Epilogue― 境界の彼方
Epilogue― 境界の彼方
境界が閉じてから、三か月が過ぎた。
王都から少し離れた、小さな町。
その外れに建つ古い二階建ての家を、ルティスたち三人は借りていた。
最初から、一緒に暮らそうと決めていたわけではない。
戦いが終わったあと、三人ともすぐに帰る場所がなかった。
ルティスは学院へ戻ることもできず、カイルにはもう故郷に帰る家がない。
そしてミナも、
「じゃあ私だけ帰ります」
とは言わなかった。
宿屋に泊まり続けるより、三人で家を借りた方が安い。
最初は、ただそれだけの理由だった。
けれど三か月経った今も、誰一人として「出ていく」とは言わなかった。
暮らしを支えているのは、カイルの昔取った杵柄だった。
商人の護衛や魔物退治、旅人の捜索。以前からそうした仕事を請け負っていたカイルが依頼を探し、今では三人でこなしている。
世界を救ったあとに、家賃を払うための仕事を探す。
エレナを連れ戻す方法を探しながら。
「明日、仕事入ったぞ」
夕暮れの台所で、カイルが買ってきた食材を机へ置いた。
「何ですか?」
「街道の護衛。商人二人を隣町まで」
野菜を洗っていたミナの横から、ルティスが顔を上げる。
「報酬は?」
「三人で銀貨十二枚」
「行く」
「即答ですね」
「家賃」
ミナが笑った。
「じゃあ、その前に夕飯ですね。ルティスさん、これお願いします」
渡されたのは芋だった。
「……何すればいいの?」
「皮をむいてください」
「どうやって?」
ミナの手が止まる。
カイルもルティスを見る。
「……知らないのか?」
「知らない」
「じゃあ、私が教えます」
ミナに教わりながら、ルティスが慎重にナイフを入れる。
皮と一緒に、ごっそり実が落ちた。
「……」
「……」
「少し厚いな」
「かなりです」
「難しい……」
三人の笑い声が、小さな家に響いた。
その夜。
三人は同じテーブルで夕食を食べた。
豪華な料理ではない。
ミナが作った少し薄味のスープと、カイルが焼いた肉。それからルティスが半分ほど小さくしてしまった芋。
それでも、不思議と美味しかった。
ルティスは二人の会話を聞きながら、ふと思う。
明日は護衛の仕事へ行く。
終わったら、この家へ帰ってくる。
そしてまた、三人で夕食を食べる。
学院を追われたあの日には、想像もしなかった。
いつの間にか。
ここが――帰る場所になっていた。
――ドクン。
胸の奥で、何かが脈打った。
ルティスはそっと胸元へ手を置く。
「……Umbra?」
返事はない。
ただ、灯りに照らされた足元の影が、ほんの僅かに揺れた。
「ルティスさん?」
ミナがこちらを見ている。
「どうしました?」
「……なんでもない」
ルティスは再び二人の方を向いた。
「明日の護衛、何時から?」
「朝早いぞ」
「起こして」
「自分で起きろよ」
「無理」
ミナが笑う。
カイルも小さく笑った。
ルティスも笑った。
その足元で。
影だけが――もう一度、静かに揺れた。
同じ頃。
王都から遠く離れた場所を、一人の男が歩いていた。
ノア。
敗れた。
境界は閉じた。
あれほど求めたASTRAへの道も、今はもう存在しない。
それでも、ノアの足取りに迷いはなかった。
終わってはいない。
あの戦いで見たものが、頭から離れなかった。
エレナ。
宝玉を持っていなかったはずの彼女が、Lumiaの力を引き出せた。
こちら側に宝玉が存在しているにもかかわらず――だ。
ペンダントが何かのパイプ役になってくれたのだと最初は思っていたが、よく考えればそんな都合の良い話はない......
