乾いた泥が残っている。かつて母が贈ってくれた薄紫の手袋は、破れたまま鞄の底にしまわれていた。


 父が倒れてから、家の財産は急速に失われた。王都の屋敷は抵当に入り、残された領地も売却を待つばかりだった。親族たちは、彼女が誰か裕福な家へ嫁ぐことを望んでいる。そうすれば、子爵家の名だけは保てると。


 けれど、その名を守るために、自分が何を失ってきたのか。リゼットはようやく考え始めていた。


「昨日、セシリアに言われました」


「何を」


「調査局の臨時職員にならないかと。水路や記録を扱う職として、王都で正式に雇うこともできるそうです」


 エドガルが今度は振り返った。


「受けるのですか」


「分かりません」


 リゼットは水の流れへ目を向けた。


「職を得れば、家を捨てることになります。子爵令嬢という立場を離れ、父の許しもなく、自分の名前だけで生きることになる。怖くないと言えば嘘になります」


「家名がなくなると、困ることは多いでしょう」


「ええ」


「ですが、家名があることで、できないこともあります」


 淡々とした声だった。慰めようとしているわけではない。ただ、測った距離を読み上げるように、事実を置いている。


「あなたは昨日、町の人々の前で言いました。自分だけで決めない、と」


「覚えていたのですか」


「私は測量士です。聞いたことは記録します」


 リゼットは思わず笑った。


 その笑いはすぐに消えた。谷の奥から、低い音が響いたからだ。


 二人は同時に顔を上げた。


 水路は崖の下へ入り、黒い石造りの暗渠へ続いている。入口は半ば崩れた土で塞がれていたが、奥から水の音が聞こえた。さらにその奥で、何かが規則正しく打ち合うような音も混じっている。


「鎖……でしょうか」


「確認します」


 エドガルが道具箱から細い測量紐を取り出した。暗渠の周囲を調べ、崩落の危険がないことを確かめていく。リゼットは入口の石へ手を触れた。


 冷たい。


 だが、石の中には遠い記憶が残っていた。


 大勢の足音。木箱を運ぶ音。怒鳴り声。水門を閉じる重い金具。そして、若い男の声。


――この先を開ければ、北の畑へ水が流れる。だが、開けるには記録が要る。


 別の声が答えた。


――記録は残しておく。誰かが必要とする日が来る。


 音はそこで途切れた。代わりに、紙を折る音と、金属の蓋を閉める音が続く。


 リゼットは指を離した。


「何か見つかりましたか」


「水路の先に空間があります。古い貯水槽か、記録庫かもしれない」


 エドガルが紐の端を暗渠へ投げ入れた。


「ただ、入口を開けるには、上の崩れた石をどかす必要がある」


「町から人を呼びましょう」


「そうするべきです」


 彼はそう言いながら、リゼットを見た。


「あなたが一人で決めないのと同じように」


 その言葉に、リゼットは静かに頷いた。


 けれど心の中では、すでに決まりつつあるものがあった。


 家名を手放すことは、過去を捨てることではない。父や母の記憶を否定することでもない。誰かの娘や、子爵家の後継者という肩書きだけではなく、自分の手で選んだ仕事を名乗ることだ。


 リゼットは鞄から、古い紋章入りの封蝋を取り出した。子爵家の文書を封じるために使っていたものだ。指の間でしばらく眺め、それを水路脇の石の上へ置いた。


「どうしたのですか」


「決意を形にしておこうと思って」


 リゼットは封蝋を拾い上げ、岩へ強く押しつけた。紋章はひび割れ、二つに割れた。


「私は子爵令嬢の身分を捨てます」


 声は震えていた。それでも、言葉は水音に消えなかった。


「これからは、リゼットという名前で、水路の記憶を読みます。必要とされる場所で、必要な仕事をします」


 エドガルは割れた封蝋を見つめ、それから頷いた。


「では、リゼット。町へ戻って、人を呼びましょう」


「はい、エドガル」


 二人は暗渠を背に、来た道を戻り始めた。


 谷にはまだ、失われた水路が残っている。誰かが隠した記録も、消された名前も、これからさらに見つかるだろう。


 けれどリゼットは、もう自分の立つ場所を迷わなかった。


 水の流れが、足元で新しい道を選ぶように鳴っていた。

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