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Chapter 20 ― Seven Jewels

挿絵(By みてみん)


 Chapter 20 ― Seven Jewels


 エアリオンの空には、数時間前までの異変が嘘だったかのように、穏やかな風が戻っていた。

 止まっていた巨大な風車は再びゆっくりと羽根を回し、封鎖されていた空中橋にも人の姿が戻り始めている。 避難していた住民たちは恐る恐る家へ戻り、壊れた店先を片づける者、再会した家族と抱き合う者、何度も空を見上げて本当に終わったのかを確かめる者。

 街のあちこちで、人々が少しずつ日常を取り戻そうとしていた。

 空は青い。

 白い雲が流れている。

 あれほど大きく空を引き裂いていた黒い亀裂は、もうどこにもなかった。

 境界の向こうに見えていたASTRA(アストラ)も、そこから現れた巨大な神の姿も消えている。

 少なくとも今だけは。

 世界は、元の姿を取り戻していた。


 中央塔から少し離れた、小さな食堂。

 カイルは目の前に並べられた料理を見て、呆れたように息を吐いた。

「……おい。誰だよ、こんなに頼んだの」

 テーブルには焼いた肉、野菜のスープ、黒パン、チーズ、そして皿からこぼれそうなほど山盛りにされた芋が並んでいる。

 ミナが何の悪びれもなく手を挙げた。

「私です」

「食えるのか?」

「あれだけ戦ったんですよ?」

「それにしても凄い量だろ」

「ゆっくり時間かけて食べましょ!」

「そういう問題か?」

 二人のやり取りを聞きながら、ルティスはちぎった黒パンを口へ運び、思わず笑った。

「……何だよ」

 カイルが気づいてこちらを見る。

「別に」

「今、笑っただろ」

「笑ってない」

「笑ってましたよ」

「ミナ、余計なこと言わない」

「はい」

 素直に返事をしたくせに、ミナも笑っている。

 少し離れた席にはレオンが座っていた。

 まだ完全に三人の輪へ入ったわけではないのだろう。

 会話に加わるでもなく、黙って窓の外を見ている。

 ルティスは黒パンを一つ手に取り、彼へ差し出した。

「レオン」

「何だ」

「色々と助かったわ」

 レオンは差し出されたパンとルティスの顔を交互に見たあと、少しだけ迷ってから受け取った。

「……一つだけだ」

「お前、その台詞好きだな」

 すかさずカイルが口を挟む。

「何がだ」

「『一度だけだ』とか『一つだけだ』とか」

「黙れ」

 ミナが吹き出した。

 ルティスも笑う。

 レオンだけが露骨に嫌そうな顔をした。

 こんな時間は、本当に久しぶりだった。

 戦いでもない。

 宝玉でもない。

 境界でもない。

 ただ誰かと同じテーブルを囲み、食事をする。

 学院を追放されたあの日には、こんな場所へ辿り着くなんて考えもしなかった。

 雨の中、一人で歩いた。

 何をすればいいのかも、どこへ行けばいいのかも分からなかった。

 ただ、立ち止まりたくなくて歩いた。

 それが今は、隣に誰かがいる。

「……終わったんですよね」

 不意にミナが言った。

 カイルの手が止まり、レオンもルティスを見る。

 ルティスは窓の外へ視線を向けた。

 青い空。

 白い雲。

 穏やかな風。

「……まだ、かな」

「……そうか。まだエレナさんが……」

「でも」

 ルティスは少し笑った。

「今日は、ご飯くらいゆっくり食べてもいいと思う」

「賛成です」

 ミナが大きく頷いた。

「お前は最初からずっと食ってるだろ」

「戦ったので」

「それ何回言うんだよ」

 また笑いが起きた。

 その時だった。

 ――カタ。

 テーブルの上のコップが、小さく音を立てた。

 カイルが目を落とす。

 もう一度。

 ――カタカタ。

 今度は窓まで微かに震えた。

 ルティスの笑顔が消える。

 胸の奥で、何かが脈打った。

 ――ドクン。

 Umbra(アンブラ)。

「……まさか」

「ルティスさん?」

 ルティスは椅子を蹴るように立ち上がり、窓へ駆け寄った。

 空には何もない。

 亀裂もなければ、ASTRA(アストラ)も見えない。

 それでもUmbra(アンブラ)は、確かに何かへ反応している。

 その時、ルティスは思い出した。

 中央塔を離れる直前。

 誰もいなくなった魔法陣の上に、一瞬だけ現れた細い黒い線。

「……亀裂」

「何?」

「最後にあったの。魔法陣の上に、すごく細い亀裂が」

 レオンが立ち上がる。

「境界が完全には閉じていなかったということか」

「分からない。でも――」

 ――ドクン。

 Umbra(アンブラ)が再び脈打つ。

 今度は先ほどより強い。

「中央塔へ戻ろう」

 レオンはすでに黒い長剣を手にしていた。


 四人は街を駆け抜けた。

 中央塔へ近づいたところで、ミナが突然足を緩めた。

「……風がおかしい」

「また吸われてるのか?」

「違います」

 ミナは赤い髪を押さえながら空を見上げた。

「ASTRA(アストラ)じゃない。全部、中央塔へ向かってる」

 ルティスたちは速度を上げた。

 塔へ飛び込み、長い階段を一気に駆け上がる。

 最上階へ辿り着き、開け放たれた扉を抜けた瞬間。

 ルティスは足を止めた。

「……ノア」

 七つの円が刻まれた魔法陣。

 その中央に、銀色の仮面をつけた男が一人で立っていた。

 教団員の姿はない。

 ノアだけだった。

 そして彼の足元では、閉じたはずの魔法陣から髪の毛ほど細い黒い亀裂が伸びている。

「お早い到着だな」

 ノアは驚いた様子もなく言った。

 カイルが剣を抜く。

「お前……さっき俺たちと一緒に閉じたばかりだろ」

「ああ」

「じゃあ、何してる」

 ノアは杖の先を床へ触れさせた。

 硬い音が一つ響き、魔法陣に紫黒の光が走る。

「境界の痕跡を固定している」

「最初からそのつもりだったの?」

 ルティスが問い詰めると、ノアは首を横へ振った。

「いや。先ほどの戦いで決めた」

「だったら余計に分からない。私たち全員で閉じたばかりじゃない!」

「あれを閉じなければ、全員ここで死んでいただろうからな」

「だからって、どうしてまた開くの!」

 ノアはすぐには答えなかった。

 銀色の仮面の奥にある紫の瞳が、ゆっくりとルティスの胸元へ向けられる。

 それに応じるように。

 ――ドクン

 Umbraが脈打った。

「先ほどの戦いで、ようやく分かったんだ」

「……何が?」

「あの存在が、なぜこちら側へ現れたのか」

 レオンが眉を寄せる。

「神のことか」

「ああ。私たちは、あれが境界を開いた者を排除するために現れたと思っていた。だが違う」

 ノアの視線はルティスから動かない。

「あれが狙っていたのは、この世界ではない。ルティス、お前でもない」

「じゃあ……」

「Umbra(アンブラ)だ」

 ルティスは無意識に胸元を押さえた。

「どういうこと?」

「私たちは最初から、一つ思い違いをしていた」

 ノアは魔法陣へ視線を落とす。

「Ignis(イグニス)、Aqua(アクア)、Gaia(ガイア)、Aeris(エアリス)、Volt(ボルト)、Lumia(ルミア)。そしてUmbra(アンブラ)。七つを同じ宝玉だと思っていた。だが、先ほど七つの力が同時に神へ向けられた時、Umbra(アンブラ)だけは明らかに性質が違っていた」