考えられる可能性はもう一つ。
ASTRA。
宝玉が本体の力を写したものなら、その源は向こう側に存在している。
そしてエレナが、宝玉を介さずにその力を使ったのだとすれば。
彼女は――。
向こう側にあるLumiaそのものと、直接繋がっている。
「……器」
正しい名前など知らない。
ノアが、そう呼んだだけだった。
だが、人間が本体と直接繋がることができるのなら――。
確かめる価値はある。
ASTRAに何があるのか。
七つの本体とは何なのか。。
もう一度、境界を開く。
今度は、確かめるために。
「待ってろ」
誰に向けた言葉なのか。
ノアの歩みはまだ止まらない。
――ASTRA。
境界が閉じてから、どれほどの時間が経ったのか。
こちら側と同じように時間が流れているのかさえ分からない。
音のない大地。
空には淡い光が漂い、見たこともない地形が遥か彼方まで続いている。
そのさらに遠く。
巨大な存在が立っていた。
あの日、境界を越え、ルティスたちの世界へ現れた存在。
――神。
それは今、動かない。
ただ静かに、境界が存在していた場所を見つめている。
もう、そこには何もない。
少し離れた場所に、エレナが立っていた。
白い衣が、ASTRAの風に揺れている。
帰る方法は、まだ見つかっていない。
だが不思議と、以前ほど焦ってはいなかった。
エレナは胸元へ手を置いた。
「ルティス……」
返事はない。
当然だった。
二人の間には、世界そのものを隔てる境界がある。
その時だった。
エレナの指先に、淡い光が灯った。
「……また」
光はゆっくりと掌へ集まっていく。
Lumia。
エレナは眉を寄せた。
宝玉はない。
Lumiaの宝玉は、境界の向こう――ルティスたちの世界に残されている。
それなのに境界が閉じた今も、自分はその力を使うことができる。
戦いの最中は、考える余裕などなかった。
ただ必要だったから使った。
だが今になって思う。
――どうして?
宝玉を介していない。
境界さえ閉じている。
なのに、光は消えない。
むしろASTRAへ来てからの方が、はっきりと感じる。
この力は自分の中から生まれているわけではない。
どこかから――届いている。
まるでこの世界のどこかに存在する何かと、自分が直接繋がっているように。
エレナが顔を上げた。
遥か彼方。
暗い大地の向こうに、一筋の光が見えた。
淡く。
しかし確かに輝いている。
エレナは掌の光と、遠くに見える光を交互に見る。
同じだった。
同じ温度。
同じ感覚。
Lumia。
「……あそこに、何があるの?」
答える者はいない。
神も動かない。
ただ。
遥か彼方の光だけが、エレナの問いに応えるように――一度、強く瞬いた。
そこから、さらに遠く。
神の姿さえ見えない場所。
水音がしていた。
静かな水面が、どこまでも続いている。
風はほとんどない。
それでも水面には、ときおり小さな波紋が生まれ、淡い光を揺らしていた。
その岸辺に、一人の女が座っていた。
長い髪が、僅かな風に揺れている。
彼女は空を見上げていた。
女は静かに目を閉じた。
すると。
時々、感じる。
遠い。
本当に遠い場所から。
誰かが自分を呼んでいるような気がする。
声ではない。
言葉でもない。
名前を呼ばれたわけでもない。
それでも。
その感覚だけは、ずっと消えなかった。
何年経っても。
何もないこの世界で、一人きりになっても。
忘れなかった。
女は胸元へ手を置いた。
――トクン。
鼓動が一つ。
同時に。
目の前の水面へ、小さな波紋が広がった。
女はその波紋を見つめる。
――トクン。
もう一度。
また水面が揺れる。
一つ。
また一つ。
まるで、彼女の鼓動に呼応するように。
やがて波紋は静かに重なり、水面いっぱいへ広がっていった。
女はそれを見つめながら、小さく笑った。
「……まだ、覚えてるよ」
誰もいない世界で。
誰にも届かない声で。
それでも、大切な誰かへ語りかけるように。
「約束したもんね」
――いつか。
一緒に月を見よう。
女はもう一度、空を見上げた。
いつか。
月を見る。
その時は――一人ではなく……
女の瞳に、ほんの僅かに光が宿った。
その足元で静かだった水面が、もう一度だけ揺れた。
二つの世界の誰一人として、まだ知らなかった。
宝玉とは、本当は何だったのか。
なぜ存在したのか。
なぜUmbraだけが、世界を越えたのか。
エレナに宿る光が何を意味するのか。
そして――。
人と力が繋がることが、二つの世界にとって何を意味するのか。
ただ一つ。
かつて壁に刻まれていた言葉だけが、すでに答えを示していた。
――七つは、互いを支えるためにある。
その本当の意味を。
彼らはまだ知らない。
境界は閉じた。
戦いは終わった。
けれど。
世界の向こう側では、すでに次の物語が動き始めていた。
Seven Jewels
――END――
――The story continues.




