Chapter 18 ― 境界の向こうへ
Chapter 18 ― 境界の向こうへ
エアリオンが見えてきた。
空に浮かぶ、風の都。
巨大な風車。
雲の間を渡る橋。
空へ向かって伸びる高い塔。
かつてAerisを求めて訪れた時と、街そのものは変わっていない。
けれど――空だけが違っていた。
雨は上がっていたが、厚い雲が都の上空を覆っている。
その中心。
空そのものを引き裂くように、黒い亀裂が走っていた。
ヴァルセリアから見えた時には、一本だった。
それが今は何本にも枝分かれし、空を覆うように広がっている。
まるで、向こう側から何かが押し広げているように。
「……何、あれ」
ミナが立ち止まった。
いつもの軽い調子はない。
「広がってる……」
ルティスも足を止める。
胸の奥が熱い。
――ドクン
Umbraが脈打った。
それだけではない。
鞄の中から、微かな震えが伝わってくる。
Ignis。
Aqua。
Gaia。
Aeris。
Volt。
Lumia。
六つの宝玉。
まるで空の亀裂に呼応するように、それぞれが小さく震えている。
カイルが腰の剣へ手を添えた。
「急ごう。嫌な予感しかしねえ」
「うん」
三人はエアリオンへ向かった。
街へ足を踏み入れた瞬間、ミナが立ち止まった。
「……やっぱり、おかしい」
ルティスが振り返る。
ミナは答えず、目を閉じた。
赤茶色の髪が右へ流れる。
次の瞬間には左へ。
そして突然、真上へ舞い上がった。
ミナが目を開く。
「風に方向がない」
カイルが周囲を見回した。
「どういうことだ?」
「いろんな場所から来てるんです。北とか南とか、そういう話じゃなくて……」
言葉を探しながら、ミナは巨大な風車を見上げた。
羽根がゆっくりと回っている。
その回転が止まり――今度は逆方向へ回り始めた。
「こんなの、風じゃない」
ミナの視線が空へ向かう。
「二つの流れが、ぶつかってるみたい」
「二つ?」
「こっちの風と……」
黒い亀裂を見つめる。
「向こうから来てる風」
ルティスも空を見上げた。
亀裂の隙間から、ときおり淡い光が漏れている。
青でも白でもない。
この世界では見たことのない色。
「……ASTRA」
その名を口にした瞬間だった。
――ドクン!
「っ……」
ルティスが胸元を押さえる。
「ルティス?」
カイルがすぐに振り返った。
「大丈夫」
「本当か?」
「うん。ただ……」
ルティスは亀裂から目を離さなかった。
「近い」
「何がです?」
「向こう側が」
三人の間に、それ以上の言葉はなかった。
街には、ほとんど人が残っていなかった。
以前は商人や旅人で賑わっていた大通り。
風を利用した乗り物が行き交っていた広場。
そのすべてが、今は静まり返っている。
店の扉は閉ざされ、窓には板が打ちつけられていた。
慌てて避難したのだろう。
道には荷車や荷物まで置き去りになっている。
「みんな、逃げたみたいですね」
「その方がいい」
カイルは歩きながら周囲へ目を配っていた。
「これから何が起きるか分からん」
街の中心。
巨大な中央塔。
その最上部を、黒い光が包んでいる。
ミナが弓を握り直した。
「……あそこですね」
ルティスは頷いた。
「行こう」
中央塔の扉は開いていた。
中へ足を踏み入れた瞬間、冷たい空気が肌を撫でる。
「寒っ……」
ミナが腕をさすった。
カイルが首を傾げる。
「外より寒いな。風も入ってないのに」
「風じゃない」
ルティスは壁へ目を向けた。
壁。
床。
天井。
古代文字の刻まれた細い溝を、淡い光が流れている。
「魔力……」
指先で壁に触れる。
微かな振動が伝わってきた。
「この塔全体を流れてる」
中央塔。
六つの副塔。
それらを繋ぐ巨大な円。
「やっぱり、ここが中心なんだ」
三人は階段を上った。
しばらく進んだところで、ルティスの足が止まる。
壁に二つの言葉が刻まれていた。
――此界。
その向かい。
――彼界。
二つの言葉の間には一本の線。
さらに上へ進むと、同じ図が現れた。
今度は二本。
そして、さらに上。
二本の線が――途中で重なっている。
「これ……」
ミナが壁へ近づいた。
「世界、ですよね」
「たぶん」
ルティスは最後の図を見つめる。
アルカで見た記録。
ヴァルセリアで見つけた設計図。
レオンが持っていた古い資料。
すべてが、一つに繋がっていく。
「近づけるだけじゃない」
ルティスが呟く。
「重ねるんだ」
――ドンッ!