「性質……?」

「六つの宝玉から放たれた力には、向こう側へ続く流れがあった。力の源が宝玉そのものではなかったんだ」

 カイルが顔をしかめる。

「待てよ。じゃあ俺たちが命懸けで集めてきた宝玉は何なんだ?」

「それに宿る力は本物だ。ただし――源ではない」

 ノアは空を見上げた。

「こちら側に存在する六つの宝玉は、ASTRA(アストラ)に存在する本来の力を、この世界へ写し取ったもの。いわば本体の力を宿した写しだと私は考えている」

「じゃあ……Umbra(アンブラ)は?」

 ルティスが尋ねる。

「お前自身が一番感じてるんじゃないか?」

 ノアの声が低くなる。

「お前の中にあるUmbra(アンブラ)だけは、写しではない」

 一瞬の沈黙。

「本体そのものだ」

 ルティスの呼吸が止まった。

 そして、あの神との戦いを思い出す。

 巨大な手。

 何度も自分へ伸ばされた指。

「……だから」

 ルティスは胸元を強く押さえた。

「あれは私を狙ってたんじゃない」

「おそらくな。ASTRA(アストラ)から失われたUmbra(アンブラ)本体を回収しようとしていた」

 それなら説明がつく。

 なぜ神は他の宝玉ではなく、執拗にルティスを狙ったのか。

 なぜUmbra(アンブラ)だけが宝玉として存在せず、自分の中にいたのか。

「でも、それは推測ですよね」

 ミナが言った。

「Umbra(アンブラ)だけなら、そうだ」

 ノアはあっさり認めた。

「だが、もう一つある」

 その視線がレオンへ向く。

「エレナだ」

 レオンの表情が変わった。

「エレナがどうした」

「彼女は先ほど、Lumia(ルミア)と繋がり、その光を顕現させた」

「ああ。それが何だ」

「Lumia(ルミア)の宝玉は、こちら側にあった」

 レオンが黙った。

 ルティスも気づく。

 あの時、エレナは宝玉を持っていなかった。

 あの時はペンダントの光がLumia(ルミア)とエレナを繋いでいた。

「……宝玉を使ってない」

「そうだ。こちら側に宝玉が存在する以上、エレナがそこから力を引き出したとは考えにくい。ならば、あの力はどこから来た?」

「……ASTRA(アストラ)」

「私はそう考えている。エレナはこちら側にある宝玉を媒体にし、ASTRA(アストラ)に存在するLumia(ルミア)本体へ直接接続した」

「そんなことができるのか?」

「普通の人間にはできないだろう」

 ノアはルティスを見る。

「だから――器なんだ」

「器……」

「ルティスはUmbra(アンブラ)本体をこの世界で保持している。そしてエレナは、Lumia(ルミア)本体へあちらの世界から直接接続した。方法は違うが、二人とも本体の力を受け入れられるだけの適性を持っている」

 レオンが一歩前へ出た。

「エレナを器扱いするな」

 低い声だった。

「呼び方を変えても事実は変わらない」

「ノア……」

「ならば考えるべきことは一つだ。Umbra(アンブラ)本体が存在し、Lumia(ルミア)にも本体が存在する可能性が高いのなら、残る五つにも本体が存在する可能性がある。そして、それぞれに適合する器も」

 ミナが息を呑む。

「まさか……その人たちを探すつもりですか?」

「ああ」

「見つけて、どうするの?」

 ルティスが聞いた。

「本体をこちら側へ呼び寄せる」

 カイルが剣を構える。

「お前、正気か?」

「七つの本体と、それを受け入れる七つの器。それらすべてを揃えることができれば、先ほどの神を超えられる」

 ノアは迷いなく言った。

「神から力を借りる必要などない。神に世界を委ねる必要もない。七つの力そのものをこちら側へ持ち込み――神を倒す」

 ルティスは、ようやく理解した。

 ノアは先ほどの戦いで諦めたのではない。

 逆だった。

 あの戦いで。

 新しい答えを見つけてしまった。

「そのために、また境界を開くの?」

「ああ。六つの本体が本当に存在するのか。器とは何なのか。そして、なぜUmbra(アンブラ)だけがこちら側へ渡ったのか。もうこちらの世界で調べられることには限界がある」

 ノアは黒い亀裂を見る。

「だから私自身がASTRA(アストラ)へ行く」

「……戻ってこられる保証はないよ」

 ミナが言う。

「構わない」

「また、あの神が来るかもしれない!」

「だからこそ、今回は私が向こうへ渡る」

 レオンがノアを睨む。

「Lumia(ルミア)の本体を見つけたら、エレナをどうするつもりだ」

「必要なら使う」

 その一言で。

 レオンの顔から表情が消えた。

「……お前」

 黒い長剣へ手が伸びる。

「エレナを何だと思ってる」

「言ったはずだ。器だ」

「ノア!」

 レオンが踏み出した。

 だが。

「待って」

 ルティスが手を伸ばした。

「止めるな」

「違う。聞きたいことがある」

 ルティスはノアを見る。

「さっきからずっと気になってた。どうしてあなたは、そんな簡単に人を『器』って呼べるの?」

「事実だからだ」

「事実じゃない」

 ルティスは首を振る。

「私もエレナも人間よ。まだ会ったこともない残りの五人だってそう。あなたは、その人たちの人生も気持ちも関係なく、力を入れるための器として使おうとしてる」

 ノアの紫の瞳が、ほんの僅かに動いた。

「どうして、そんなふうに人を物みたいに扱えるの?」

 しばらく返事はなかった。

 崩れた天井から吹き込む風が、黒い外套を揺らしている。

 やがて。

「人間として扱われることは……そんなに重要か?」

「当たり前でしょ」

「そうか」

 ノアは小さく笑った。

 嘲笑ではない。

 ひどく乾いた笑いだった。

「なら私は、最初から人間ではなかったのかもしれないな」

「……何を言ってるの?」

「No.08」

 ルティスとレオンの表情が変わった。

「……え?」

「教団の地下書庫で見つけた……影脈接続実験の記録書」

 ルティスが鞄にある記録書を外側から触れる。

「古い記録だ。被験体の番号が並んでいた」

 レオンの声が低くなる。

「不適合。死亡。不適合。死亡……ほとんどがそれだった。その中に一人だけ、影脈への接続に成功した生存個体がいた」

 ノアが続きを引き取った。

「No.08――適合」

 そして。

 僅かに間を置いた。

「それが、私だ」


 ノアは貧しい集落で生まれた。

 ただし、本人はその村をほとんど覚えていない。

 幼い頃に両親を失ったから。

 戦争に巻き込まれたわけでもない、魔物に襲われたわけでもない、流行病だった。

 村では何人も死んだ。

 ノアの両親も、その中にいた。

 残された子供たちは近隣の領主によって保護された。

 ――表向きは。

 実際には違った。

 魔術研究のために集められた。

 身寄りのない子供。

 探す家族がいない子供。

 消えても誰も困らない子供。

 ノアもその一人だった。

 朝になれば扉が開き、白衣を着た男が同じ言葉を口にする。

「08。実験だ」

 幼い少年にとって、それが自分の名前だった。

 薬を飲まされ、血を採られ、身体へ魔力を流し込まれる。

 影脈へ接続するための術式を何度も刻まれ、失敗するたびに意識を失った。

 目を覚ませば、また同じ一日が始まる。

 昨日まで隣の部屋にいた子供が、翌朝にはいなくなっていることも珍しくなかった。

 一度だけ、聞いたことがある。

「07は?」

「不適合だ」

「どこへ行ったの」

「関係ない。次の実験へ移れ」

 それ以上の答えはなかった。

 やがて08も、誰かが消えても尋ねなくなった。

 聞いても意味がない。

 そういう場所なのだと、子供ながらに理解した。

 そんなある夜だった。

『ねえ』

 壁の向こうから声がした。

 少女の声だった。

「……何」

『名前、なんていうの?』

「08」

 少しの沈黙。

『それ、番号でしょ』

「ここでは名前だ」

『違うよ。人にはちゃんと名前があるんだよ』

 08には、その意味がよく分からなかった。

『忘れちゃったの?』

「……たぶん」

『じゃあ、私がつけてあげる』

「いらない」

 少女は少し考えた。

『ノア』

「……何だ、それ」

『あなたの名前』

「勝手に決めるな」

『嫌?』

 08は答えなかった。

『嫌なら別のにするよ』

 壁一枚隔てた向こうに、顔も知らない少女がいる。

 しばらく考えてから、08は小さく答えた。

「……好きにしろ」

『じゃあ決まり』

 少女が笑った。

『今日からあなたはノア』

 その日。

 No.08は初めて――ノアになった。

 

