Chapter 17 ― 境界門
Chapter 17 ― 境界門
レオンと別れてから、二日が過ぎた。
朝、ルティスたちは、ヴァルセリアの街へ戻っていた。
古代魔法の研究で知られる街。
石造りの建物が並ぶ大通りには、朝早くから研究者や商人たちが行き交っている。
世界古代文書館の開館前のため、食堂のテラス席で朝食を取っていた。
ルティスは早々に食事を終わらせ、レオンから預かった記録書を読んでいた。
「レオンさんにもらった記録書ですね」
ミナがトーストを咥えながら覗き込む。
「うん」
ルティスは頷く。
「ここにレオンが言ってた影脈の記録も記載してあったわ」
ルティスは鞄から記録書を取り出し、あるページを開く。
ーー《影脈接続実験記録》
被験体番号
No.01――不適合
No.02――死亡
No.03――不適合
No.04――死亡
……
No.08――適合
No.09――消失
「人体実験してたってことですか……?」
ミナが恐る恐る聞く。
「この被験体番号No.08ってノアなんじゃないかな」
ルティスが記録書のNo.08の部分に人差し指を置きながら言う。
「No.08がノアかは分からないけど、成功者ってことは間違いないもんな」
カイルが言う。
「そもそもこれだけ成功率が低い実験に参加してまで、影魔法を得たかった理由ってなんだろうって思ってね」
全ての実験記録が記載されてるとは限らないが、これを見る限り成功率は一割。
しかも失敗すれば死亡することもあり得ることが伺える。
「ノアが何者で何を望んでるのか……」
そしてページをめくる。
彼界。
「まず、これを調べよう」
世界古代文書館。
巨大な書架が何列も並ぶ館内を、三人は歩いていた。
以前ここへ来た時、調べたのは暁の教団だった。
八年前の魔力異常。
アルヴェリア魔法学院。
境界魔法。
そして――ASTRA。
だが、今回は違う。
机の上。
レオンから預かった古い記録を開く。
「彼界……」
ミナが小さく読む。
「『向こう側』ですよね」
「うん」
ルティスは頷く。
「アルカ遺跡にも同じ言葉があった」
此界。
彼界。
二つの領域。
あの時はそれが、この世界とASTRAを意味するのだと思った。
おそらくそれ自体は間違っていない。
だが。
「レオンが持ってきた記録書にも、同じ言葉がある」
ルティスがページをめくる。
「それに、この七つの円」
カイルが覗き込む。
「宝玉か?」
「まだ分からない」
中央。
一本の亀裂。
その周囲を囲む七つの円。
「でも、ノアはこれと似た資料を集めてるって、レオンが言ってた」
「境界と七つの宝玉について、だったな」
「うん」
ミナが巨大な書架を見上げる。
「問題は……」
遥か奥まで続く本。
「どこから探すかですね」
三人は黙った。
「……」
「……」
「帰りたくなってきました」
「まだ始めてもいないぞ」
一時間後。
「……もう無理です」
ミナが机に突っ伏した。
「文字が全部、虫に見えてきました」
「早いな」
「カイルさん、さっきから同じページですよね?」
「難しい字が多い」
「読んでないじゃないですか!」
「読もうとはしてる」
「結果が伴ってません!」
ルティスは二人を無視して本をめくる。
境界。
古代施設。
ASTRA。
異界。
接触。
似た言葉はいくらでも出てくる。
だが、欲しい情報がない。
「……違う」
ルティスが呟いた。
「何がです?」
「探し方」
本を閉じる。
「私たちは彼界って言葉を探してる」
「そうですね」
「でも」
ルティスはレオンの記録を開く。
「この文字――古代語じゃない」
カイルが顔を上げる。
「どういうことだ?」
「アルカに残っていた文字もそうだった」
「元の施設を造った人たちが書いたものじゃない」
「後の時代の研究者が、調査のために書き加えたもの」
「つまり?」
「彼界そのものを探しても出てこない」
ルティスは立ち上がった。
「この言葉を書いた研究者たちが――何を調べていたのかを探す」
「何を?」
ルティスは考える。
アルカ。
境界。
七つの円。
宝玉。
そして。
「……古代施設」
探す場所を変えた。
魔法史ではない。
古代都市。
遺跡。
失われた建造物。
境界研究以前の施設記録。
さらに時間が過ぎた頃。
「あ」
ミナが一冊の本を引き抜いた。
「これ」
古びた地理書。
ページを開く。
「エアリオン……?」
ルティスが覗き込む。
風の都。
かつて三人がAerisを手に入れた場所。
「ここ」
ミナが一文を指差す。
ルティスが読む。