塔全体が大きく揺れた。
「きゃっ!」
ミナが壁へ手をつく。
上から細かな石片が落ちてくる。
カイルが階段を見上げた。
「急ぐぞ!」
三人は一気に最上階へ駆け上がった。
辿り着いた先は、巨大な円形の部屋だった。
その中央に、古代の魔法陣が広がっている。
七つの円。
それらを繋ぐ複雑な古代文字。
六つの場所から、異なる色の光が立ち上っていた。
「……宝玉」
ルティスが息を呑む。
自分たちが持つ六つの宝玉と同じ色。
だが、そこに宝玉そのものが置かれているわけではない。
魔法陣が、ルティスたちの持つ宝玉へ共鳴しているのだ。
そして七つ目。
中央だけが――黒い。
胸の奥が脈打った。
――ドクン
「さて始めようか」
声が響いた。
三人が顔を上げる。
魔法陣の向こう側。
ノア。
その周囲を、暁の教団の魔術師たちが囲んでいる。
ルティスは短剣へ手をかけた。
カイルが鞘から剣を抜き、ミナも静かに弓を構える。
だがノアは三人を見ても動かなかった。
「待っていた」
その一言に、ルティスの表情が険しくなる。
ノアの視線が、ルティスの胸元へ落ちる。
「Umbra」
ルティスは何も言わなかった。
「境界を開くために、Umbraが必要」
「ああ」
「だから、私がここへ来るのを待ってた」
ノアは否定しなかった。
カイルが一歩前へ出る。
「悪いけど、こいつには指一本触れさせないぜ」
剣を構え、そのまま踏み込む。
だが――
――バンッ!
黒い障壁が現れた。
「ぐっ!」
カイルの身体が弾かれる。
「カイル!」
「平気だ!」
体勢を立て直した直後、ミナの矢が障壁へ飛ぶ。
矢は表面に触れた瞬間、大きく軌道を逸らされた。
「駄目……!」
ミナが次の矢へ手を伸ばす。
その時。
――ザンッ!
別の方向から、黒い長剣が障壁へ叩き込まれた。
魔力の壁に大きな亀裂が走る。
「下がれ!」
ルティスが振り返った。
「レオン!」
レオンはまっすぐ、ノアを見ていた。
「来てくれたのね」
「……勘違いするな」
長剣を下ろさない。
「俺は、仲間になったつもりはない」
ルティスは少しだけ目を細めた。
「うん」
「あの男に――」
レオンの視線がノアへ戻る。
「確かめなければならないことがある」
ノアは静かにレオンを見ていた。
驚いている様子はない。
「エレナを取り戻せる。境界を開けば、失われた者が戻る可能性がある」
レオンは続けてノアに問う。
「だが、これは何だ」
レオンが黒い亀裂を見上げる。
「これでは妹を取り戻しても世界が壊れる」
しばらくノアは答えなかった。
銀色の仮面が、ゆっくりと頭上へ向く。
「……境界を開くこと自体が目的ではない」
ルティスの眉が動いた。
「どういうこと?」
ノアは答えない。
黒い亀裂。
その向こうから漏れる光を見つめている。
まるでそのさらに奥を見ようとしているように。
ルティスの中に、嫌な感覚が生まれた。
「……何かを探してるの?」
ノアの視線がルティスへ戻る。
「確かめたいものがある」
「ASTRAに?」
「ああ」
それだけだった。
レオンの手が、長剣の柄を強く握る。
「お前自身は――何を取り戻そうとしている」
ノアは答えなかった。
長い沈黙。
その時。
――ドンッ!