 少女はNo.09。

 けれど彼女にも、番号とは別の名前があった。

 ――ルナ。

 二人は毎晩、壁越しに話すようになった。

 ルナは外の世界の話をした。

 海は青くて、見渡しても終わりがないらしい。

 市場には焼きたてのパンの匂いが漂い、草原では風が草を波のように揺らす。

 そして夜になると空には無数の星と月が浮かぶ。

『月って、本当に光ってるのかな』

「知らない」

『ノアは見たことない?』

「ない」

『私も』

 しばらく沈黙してから、ルナが言った。

『じゃあ、一緒に見よう』

「なんで俺と」

『一人で見るより、二人の方がいいでしょ』

 ノアは呆れた。

 けれどその夜から、月というものを考えるようになった。

 どんな色なのか。

 どれほど大きいのか。

 本当に、暗い夜を照らすほど光っているのか。

 そしてある夜。

『逃げよう』

 突然、ルナが言った。

「無理だ」

『どうして?』

「捕まる」

『じゃあ、また逃げればいい』

「また捕まったら?」

『また逃げる』

「馬鹿だな」

『知ってる』

 壁の向こうから笑い声が聞こえた。

『ノア。一緒に行こう』

 その時。

 ノアは初めて、自分から外へ出たいと思った。

 ここではない場所へ行きたい。

 海を見たい。

 焼きたてのパンを食べてみたい。

 そして。

 ルナが話していた月を、二人で見たい。

「……ああ」

 それは。

 ノアが初めて抱いた未来だった。

 

 翌日。

 二人は同じ実験室へ連れていかれた。

 そこで初めて、ノアはルナの顔を見た。

 痩せた、小さな少女だった。

 短い髪。

 青白い顔。

 細い腕には、何本もの注射痕が残っている。

 それでもノアを見つけると。

 ルナは笑った。

「やっと会えたね」

 ノアが何かを答えるより先に、二人は別々の台へ拘束された。

「何をする」

 研究者たちは答えない。

 巨大な術式が起動し、二つの台を黒い光が繋いでいく。

「影脈接続開始」

「No.08、接続率上昇」

「No.09、経路開放」

 身体を引き裂かれるような激痛が走った。

「っ……!」

「ノア!」

「ルナ!」

 黒い光が二人の間を走る。

 その瞬間。

 ルナの身体が揺らいだ。

「……ルナ?」

 最初は目の錯覚だと思った。

 だが違った。

 少女の指先が透けている。

 血が流れているわけではない。

 身体が崩れているわけでもない。

 ただ。

 そこにいるはずのルナの存在そのものが、少しずつ薄くなっていく。

「No.09、影脈との共振を確認」

「接続率、規定値を超過」

「術式を停止しろ」

「停止できません!」

 初めて、研究者たちの声にも動揺が混じった。

「何してる! 止めろ!」

 ノアは拘束具を引きちぎろうとする。

 だが動かない。

「ルナ!」

「ノア……」

 ルナは自分の透けていく手を見た。

 怖かったはずだ。

 何が起きているのか。

 彼女自身にも分かっていなかった。

 それでも、ルナはノアを見た。

「月……一緒に見たかったな」

「見るんだろ!」

 ノアは叫んだ。

「一緒に見るんだよ!」

「……うん」

「だったら待ってろ! 絶対に――」

「ノア」

「ルナ!」

 少女は最後に、笑った。

「生きて」

挿絵(By みてみん)

 次の瞬間。

 ルナの姿が消えた。

 光になったわけでもない。

 灰になったわけでもない。

 そこには。

 何も残らなかった。

「No.09の反応が消失!」

「生命反応は?」

「検出できません!」

「遺体は」

「ありません!」

「影脈側を調べろ!」

「追跡不能です!」

 研究室に警報が鳴り響く。

 その中で研究者の一人が記録へ文字を書き込んだ。

 ――No.09 消失。

「……ルナ?」

 ノアだけが誰もいなくなった台を見ていた。

「ルナ……?」

 返事はない。

 それでも研究者たちは作業を続ける。

「No.08の状態は?」

「影脈接続――安定しています」

 一瞬。

 室内が静かになった。

「成功だ」

 誰かが言った。

「No.08、適合を確認」

 喜びの声が上がる。

 その言葉を聞いた瞬間。

 ノアの中で何かが切れた。

「……成功?」

 足元から黒い影が溢れ出す。

「ルナが……消えたのに?」

 影が拘束具を覆った。

 金属が軋む。

「何が――」

 黒い影が爆発した。

「成功だ!!」

 

 その夜。

 研究施設は炎に包まれた。

 どうやって外へ出たのか。

 ノア自身にも、ほとんど記憶は残っていない。

 気がついた時には一人で草の上に立っていた。

 そして。

 初めて空を見た。

 無数の星。

 その中心に白い月が浮かんでいた。

 ルナが見たいと言っていた月。

 ノアは長い間、それを見上げた。

「……ルナ」

 呼んでも返事はない。

 月はただ静かに光っている。

 風は吹いている。

 遠くでは虫が鳴いている。

 世界は何一つ変わっていなかった。

 ルナが消えてもあの施設で何人の子供が死んでも。

 世界は、何事もなかったように続いている。

 あの日。

 ノアは知った。

 世界は残酷なのではない。

 残酷ならまだ憎むことができた。

 世界はただ――。

 無関心なのだ。

 

「……それが私だ」

 ノアの声とともに、ルティスの意識が中央塔へ戻る。

 誰もすぐには言葉を発しなかった。

 カイルは剣を構えたまま動かず、ミナもいつの間にか弓を下ろしている。

 レオンはただ、ノアを見ていた。

 ルティスは胸元を押さえた。

 Umbra(アンブラ)が静かに脈打っている。

「ルナは……死んだの?」

 ノアは答えなかった。

 少しして。

「分からない」

 そう言った。

「分からない?」

「あの記録に『死亡』とは書かれていない。No.09――消失。それだけだ」

「だったら!」

「何十年経とうが、どこを探そうが、痕跡一つ見つからなかった!」

 ノアの声が強くなる。

「遺体もない。魔力反応もない。影脈をどれだけ調べても、どこへ消えたのか分からない。生きているのか、死んでいるのかさえ――私は知らない」

 ルティスは何も言えなかった。

 死を見届けたのではない。

 だからこそ。

 終わることもできなかったのだ。

「……だから影脈を?」

「ああ。私が境界へ干渉できるのも、影から影へ移れるのも、すべてあの実験から始まった」

 ルティスははっと気づいた。

「もしかしてその実験場って……」

 ノアはすぐには答えなかった。

 少しして口をひらく。

「暁の教団の所有施設だ」

 ミナが口を塞ぐ。

「だったら……」

 ルティスには、どうしても理解できなかった。

「だったら余計に分からないよ」

「何がだ」

「あなた自身が、物みたいに扱われたんでしょ?」

 ノアの目が細くなる。

「名前も呼んでもらえなくて、番号をつけられて。誰かを生かすためなら、別の誰かを犠牲にしてもいい。そんな実験でルナを失ったんでしょ?」

「……」

「それなのに、どうして今度はあなたが同じことをするの!」

 ルティスの声が塔へ響いた。

「私をやエレナを器って呼んで、まだ会ってもいない五人まで探し出して使おうとしてる!」

 長い沈黙。

「あなたが一番――それがどれだけ酷いことか知ってるはずでしょ!」

 ノアは怒らなかった。

 否定もしなかった。

 やがて。

「……だからだ」

「え?」

「二度と、ルナのような存在を生み出させない」

 ノアは空を見る。

「ASTRA(アストラ)が存在し、宝玉が存在し、境界の向こうに神の力がある限り、人間は必ずそれを欲しがる。研究し、奪い合い、いずれまた誰かを器にする」

「だから自分が全部集めるっていうの?」

「ああ。七つの本体を私が管理する。誰にも触れさせない。誰にも奪わせない。そして――神そのものを倒す」

「そのために犠牲になる人は?」

 ノアが黙る。

「私たちは?」

「……」

「ルナは、そんなこと望んでたの?」

 空気が変わった。

 ノアの足元から黒い影が滲み出す。

「……黙れ」

「ルナはあなたに――」

「黙れ」

「世界を変えてなんて言ってない」

「黙れ!」

 ――ドンッ!

 影が爆発した。

 塔全体が揺れる。

 カイルが剣を構え、ミナも矢を番える。

 レオンの手も黒い長剣へ伸びた。

 けれど、ルティスだけは動かなかった。

「ルナは――『生きて』って言ったんでしょ?」

「分かったようなことを言うな!」

 初めてだった。

 ノアの声から、完全に冷静さが消えていた。

「分からないよ」

 ルティスは静かに答えた。

「あなたがどんな気持ちで生きてきたのかなんて、私には分からない」

「だったら――」

「でも」

 ルティスは胸元を押さえる。

「大切な人に、もう一度会いたいって思う気持ちは分かる」

 ノアが止まった。

「私もずっと、エレナに会いたかった。八年前にできなかった約束があって、もう一度会いたくて、そのためにここまで来た」

 ルティスは振り返る。

 カイル。

 ミナ。

 二人とも武器を構えながら、自分のそばにいる。

「でも私は、その途中で一人じゃなくなった」

 ノアの視線が二人へ移った。

 剣を握るカイル。

 弓を構えるミナ。

 少し離れたところにはレオンもいる。

 ノアはしばらく何も言わなかった。

「……そうだな」

 ノアは、ルティスの後ろに立つ三人を見た。

 剣を握るカイル。

 弓を構えるミナ。

 少し離れた場所には、黒い長剣を手にしたレオン。

 しばらく、何も言わなかった。

 やがて、ほんの僅かに笑う。

 冷たい笑みではない。

 どこか寂しさを含んだ笑みだった。

「そこが――君と私の違いだ」

「ノア」

「私は止まらない」

 ノアが杖を構えた。

「六つの本体がASTRA(アストラ)に存在するのか、この目で確かめる。器が必要なら探し出す。そして七つの力を揃え、神を倒す」

「だったら」

 ルティスも短剣を抜く。

「私は止める」

「できるのか?」

「やる」

 即答だった。

 ノアの口元が僅かに上がった。

「ならば――止めてみろ」

 黒い刃が床を走った。

「散れ!」

 カイルの声と同時に、四人が左右へ飛んだ。

 刃が石床を抉り、砕けた破片が宙を舞う。

 着地したミナは、すでに弓を引いていた。

 一本。

 二本。

 三本。

 僅かに軌道を変えながら、三方向から矢がノアへ迫る。

 だが、ノアは杖を振ることさえしなかった。

 足元の影が立ち上が離、矢が黒い壁へ吸い込まれた。

「やっぱり普通には通りませんね!」

「だったら通るまでやる!」

 カイルが正面から飛び込む。

 振り下ろされた剣を、ノアが杖で受け止めた。

 ――ガンッ!

 火花が散る。

「おらぁっ!」

 カイルが押し込む。

 ノアの身体が僅かに後退した。

 そこへ。

「退け!」

 カイルが身体を横へ流す。

 その背後から、レオン。

 黒い長剣が一直線にノアの胸元を狙う。

「……!」

 ノアが杖を返した。

 刃と杖が激突する。

 その瞬間。

「今です!」

 ミナの矢。

 ノアが顔を動かす。

 頬のすぐ横を矢が抜けた。

 銀色の仮面に、細い傷が走る。

「……なるほど」

 ノアが呟いた。

「何がだよ」

「連携して戦うことに慣れている」

 カイルが剣を構え直す。

「そりゃどうも」

「なら――」

 ノアの身体が影へ沈んだ。

「一人ずつにすればいい」

「消えた!」

「違う!」

 ルティスには分かった。

「影を移動してる!」

 どこへ。

 ルティスは周囲を見る。

 カイル。

 レオン。

 自分。

 そして――。

「ミナ!」

 振り返った時には遅かった。

 ミナの背後。

 その足元の影から、ノアが現れる。

「――!」

 黒い槍が伸びた。

 だがその直前、ミナの影が大きく揺れる。

「幻影移動(シャドウ・ステップ)!」

 ルティスが飛び出した。

 短剣を振る。

 ――キィンッ!

 黒い槍が弾かれた。

「ルティスさん!」

「下がって!」

 ノアとルティスの視線が交わる。

「……やはり」

「何?」

「君と私は似ている」

「似てない」

 即答だった。

 ノアの紫の瞳が細くなる。

「影脈を通して世界の影へ触れる私と、Umbra(アンブラ)を宿す君。これほど似た存在もいないだろう」

「そんなことどうでもいい――」

 その時、ノアの視線が、ルティスから外れた。

「――ミナ!」

 足元。

 ミナ自身の影から、黒い帯が伸びた。

「え――」

 足首。

 腰。

 腕。

 一瞬で絡みつく。

「しまっ――!」

 身体が宙へ持ち上がった。

 ノアが杖を振る。

 影がミナを激しく投げた。

「ミナ!」

 ――ドンッ!

 壁へ叩きつけられる。

 弓が手から離れ、石床を滑った。

「っ……」

 ミナの身体が床へ崩れ落ちる。

「ミナ!」

 ルティスが駆け寄ろうとする。

「行くな!」

 カイルの声。

 その直後、ルティスの目の前を黒い刃が通過した。

 あと一歩進んでいれば……直撃していた。

「……大丈夫……です」

 ミナが壁へ手をつく。

「まだ……」

 立とうとする。

 だが。

 足に力が入らない。

 そのまま倒れ込む。

「ごめんなさい……ちょっと……無理かも……」

「そこで休んでて!」

「でも――」

「いいから!」

 ルティスがノアを見る。

 ノアは静かに杖を構えていた。

「一人」

「てめぇ……!」

 カイルの声が低くなる。

「カイル!」

「分かってる」

 怒っている。

 カイルは真っ直ぐノアへ突っ込まなかった。

 ルティスを見る。

「俺が正面を取る」

「え?」

「お前は影から狙え」

「……うん!」

 カイルが走った。

 ノアの杖とカイルの剣が激突する。

 一撃。

 二撃。

 三撃。

 これまでの旅で何度も見てきた。

 カイルの剣。

 力任せに見える。

 だが違う。

 相手の攻撃を受け。

 流し。

 踏み込み。

 次の一撃へ繋げる。

 ノアが一歩下がる。

 カイルがさらに踏み込んだ。

「はぁっ!」

 剣が杖を捉えた。

 ――ガキンッ!