頭上の亀裂が脈打った。
「……!」
淡い光が広がる。
その向こうに一人の少女が立っていた。
銀紫の髪。
白い服。
ルティスの目が大きくなる。
「エレナ……!」
だが。
隣にいたレオンは動かなかった。
いや、動けなかった。
「……お兄ちゃん」
その声を聞いた瞬間、レオンの剣先が下がった。
「エレナ……」
掠れた声。
一歩。
レオンが境界へ近づく。
「本当に……そこにいるんだな」
エレナが小さく頷いた。
「うん」
「だったら戻ってこい」
レオンの声が震える。
「境界は開いてる。今なら……今なら、お前を――」
「駄目なの、お兄ちゃん」
エレナは静かに首を横に振った。
レオンの足が止まる。
「私だけが戻るわけじゃない」
エレナは背後へ目を向けた。
ASTRA。
「このまま境界が重なれば、ASTRAそのものがそちらへ引かれる。そちらの世界だって無事では済まない」
レオンは何も言えなかった。
ルティスが境界へ近づく。
「じゃあ、今起きてることは……」
「二つの世界が近づきすぎてる」
エレナは頷いた。
「この先どうなるかは、私にも分からない」
その言葉にルティスはノアを見る。
だがノアはエレナではなく。
その背後を見ていた。
「……ノア?」
返事はない。
「あなた、何を見てるの?」
ノアの視線は動かなかった。
――ドンッ!!
突然。
魔法陣が爆発するように光った。
「何だ!?」
カイルが叫ぶ。
六つの円から光が走る。
すべてが中央へ向かう。
そしてルティスの影が――強く引かれた。
「っ……!」
膝をつく。
「ルティス!」
ミナが駆け寄ろうとする。
「待って!」
ルティスが叫んだ。
自分の影が細長く伸び、魔法陣の中央へ繋がっている。
胸の奥。
Umbraが激しく脈打った。
――ドクン!
――ドクン!
「くっ……!」
身体の中から何かを引きずり出されるような感覚。
違う。
魔法陣が――呼んでいる。
Umbraを。
「ノア!」
レオンが振り返る。
「止めろ!」
ノアは動かない。
レオンが長剣を振り抜く。
――ザンッ!
障壁に、さらに亀裂が走る。
「カイル!」
「おう!」
カイルが横から剣を叩き込む。
二人の刃が同時に黒い障壁を打ち砕いた。
「ミナ!」
「はい!」
矢が飛ぶ。
教団の魔術師が詠唱へ入る寸前、その手元を矢が弾いた。
カイルが前へ出る。
レオンが反対側を切り崩す。
その間をミナの矢が次々と抜けていく。
塔の最上階。
魔法陣を中心に。
戦いが始まった。
ルティスは立ち上がろうとした。
だが、影が動かない。
「……離して……!」
短剣を床へ突き立てる。
その時だった。
宝玉を入れている鞄の中から、赤い光が漏れた。
「……!」
Ignis。
続いて。
Aqua。
Gaia。
Aeris。
Volt。
Lumia。
六つの宝玉が、それぞれの光を放ち始める。
「宝玉が……!」
ミナが戦いながら振り返る。
ルティスには分かった。
ノアが操っているわけではない。
この魔法陣そのものに六つの宝玉が応えている。
そして。
自分の中のUmbraも。
七つすべてが、初めて同じ場所で共鳴している。
強い。
強すぎる。
七つの力が互いに引き合い、押し合い。
身体の内側まで揺さぶってくる。
「ルティス!」
境界の向こうからエレナが叫んだ。
「押さえ込まないで!」
「でも……このままじゃ……!」
「力を止めようとしたら、全部あなたへ返ってくる!」
「じゃあ、どうすればいいの!?」
エレナがルティスを見る。
「選んで!」
その声だけは、はっきりと届いた。
「その力を――あなたがどう使うのか!」
ルティスは目を閉じた。
炎。
水。
大地。
風。
雷。
光。
そして。
影。
旅の中で一つずつ触れてきた。
戦った。
迷った。
傷ついた。
それでも。
カイルと。
ミナと。
ここまで来た。
誰かに命じられた旅ではない。
誰かに選ばれたわけでもない。
自分たちで。
一つずつ辿り着いた。
Umbraだって同じだ。
自分自身ではない。
けれど。
確かに今、自分の中にある。
ヴァルディアで見た言葉が脳裏に蘇る。
――七つは、一つになるためにあるのではない。
――七つは、互いを支えるためにある。
「……そうか」
一つにする必要なんてない。
押さえ込む必要も。
混ぜ合わせる必要もない。
炎は炎。
水は水。
大地は大地。
風は風。
雷は雷。
光は光。
そして。
影は影。
「私が……決める」
ルティスの足元から。
影が広がった。
黒い光が六つの光の間へ入っていく。
七つ。
だが。
一つにはならない。
互いを押し潰さず。
奪い合わず。
それぞれのまま。
支え合う。
「――止まって!」
――ズンッ!!