 小さな亀裂。

 ノアの杖に、確かに亀裂が入った。

「……!」

「今だ、ルティス!」

「幻影移動(シャドウ・ステップ)!」

 ルティスが消える。

 ノアの背後。

「影刃(シャドウ・エッジ)!」

 短剣に影が纏う。

 振り抜く。

 だが。

 ノアは振り返らなかった。

 足元から影が噴き上がる。

「っ!」

 ルティスが後ろへ飛ぶ。

 同時にカイルが剣を振り上げた。

 その瞬間だった。

 床へ伸びた。

 剣の影。

 そこから。

 黒い腕が伸びた。

「何っ!?」

 腕へ絡みつく。

 もう一本。

 脚。

 腰。

「カイル!」

「俺じゃない!」

 カイルが叫ぶ。

「ノアを見ろ!」

 ノアが杖を向けていた。

 紫黒の光が集まる。

「カイル!」

「来るな!」

 放たれた。

 ――ドンッ!

 カイルの身体が吹き飛んだ。

 床を転がる。

 剣が離れた。

「カイル!」

「……っ」

 手を伸ばす剣を掴む。

 それを支えにして立とうとする。

「まだ……だ」

 片膝を立てる。

 だが身体が上がらない。

「くそ……」

 再び膝が落ちた。

 ノアが杖を下ろす。

「二人」

 ルティスは短剣を強く握った。

 その横をレオンが歩いていく。

「レオン」

「来るぞ」

 ノアが消えた。

 影。

 ルティスが探す。

 だがレオンは動かなかった。

 目を閉じる。

 次の瞬間。

「そこだ」

 振り返ることなく、黒い長剣を背後へ突き出した。

 ――ギィンッ!

 影から現れたノアが、咄嗟に杖で受けた。

 ルティスが目を見開く。

「見えてるの?」

「見えてはいない」

「じゃあ、どうして?」

「長い付き合いだからな」

 レオンが剣を返す。

 ノアが初めて大きく後退した。

「相変わらずだな、レオン」

「お前もな」

「私の動きを覚えているか」

「嫌というほど見てきた」

 ノアが影へ沈む。

 レオンが横を見る。

「ルティス。右だ」

「うん!」

 右側の柱。

 影が揺れる。

 ルティスがそこへ飛び込んだ。

 ノアが現れる。

 同時にルティスも別の影から出た。

 短剣。

 杖。

 激突。

 その横からレオンの長剣。

「くっ……!」

 ノアが退く。

「もう一度!」

 ルティスが影へ。

「左!」

 レオンの声。

 現れる。

 ノアが防ぐ。

 レオンが斬り込む。

 初めて。

 ノアが明確に押されていた。

「……なるほど」

 ノアが笑う。

「何がおかしい」

「いや」

 杖が影を纏う。

「やはり、お前は厄介だ」

 レオンの目が細くなる。

「今さら気づいたか」

「だから――」

 ノアが消えた。

「先に外す」

 レオンが振り返る。

 いない。

「ルティス!」

 その声でルティスは気づいた。

 自分の足元。

 影が開いている。

 黒い槍。

 避けられない。

「――!」

 その瞬間、身体を突き飛ばされた。

「レオン!」

 レオンだった。

 黒い槍が長剣を弾く。

 さらに影の塊がレオンの身体へ直撃した。

 ――ドンッ!

「ぐっ……!」

 レオンが床を滑る。

 長剣が転がった。

「レオン!」

「来るな……!」

 起き上がろうとする。

 だがレオンもまた、片膝をついたまま動けなかった。

「……三人」

 ノアが言った。

 静かになった。

 ミナは壁際。

 カイルは剣を握ったまま膝をついている。

 レオンも立てない。

 中央にいるのは。

 ルティス。

 そして。

 ノア。

「これで――一人だ」

挿絵(By みてみん)

 ルティスは答えなかった。

 ミナを見る。

 苦しそうにしながら、それでもこちらを見ている。

 カイル。

 立てなくても、剣を離していない。

 レオン。

 黙ったままノアを睨んでいる。

「……違う」

「何?」

 ルティスはノアを見る。

 短剣を構えた。

「三人とも、まだここにいる」

 ノアの目が僅かに動いた。

「戦えなければ同じことだ」

「同じじゃない」

「何が違う」

「分からないなら――」

 ルティスの影が揺れた。

「あなたには、たぶん分からない」

 ノアが杖を構える。

「なら教えてもらおう」

 消えた。

 影へ。

 ルティスも迷わなかった。

「幻影移動(シャドウ・ステップ)!」

 追った。

 

 音が消えた。

 光も。

 風も。

 足元の感覚さえなくなった。

「……ここは」

 ルティスは目を開く。

 暗い。

 ただの暗闇ではない。

 上下がない。

 地面も。

 空も。

 遠近さえ曖昧だった。

 その中に。

 無数の淡い光が浮かんでいる。

 一つ。

 また一つ。

 大小も形も違う。

 ルティスは、その一つへ手を伸ばした。

 光の向こう。

 ぼんやりと景色が見えた。

 中央塔。

 瓦礫。

「……影?」

 柱の影。

 壁の影。

 瓦礫の影。

 そして。

 カイル。

 ミナ。

 レオン。

 現実世界に存在する影が。

 ここでは無数の出口のように浮かんでいる。

「初めて入ったか」

 背後。

 ルティスが振り返る。

 ――ガキンッ!

 杖と短剣がぶつかった。

「ノア!」

「ここまで追ってくるとは思わなかった」

 ノアが杖を押し込む。

「っ……!」

 ルティスが弾く。

 ノアが消えた。

「――!」

 右。

 杖。

 受ける。

 左。

 黒い刃。

 避ける。

 背後。

「遅い」

 魔力が炸裂した。

「っ!」

 ルティスが吹き飛ぶ。

 だが地面がない。

 どこまでも落ちていく。

 咄嗟に近くの光へ手を伸ばす。

「幻影移動(シャドウ・ステップ)!」

 光へ飛び込む。

 別の場所。

 止まった。

 だが、目の前に。

 ノア。

「え――」

 杖が振り下ろされる。

 短剣で受けた。

 ――ガンッ!