七つの光が一斉に広がった。
魔法陣の振動が止まる。
ルティスを縛っていた影も、ゆっくりと足元へ戻っていった。
「はぁ……はぁ……」
ルティスは短剣を支えに立ち上がる。
ノアがこちらを見ていた。
「……制御したのか」
「違う」
ルティスは呼吸を整える。
「支えただけ」
六つの宝玉を見る。
「一つにする必要なんてなかった」
そして足元の影を見る。
「全部が別々のままでいい」
ノアは答えなかった。
ただ。
ゆっくりと空を見上げた。
その時、ルティスは気づいた。
黒い亀裂が止まっていない。
「……え?」
魔法陣の暴走は止まった。
七つの力も安定している。
なのに亀裂だけがゆっくりと、さらに広がっていく。
「どうして……」
エレナの顔色が変わった。
「まさか……」
ノアが小さく呟く。
「十分だ」
ルティスが振り返る。
「何が?」
ノアは答えなかった。
杖を床へ突き立てる。
――ドン
その瞬間。
音が消えた。
風も。
鐘も。
剣の音も。
すべてが。
消える。
黒い亀裂がゆっくりと左右へ開いた。
誰も動けなかった。
その向こうに。
初めて。
ASTRAが、はっきりと姿を現す。
こちらとは違う空。
果てしない大地。
水面のような光を放つ平原。
遠くに立ち並ぶ。
見たことのない建造物。
「……ASTRA」
ミナの声が震えた。
美しい。
そう思った。
けれど。
どこか怖い。
その世界の手前にエレナが立っている。
レオンが無意識に一歩前へ出た。
「エレナ……」
エレナも兄を見る。
けれど、すぐにその視線が背後へ向いた。
「……」
表情が変わった。
「どうしたの?」
ルティスが尋ねる。
返事はない。
エレナはただ遠くを見ていた。
そして。
「……閉じて」
「え?」
「ルティス」
エレナがこちらを見る。
「境界を閉じて」
その声が震えていた。
「今すぐ!」
――ズン
ASTRAの遥か彼方で何かが動いた。
ルティスが目を凝らす。
「……何?」
山だと思った。
だが。
違う。
雲でもない。
あまりにも大きすぎて。
最初は、それが一つの存在だと理解できなかった。
地平線の向こう。
巨大な輪郭が、ゆっくりと起き上がる。
「……嘘」
ミナの弓が下がる。
カイルも剣を構えたまま、動けない。
「生き物……なのか?」
答えたのはエレナだった。
「八年前……」
言葉が震える。
「あの夜、境界が壊れた時――私たちは、あれに気づいた」
ルティスの表情が変わる。
「私たち?」
「オルドたちと?」
エレナが頷く。
「あれへ続く道を、閉じたの」
「二度と、こちらへ気づかれないように」
巨大な影がゆっくりとこちらを向いた。
見えるはずがないほど遠い。
なのに。
分かる。
見られている。
ルティスの背中に冷たいものが走った。
「気づかれた……」
エレナが呟く。
「閉じて! 早く!」
その時だった。
「……やっと」
小さな声。
ルティスが振り返る。
ノアだった。
銀色の仮面の奥。
その視線は巨大な存在だけへ向けられている。
「ノア……?」
返事はない。
「お前……」
レオンも気づいた。
「知っているのか」
しばらくして。
ノアが口を開いた。
「古い記録に残っていた」
巨大な存在から目を離さない。
「世界へ干渉するもの」
「境界の奥に存在するもの」
そこで一度。
言葉を切る。
「――ASTRAの神」
「……神?」
ミナが呟いた。
ルティスはノアを見ていた。
恐れていない。
カイルも。
ミナも。
レオンでさえ。
目の前の存在に息を呑んでいる。
なのにノアだけが違う。
まるでずっと探していたものを。
ようやく見つけたような――。
「……待って」
嫌な予感がした。
「ノア」
ノアがルティスを見る。
「あなた……」
ルティスは巨大な存在を指した。