「どうして……!」

「ここでは私の方が速い」

 ノアの姿が消える。

「影脈を歩いた年月が違う」

 背中。

 衝撃。

「くっ……!」

 ルティスが振り返る。

 いない。

 また。

 別の光。

 ノア。

 ルティスも移動する。

 だが。

 出口へ辿り着くより先に。

 ノアが待っている。

「っ!」

 別。

 そこにも。

 別。

 また。

 先回りされる。

「何で……!」

「君は影を移動している」

 ノアの声が、暗闇のどこかから聞こえる。

「私は影脈を移動している」

「何が違うの!」

「君は入口と出口しか見ていない」

 ノアが現れる。

 杖。

 ルティスの短剣。

 激突する。

「影を一つ選び、そこから別の影へ移る。それが君の幻影移動(シャドウ・ステップ)だ」

 ノアが消える。

 次。

 さらに次。

「だが私は違う」

 声だけが響く。

「私はこの場所そのものを知っている」

 黒い刃。

 ルティスの肩を掠める。

「っ……!」

「何十年も歩いた」

 別の方向。

「探した」

 また別。

「何度も」

 ノアの声が低くなる。

 ルティスの動きが止まった。

 その一瞬、杖が腹部へ入る。

「――っ!」

 身体が折れた。

 吹き飛ぶ。

 ノアが追う。

「影脈の隅々まで歩き尽くした!」

 杖。

 受ける。

「何年も!」

 黒い刃。

 避ける。

「何十年も!」

 ノアが目の前へ現れた。

「お前とは違う!」

 魔力が爆発する。

 ルティスの身体が闇の中を飛んだ。

 呼吸が苦しい。

 短剣を握る手が震える。

 強い。

 影の中では圧倒的にノアの方が強い。

「これが君と私の差だ」

 遠く。

 ノアが立っている。

「Umbra(アンブラ)を宿しているだけでは、私には届かない」

 ルティスは答えなかった。

 無数の光を見る。

 一つ。

 一つ。

 一つ。

 ノアはそこを渡っている。

 あの光から、次の光へ、さらに別の光へ。

 確かに速い。

 でも。

 何かがおかしい。

 ルティスはノアの動きを追った。

 一つ目……二つ目……三つ目。

 そして気づいた。

「……どうして?」

「何?」

「どうして、一つずつ選ぶの?」

 ノアが止まった。

「何を言っている」

 ルティスは周囲を見る。

 柱の影。

 瓦礫の影。

 カイルの影。

 ミナの影。

 レオンの影。

 ノアの影。

 自分の影。

 無数に存在している。

 でも本当に無数なのだろうか。

 ルティスは目を閉じた。

 一つの影を感じる。

 その奥。

 さらに奥。

 別の影。

 また別。

 違う。

 これは。

「影から影へ……」

 今までずっとそう思っていた。

 一つの影へ入り。

 別の影から出る。

 だから別々のものだと思っていた。

 でも、今、自分がいる場所は。

「……違う」

「何がだ」

 ルティスが目を開く。

「ここって――」

 手を伸ばした。

 一つの光ではない。

 その周囲にある。

 すべてへ。

「一つなんじゃない?」

 影が震えた。

 ノアの表情が変わる。

「何をしている」

 ルティスの魔力が広がる。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 違う。

 選ばない。

 全部。

 同時に。

「やめろ!」

 初めてノアが焦った。

 ルティスへ向かってくる。

 だが。

「――っ!」

 世界が歪んだ。

 ルティスの身体が弾かれる。

 ノアも二人の間にあった闇が、一瞬だけ大きく脈打った。

 ――ドクン。

 Umbra(アンブラ)。

「……!」

 次の瞬間。

 

 光。

 風。

 音。

 ――ドンッ!

 ルティスの身体が中央塔の床へ投げ出された。

「ルティス!」

 カイルの声。

「ルティスさん!」

 ミナ。

 ルティスは咳き込みながら身体を起こす。

「……大丈夫」

「何があった!?」

 答えない。

 少し離れた場所からノアも影から現れた。

 僅かに呼吸が乱れている。

 ルティスは自分の手を見る。

 さっき。

 一瞬だけ触れた。

 無数の影に。

 同時に。

「……そういうことか」

「ルティス?」

 ノアが杖を床へ突き立てた。

 ――ドンッ!

 塔全体の影が動いた。

 柱。

 瓦礫。

 壁。

 カイル。

 ミナ。

 レオン。

 ルティス。

 すべての影がノアへ引き寄せられていく。

 黒い影が重なる。

 絡まり。

 膨れ上がる。

 やがて。

 ノアの背後に巨大な漆黒の獣が立ち上がった。

「影は影脈を通じて繋がっている」

 ノアが言う。

「ならば――すべての影を束ねればいい」

 ルティスは巨大な獣を見上げた。

 そして。

 自分の足元を見る。

 影。

 さっきまで。

 それを一つの影だと思っていた。

 自分の影。

 カイルの影。

 ミナの影。

 レオンの影。

 ノアの影。

 全部。

 別々のものだと。

 でも。

 違う。

「……違う」

「何?」

「束ねるんじゃない」

 ルティスの影が揺れる。

「最初から――繋がってるんだ」

 ノアの表情が変わった。

 ルティスは影へ沈んだ。

 音が遠くなる。

 光が消える。

 今度は怖くなかった。

 そこには無数の影がある。

 自分。

 カイル。

 ミナ。

 レオン。

 ノア。

 柱。

 瓦礫。

 巨大な獣。

 けれど。

 もう別々には見えなかった。

 すべて。

 一つの場所へ続いている。

 幻影移動(シャドウ・ステップ)。

 影から影へ移動する術。

 幻影(ファントム)。

 影から自分を生み出す術。

 影刃(シャドウ・エッジ)。

 影を刃として纏う術。

 今まで。

 別々の魔法だと思っていた。

 けれど違う。

 すべて。

 同じ場所から始まっている。

 ――影。

 学院で、自分の影が初めて魔力へ応えた日のことを思い出した。

 怖くなってオルドのところへ行った。

 先生は驚いた。

 そして、いつもの穏やかな顔ではなく。

 真剣な目で言った。

『君がその魔法を使えることを――誰にも知られてはいけない』

 あれから隠した。

 昼は普通の魔法を使い。

 誰もいなくなってから、一人で影を動かした。

 何度も失敗した。

 転んだ。

 短剣を落とした。

 作った幻影が、自分と全く違う方向へ歩いていったこともある。

 それでも楽しかった。

 自分だけの魔法を覚えていくことが。

 少しずつ影は応えてくれるようになった。

 そして、あの日。

 学生を助けるために初めて人前で使った。

 オルドとの約束を破り。

 学院を追放された。

 雨の中。

 一人になった。

 でも。

 あの日から、すべてが始まった。

 古びた箱。

 ペンダント。

 Ignis(イグニス)。

 Aqua(アクア)。

 Gaia(ガイア)。

 Aeris(エアリス)。

 Volt(ボルト)。

 Lumia(ルミア)。

 カイル。

 ミナ。

 エレナ。

 レオン。

 そして。

 ノア。

 戦うたびに。

 傷つくたびに。

 迷うたびに。

 少しずつ。

 自分の影の使い方を覚えてきた。

 Umbra(アンブラ)が教えてくれたわけではない。

 オルドが完成させてくれたわけでもない。

 誰かから与えられた答えでもない。

 全部。

 自分が歩いてきた道の中にあった。

「……先生」

 オルドの顔が浮かぶ。

『君がその魔法を使えることを――誰にも知られてはいけない』

 ルティスは少しだけ笑った。

「先生。ごめん」

 自分の影へ触れる。

「私、この魔法が好きみたい」

 ――ドクン。

 Umbra(アンブラ)が脈打った。

 それだけ。

 答えをくれるわけではない。

 ルティスを操るわけでもない。

 ただ、そこにいる。

 なら、どう使うかを決めるのは。

 自分だ。

「これは――私の魔法」

 ルティスが消えた。

 

「ルティス!」

 カイルが叫ぶ。

 返事はない。

 巨大な黒い獣が中央塔を覆っている。

 ノアが周囲を見る。

「逃げたか」

「違います!」

 壁際からミナが叫んだ。

 まだ立てない。

 それでも。

 声だけは強かった。

「ルティスさんは逃げない!」

「なら、どこにいる」

「ここ」

 声。

 ノアが振り返る。

 誰もいない。

「こっち」

 反対。

 いない。

 背後。

 黒い刃。

 ノアが杖で受ける。

 だが。

 そこにいたのは影だけだった。

 一人。

 ルティスが現れる。

 続いて。

 二人。

 三人。

 四人。

 塔中の影から。

 次々とルティスが現れた。

「幻影……」

「そう」

 一人が答える。

「でも」

 別のルティス。

「それだけじゃない」

 ノアが杖を振る。

 幻影が消える。

 だが。

 消えた瞬間。

 別の影から現れる。

 右。

 左。

 正面。

 背後。

 頭上。

 足元。

 本物と幻影が入れ替わり続ける。

「どれだ……」

 ノアの声が揺れた。

「どれが本物だ!」

「全部、影」

 ルティスの声が塔中から響く。

「でも――」

 ノア自身の影が揺れた。

「私は、どこにでもいる」

 ノアが魔力を爆発させる。

 すべての幻影が吹き飛んだ。

「出てこい!」

 静寂。

 その時。

 ノアの足元。

 自分自身の影から。

 手が伸びた。

「――!」

 ルティス。

 黒い刃を纏った短剣が、杖へ叩きつけられる。

 ――ガキンッ!