「あれに会うために、境界を開いたの?」
短い沈黙。
「会うためではない」
「じゃあ――」
ルティスはその先を口にするのが怖かった。
「何のため?」
ノアの視線が。
再びASTRAへ向く。
「奪うためだ」
「……何を?」
「力を」
レオンの顔が強張った。
「まさか……」
「神の力を?」
ノアは否定しなかった。
「そんなこと……」
ルティスは巨大な存在を見る。
「そんなことしてあなたの狙いは何っ?」
ノアは答えなかった。
「……馬鹿じゃないの」
ルティスが呟く。
怒りよりも理解できなかった。
「そんなもののために……世界がどうなってもいいの?」
「そんなもの?」
初めてノアの声が僅かに変わった。
ルティスが見る。
「願っても戻らないものがある」
静かな声だった。
「祈っても変わらないものもある」
それ以上は語らない。
ただ。
巨大な存在を見つめる。
「ならば――力を持つ側へ行けばいい」
ルティスは言葉を失った。
オルドを「利用価値」で語った男。
自分を生かした理由。
レオンを救った理由。
すべてがようやく一つに繋がった。
「……最初から」
ルティスが呟く。
「みんな、ここへ来るために使ってたのね」
ノアは否定しなかった。
レオンがゆっくりと長剣を構えた。
「……俺もか」
ノアの視線が、レオンへ向く。
「俺も、ここへ辿り着くための駒だったのか」
ノアは答えない。
「俺にエレナの話をしたのも、教団へ引き入れたのも――ルティスを、Umbraをここへ導くためか」
沈黙。
レオンの目が細くなる。
「だったら、一つだけ分からない」
ルティスがレオンを見る。
「レオン?」
「なぜ俺を生かした」
ノアの視線が、僅かに動いた。
「教団は俺を処分しようとした。あの影は、俺を殺すために送られたものだった」
ルティスの表情が変わる。
あの夜。
森でレオンを襲った影。
最後の一体だけが、突然、別の影に呑まれるように消えた。
あの時は分からなかった。
誰がやったのか。
けれど――。
「……やっぱりノアだったの?」
ノアは否定しなかった。
レオンが続ける。
「俺はもう教団を離れていた。お前の計画を疑い、ルティスたちに情報まで渡した。処分されてもおかしくなかった」
一歩。
レオンが前へ出る。
「それでも、お前は俺を生かした」
「……必要だった」
ようやく、ノアが答えた。
「何に」
「ここへ来るために」
「嘘をつけ」
即座だった。
初めて。
ノアの視線が止まる。
「俺がいなくても、ルティスはここへ来た。こいつは、お前が何もしなくても境界を追っていた」
レオンはルティスを一度だけ見る。
「俺が死んでいても、結果は変わらなかったはずだ」
ノアは答えない。
「だったら――なぜだ」
長い沈黙。
だがノアは結局、答えなかった。
「……そうか」
レオンは小さく息を吐いた。
何かを諦めたようにも。
何かを理解したようにも見えた。
「お前にも、答えられないことがあるんだな」
ノアの手が、ほんの僅かに杖を握り直した。
それだけだった。
レオンは剣を構える。
「俺を生かした理由が何であろうと、借りは借りだ」
そして、まっすぐノアを見る。
「だから一度だけ言う」
声に迷いはなかった。
「もう止めるんだ、ノア」
「……」
「今なら、まだ戻れる」
ノアは答えない。
ASTRAの奥を見つめたまま。
やがて静かに告げる。
「戻る場所などない」
レオンは目を伏せた。
「……そうか」
黒い長剣を握り直す。
「なら――ここからお前とは歩めない!」
――ドン。
巨大な存在が。
一歩。
こちらへ近づいた。
エアリオン全体が揺れる。
「っ……!」
塔が軋む。
橋が揺れる。
遠くで石造りの建物が崩れた。
さらに。
一歩。
――ドン!!