 先ほどカイルが入れた亀裂。

 そこへ。

 さらに亀裂が走った。

「くっ……!」

 ルティスは再び影へ沈む。

 ノアが周囲を見る。

 もう。

 目では追えない。

 幻影移動(シャドウ・ステップ)。

 幻影(ファントム)。

 影刃(シャドウ・エッジ)。

 三つの術が。

 一つへ繋がる。

 いや。

 最初から。

 一つだった。

「影魔法――」

 ルティスの声。

 光が消えた。

 風が止まる。

 音さえも。

 影の中へ呑み込まれていく。

 柱の影。

 瓦礫の影。

 カイルの影。

 ミナの影。

 レオンの影。

 ノアの影。

 そして。

 ルティスの影。

 境目が消える。

 世界そのものがゆっくりと闇へ沈んだ。

「……何だ、これは」

 ノアの声。

 さっきまでとは違う。

 ここは影脈ではない。

 ルティスが影脈を移動しているのでもない。

 現実に存在するすべての影を、一つの領域として重ねている。

 ノアが初めて見る魔法。

 そして。

 闇の中から。

 ルティスが答えた。

「影界蝕(シャドウ・エクリプス)」

挿絵(By みてみん)

 完全な闇だった。

 そこに立っているのはノアだけ。

 どこにもルティスはいない。

 だが。

 同時にどこにでもいる。

 影が揺れるたびにルティスが現れ、ノアが杖を振れば消える。

 背後。

 右。

 左。

 頭上。

 足元。

 何十ものルティスが現れては消えていく。

「こんな……」

 ノアが魔法を放つ。

 届かない。

「こんな魔法が……!」

「ノア」

 ルティスの声がした。

「あなたは七つの本体を集めるって言った」

 振り返る。

 いない。

「七つの器を見つけて」

 別の場所。

「神を倒すって」

「それがどうした!」

「私は――」

 影が揺れる。

「そんなものの器になるつもりはない」

「……何?」

「Umbra(アンブラ)が本体だろうと、神の力だろうと、そんなの関係ない」

「お前は分かっていない! その力があれば、神すら超えられる!」

「だから何?」

 ノアが止まる。

「私は神になりたいわけじゃない」

 ルティスの声が。

 闇のあちこちから響く。

「世界を思い通りにする力もいらない」

「綺麗事だ!」

「そうかもね」

 一つの影。

「先生は死んだ」

 別の影。

「エレナは、まだ帰ってこられない」

 また一つ。

「学院からも追い出された」

「だからこそ力が必要なんだ!」

「違う」

 ルティスの声は静かだった。

「だから分かったの」

 カイルの影。

 ミナの影。

 レオンの影。

 そして。

 自分の影。

「全部を思い通りにしなくても――進める」

「……」

「私は世界を選びたいんじゃない。世界を私の思い通りにしたいんでもない」

 ノア自身の影が揺れる。

 そこからルティスが現れた。

「自分がどっちへ進むか。それくらい――自分で決めたい」

「……!」

「それで十分!」

 短剣を振り抜いた。

 ――キィンッ!

 ノアの杖が砕ける。

 同時に短剣の切っ先が銀色の仮面を掠めた。

 ――ピシッ。

 一本。

 二本。

 亀裂が蜘蛛の巣のように広がる。

 そして。

 ――パキン。

 銀色の破片が宙を舞った。

 

 影界蝕が解けた。

 光が戻る。

 風が吹く。

 銀色の髪が揺れた。

 仮面の下にいたのは。

 怪物でも。

 異形でもなかった。

 ただ一人の青年だった。

 鋭い紫の瞳。

 整った顔立ち。

 そして今まで仮面に隠されていた。

 驚き。

 苛立ち。

 僅かな動揺。

 ルティスも思わず目を見開いた。

 カイルも黙る。

 レオンだけは特に驚いた様子を見せなかった。

「え……」

 ミナの声。

「……?」

 ルティスが振り返る。

 ミナが目を丸くしていた。

「え……え〜〜っ!?」

「何!?」

「ちょっといい男っ!」

「……は?」

 ルティスの声が止まった。

 カイルがゆっくりミナを見る。

「お前……今それ言う?」

「だって! ずっと仮面だったから、もっとこう……怖い感じの人だと思ってたんですよ!」

「いや、怖い奴だろ」

「それとこれとは別です!」

「別なのかよ」

「別です!」

 ノアの眉が僅かに動いた。

 初めてだった。

 あのノアが、明らかに返答に困っている。

 レオンが小さく息を吐く。

「……今までで一番効いているかもしれないな」

「何がだ」

「いや。気にするな」

「……貴様」

「ちょっと!」

 ルティスが声を上げる。

「まだ終わってないから!」

「あ」

 ミナが慌てて弓を構え直した。

「そうでした」

 

 ノアの周囲を覆っていた影が崩れていく。

 巨大な黒い獣も。

 塔を覆っていた闇も。

 黒い霧となって消えた。

 砕けた杖が床を転がる。

 その隣には二つに割れた銀色の仮面。

 ノアは片膝をついていた。

 ルティスはその前に立つ。

 短剣を構えていた。

 けれど、振り下ろさない。

「……なぜ止める」

 ルティスは短剣を下ろした。

「あなたを殺すために戦ったんじゃないから」

「甘いな」

「かもね」

 短剣を鞘へ戻す。

「でも、それも私が決める」

 ノアは黙った。

 風が銀色の髪を揺らす。

「ノア」

 レオンが歩いてくる。

「終わりだ」

「……終わり?」

 ノアは小さく笑った。

「違う」

 ルティスの表情が変わる。

「境界は存在している。ASTRA(アストラ)も、あの神も。そして、六つの本体が本当に存在するのか、器とは何なのか、なぜUmbra(アンブラ)だけがこちら側へ渡ったのか――私はまだ何一つ確かめていない」

 そして。

 少しだけ間を置く。

「だから私は調べる」

「……また境界を開くの?」

「必要なら」

「じゃあ」

 ルティスは短剣の柄へ手を置く。

「次も止める」

 ノアの目が細くなる。

「ならば次も止めてみろ」

「うん」

 即答だった。

 しばらく二人は互いを見る。

「でも」

 ルティスが言った。

「私も知りたい」

「……何を」

「Umbra(アンブラ)のこと。ASTRA(アストラ)のこと。宝玉のこと。どうして私に宿るのか」

「ならば、私と同じではないか」

「違う」

 ルティスは首を振った。

「私は、知りたいからって誰かを道具にはしない」

 ノアは黙った。

「エレナも私もそんなことのために生きてるんじゃない」

「……」

「あなたが本当にしたいこと……月を見ることじゃないの?」

 ノアの表情が変わる。

「そんなこと感じられたなら、あなたも本当はわかってるんじゃない?」

 やがて。

「……くだらないことを……」

 ルティスは少し笑った。

 考えが同じになったわけではない。

 分かり合えたわけでもない。

 きっと。

 次に会えば、また戦うかもしれない。

 それでも。

 今は、それでよかった。

 

 街の鐘が鳴った。

 警告の鐘ではない。

 いつものエアリオンの鐘。

「……終わりましたね」

 ミナが空を見る。

「ひとまずな」

 カイルが答える。

「ひとまず?」

「こいつらと旅してて、全部終わったことなんてあったか?」

 ミナは少し考えた。

「……ないですね」

「だろ?」

 ミナが笑う。

 ルティスも笑った。

 

 夕方。

 三人はエアリオンの出口に立っていた。

 空は茜色に染まり、巨大な風車が夕陽を受けながらゆっくりと回っている。

 空中橋を人々が歩いていた。

 少し離れたところに、レオンがいた。

 そのさらに後ろには、杖と仮面を失ったノアがいる。

「レオン」

 ルティスが呼ぶ。

「何だ」

「エレナのこと」

「……ああ」

「諦めないから」

 レオンが僅かに目を見開いた。

「きっと方法はある」

「根拠は?」

「ない」

 即答だった。

 カイルが頭を抱える。

「そこはもうちょっと考えて言えよ」

「ないものはないんだから仕方ないでしょ」

「開き直るな」

 ルティスは笑った。

 それから。

 レオンを見る。

「でも、探す」

「……」

「約束したから」

 レオンはしばらくルティスを見つめた。

 やがて。

「……そうか」

 ほんの少しだけ笑った。

 

 三人は歩き出した。

 しばらくして。

 ルティスは胸元から古びたペンダントを取り出した。

 羅針盤。

 この長い旅の始まり。

 学院を追放された日。

 雨の中で見つけた箱。

 その中に入っていたもの。

 ずっと。

 自分を宝玉へ導くためのものだと思っていた。

 けれど。

 今は少し違って見える。

 もしかしたら。

 最初からUmbra(アンブラ)をASTRA(アストラ)へ導くためのものだったのかもしれない。

 それでも、箱を開けたのは自分だ。

 旅へ出ると決めたのも自分。

 宝玉を探すその途中で。

 カイルと出会った。

 ミナと出会った。

 たくさんの人と出会った。

 誰かが用意したのが最初の道標だったとしても。

 そこから先を歩いたのは自分たちだ。

「もう、動かないですね」

 ミナが隣から覗き込む。

「うん」

 針は静かなままだった。

「役目を終えたんでしょうか?」

「たぶん」

「じゃあ」

 カイルが尋ねる。

「次はどっちだ?」

「……え?」

「だから、次どこ行くんだよ」

 ルティスは羅針盤を見る。

 針は動かない。

 北も。

 南も。

 東も。

 西も。

 どこも示さない。

 昔だったら。

 困ったかもしれない。

 道標がなければ、どこへ進めばいいか分からなかった。

 でも。

 今は。

 ルティスは顔を上げた。

 道が二つに分かれている。

 右。

 左。

 どちらへ行っても、その先がどうなっているのか分からない。

 ルティスは右を指差した。

「こっち」

 カイルが羅針盤を見る。

「針、動いたのか?」

「ううん」

「じゃあ、なんでそっちなんだよ」

 ルティスはペンダントを閉じた。

 そして。

 笑った。

「行ってみたいから」

 カイルが黙る。

 ミナも一瞬だけ目を丸くした。

 そして。

 笑った。

「いいですね」

「いいのか?」

「いいじゃないですか。行き先が決まってない旅も」

 カイルが頭を掻いた。

「まあ……好きにしろ」

「カイルも来るんでしょ?」

「ここまで来て置いてく気かよ」

「じゃあ決まり」

 三人は右の道へ進んだ。

 

 夕陽が三人の影を長く伸ばしていた。

 ルティスはふと、自分の足元を見る。

 黒い影。

 昔は隠さなければならないものだった。

 誰にも知られてはいけない。

 誰にも見せてはいけない。

 そう思っていた。

 でも。

 もう隠そうとは思わなかった。

「……先生」

 ルティスが呟く。

「どうしました?」

 ミナが振り返る。

「ううん」

 オルドがいたら。

 何と言うだろう。

 怒るだろうか。

 呆れるだろうか。

 それとも。

 いつものように。

 少し困った顔で笑うだろうか。

「先生」

 もう一度。

 小さく呼ぶ。

 そして。

 笑った。

「私、この魔法が好きだよ」

 返事はない。

 風だけが静かに吹いた。

 黒い髪が揺れる。

 ルティスは前を見る。

 炎は、勇気を。

 水は、記憶を。

 大地は、意志を。

 風は、自由を。

 雷は、決意を。

 光は、希望を。

 そして。

 影は――。

 ルティスは少し考えた。

 答えなんて本当は決まっていないのかもしれない。

 宝玉自身が、そんな意味を持っているわけではない。

 ただ、自分たちが旅の中で、そう感じただけ。

 だから。

 ルティスにとって。

 影は――。

 受容を。


 七つの宝玉は一つになるためにあったのではない。

 違う力。

 違う願い。

 違う生き方。

 それでも。

 互いを支えることはできる。

 ヴァルディアで見た言葉。

『七つは互いを支えるためにある』

 あの時は。

 その意味を、本当には理解していなかった。

 今なら少しだけ分かる。

 カイル。

 ミナ。

 エレナ。

 レオン。

 オルド。

 そして。

 ノアさえも。

 誰も同じではない。

 同じ答えを選ぶ必要もない。

 それでも出会ったことで変わったものがある。

「ルティス!」

 少し先からミナが振り返る。

「早く!」

「置いてくぞ」

 カイルも言う。

「今行く!」

 ルティスは走った。

 もう。

 一人ではない。

 エレナを連れ戻すことはできなかった。

 ASTRA(アストラ)の謎も残っている。

 境界の向こうにいた神が、本当は何者なのか。

 ノアの言うことが正しいのなら、なぜUmbra(アンブラ)だけがASTRA(アストラ)からこちら側へ渡ったのか。

 残る六つの本体は、本当にASTRA(アストラ)存在するのか。

 なぜ自分は、Umbra(アンブラ)を宿すことができたのか。

 知らないことは。

 まだ、たくさんある。

 ノアも。

 きっと諦めてはいない。

 でも。

 それでいい。

 答えがないなら、探せばいい。

 道がないなら、歩けばいい。

 誰かが決めた未来ではなく。

 自分たちで選びながら。

 ルティスは二人に追いついた。

「ねえ」

「何ですか?」

「お腹空いた」

 ミナが立ち止まった。

「さっき食べたじゃないですか!」

「戦ったから」

 一瞬。

 ミナが黙る。

「……それ、私の台詞です」

 カイルが吹き出した。

「似てきたな、お前ら」

「似てない」

「似てません!」

 二人の声が重なった。

 また。

 カイルが笑った。

 ルティスも。

 ミナも。

 笑った。

 三人の声が風の中へ溶けていく。

 ルティスは一度だけ振り返った。

 遠く。

 夕暮れのエアリオン。

 そのさらに向こう。

 今はもう見えない世界へ。

「……またね、エレナ」

 風が吹いた。

 返事はない。

 それでも。

 ルティスは笑った。

 エレナとの約束はまだ終わっていない。

 いつか必ず方法を見つけ出す。

 そして。

 今度こそ彼女を連れて帰る。

 ルティスは前を向いた。

 右へ行くのが正しいのか。

 左へ行くべきだったのか。

 そんなことはまだ分からない。

 だからこそ。

 自分で決める。

「行こう」

 まだ見たことのない世界へ。

 六つの宝玉と。

 胸の奥のUmbra(アンブラ)とともに。

 

 ――Seven Jewels。

 これは世界を救うために選ばれた少女の物語ではない。

 運命に選ばれた英雄の物語でもない。

 偶然、Umbra(アンブラ)をその身に宿した一人の少女が。

 仲間と出会い。

 失ったものと向き合い。

 自分の力を受け入れ。

 自分の未来を――自分で選ぶまでの物語。

 七つの宝玉を巡る旅は、ここで一つの終わりを迎えた。

 けれど。

 世界の謎はまだ終わっていない。

 境界の向こうにはASTRA(アストラ)がある。

 そのさらに先に何があるのか。

 まだ誰も知らない。

 そして。

 かつて影脈の中へ消えた一人の少女がいる。

 記録に残された文字は。

 死亡ではない。

 ただ一言。

 ――No.09 消失。

 その意味を。

 この時はまだ。

 誰も知らなかった。

 

 風が吹く。

 三つの影が夕陽の向こうへ伸びていく。

 そして。

 その先にはまだ誰も歩いたことのない道が続いていた。


 ――Chapter 20 END

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