境界が大きく広がった。
「ルティス!」
エレナが叫ぶ。
「閉じて!」
「分かってる!」
ルティスは魔法陣へ手を伸ばす。
七つの光が再び反応する。
だが。
その瞬間。
ノアが動いた。
杖を持ち上げる。
黒い魔力がその周囲へ集まり始める。
「ノア!」
レオンが剣を向けた。
「何をするつもりだ!」
ノアは答えない。
その視線はASTRAの神だけを見ている。
「やめて!」
ルティスが叫ぶ。
「境界を閉じる!」
「閉じさせない」
ノアの声。
静かだった。
それなのに。
今までよりも。
はっきりとした意志があった。
「ここまで来た」
黒い魔力が杖へ集まる。
「ようやく届いた」
巨大な神が境界へ手を伸ばす。
エレナの顔が強張る。
「ルティス、早く!」
ルティスは七つの力を繋ぐ。
六つの宝玉が光る。
Umbraが脈打つ。
境界を閉じる。
今ならまだ間に合う。
そう思った。
その時。
巨大な神の手が境界へ触れた。
――――。
音はなかった。
ただ。
世界が。
一度だけ。
大きく揺れた。
「……っ!」
ルティスの胸の奥で。
Umbraが今までにないほど激しく脈打つ。
――ドクン!!
「う……!」
胸を押さえる。
「ルティス!」
カイルが叫ぶ。
何かが違う。
Umbraが境界に反応しているのではなく、もっと向こう。
あの巨大な存在に――。
神が動きを止めた。
「……?」
ノアも気づく。
巨大な存在の視線がゆっくりと動いていく。
ノアではない。
レオンでもない。
六つの宝玉でもない。
その視線がルティスへ向いた。
「……え?」
正確にはルティスの――内側へ。
――ドクン
Umbraが応える。
エレナの表情が凍りついた。
「ルティス……!」
神の手がゆっくりとこちらへ伸びる。
「逃げて!!」
その叫びと同時に境界が大きく軋んだ。
ルティスは動けない。
胸の奥。
Umbraがまるで何かを知っているかのように。
激しく脈打っている。
その横でノアが神を見上げた。
恐怖はない。
銀色の仮面にASTRAの光が映っている。
レオンが睨む。
「ノア……」
ノアは答えない。
杖を握り締める。
「お前は、その力を手に入れて――何をするつもりだ」
しばらく。
沈黙があった。
そして。
ノアが静かに口を開いた。
「決まっている」
神へ手を伸ばす。
「この世界を――私の手で作り直す」
ルティスが息を呑む。
ノアの紫の瞳が。
初めて明確な欲望を宿した。
「神の力を奪い――」
巨大な手が。
境界を越え始める。
「私が、創造主になる」
――ドンッ!!
世界が揺れた。
黒い亀裂が一気に広がる。
「ルティス!!」
エレナの叫びが響く。
神の手がルティスへ向かう。
六つの宝玉が一斉に輝いた。
Umbraが脈打つ。
そして。
世界と世界の境界が――
崩れ始めた。
――Chapter 18 END