「――『空に最も近き都』」
「それだけ?」
カイルが言う。
「待ってください」
ミナが次のページをめくる。
「……」
三人の表情が変わった。
そこには現在とは違うエアリオンの姿が描かれていた。
中央に巨大な塔。
その周囲に六つの小さな塔。
「……七つ」
ルティスが呟く。
「中央を入れて七つですね」
ミナが数える。
カイルが腕を組んだ。
「宝玉と関係あるのか?」
「分からない」
現在のエアリオンにも、中央塔は残っている。
だが六つの副塔は、ほとんど失われていた。
Aerisを探していた時にも三人はその残骸を見ている。
崩れた石柱。
風化した基礎。
ただの古い建造物だと思っていた。
しかし。
「これ……」
ルティスが地図の端を見る。
小さな記号。
「見たことある」
「どこで?」
「アルカ」
境界観測施設――アルカ。
壁に刻まれていたものと。
同じ記号だった。
さらに数時間。
三人はエアリオンに関する古い記録を集め続けた。
そして。
「……あった」
ルティスの手が止まる。
古い設計図。
現在のエアリオンが造られるよりも、さらに古い。
中央塔。
六つの副塔。
それらを結ぶ巨大な円。
円の外周には古代文字。
そして。
余白に。
後世の研究者が書き残した文字。
――彼界。
「……これだ」
ミナが椅子から立ち上がる。
カイルも設計図を覗き込む。
「レオンの記録と同じか?」
「うん」
ルティスは記述を追った。
「『境界……観測……』」
別の箇所。
「『接触点……』」
「接触点?」
「二つの領域が――最も近づく場所」
三人が黙る。
「二つの領域って」
カイルが呟く。
「この世界と――」
「ASTRA」
ルティスが答えた。
さらに読み進める。
アルカと似ている。
だが。
決定的に違う。
「……境界固定」
「固定?」
ミナが聞き返す。
「たぶん」
ルティスは二つの施設を頭の中で重ねる。
そして。
気づいた。
「アルカは――見るための場所」
「見る?」
「境界を観測するための施設」
設計図の中央塔を指差す。
「でもエアリオンは違う」
「何をする場所なんだ?」
「境界を――」
ルティスの指が止まる。
「固定する」
嫌な感覚が背中を走った。
アルカは境界を観測する。
アリオンは境界を固定し、安定させる。
だとすれば。
「……だからだ」
「何が?」
「暁の教団が古代施設の記録を集めてた理由」
ミナの顔から笑みが消える。
「エアリオンを探してた?」
「違う」
ルティスは首を振る。
「場所じゃない」
ノアたちはエアリオンの存在など、とっくに知っている。
「使い方を探してたんだ」
カイルが立ち上がる。
「境界を開くために?」
「たぶん」
おそらくそれだけではない。
開いただけの境界は不安定だ。
八年前のように暴走する可能性がある。
「開いた境界を――固定するため」
ルティスが呟く。
「ASTRAと、この世界を繋いだままにするために……」
「待ってください」
ミナが設計図へ顔を近づける。
「ここ」
中央塔の下。
ほとんど消えかけた小さな文字。
ルティスが読む。
「――『七つの力が重なる時』」
その先は欠けている。
「また七つか」
カイルが呟く。
「こっちは?」
別の記録を取り出す。
そこにも。
七つの円。
中央には一本の裂け目
レオンから渡された記録とよく似ている。
ただし、こちらには説明が残っていた。
「六つの力が――外側を支える」
「六つ?」
ミナが聞く。
「うん」
「じゃあ、七つ目は?」
次の行。
ルティスの目が止まった。
「……鍵」
「鍵?」
「七つ目は――境界へ干渉する鍵」
無意識に胸元へ手が向かった。
Umbra。
六つの宝玉はすでに集めた。
Ignis。
Aqua。
Gaia。
Aeris。
Volt。
Lumia。
すべて三人が持っている。
そして。
最後の一つ。
Umbraだけがルティスの中にある。
「つまり」
カイルが低い声で言う。
「六つが外側を支える」
「ああ」
「最後の一つが、境界に干渉する」
「たぶん」
「それが――」
ルティスは胸を押さえた。
「Umbraが鍵」
そこで昨日までの出来事が繋がった。
ノアも宝玉を追っていたのに、我々から無理に奪おうとしない理由。
Umbraを探していた理由。
「……そういうことだったんだ」
「何が?」
設計図を見つめながら言う。
「ノアは宝玉を無理やり私たちから奪っても、結局Umbraは私の中にある」
ルティスは胸元を抑える。
「それだけじゃない。Umbraが私の中でより安定するのを待ってた。守護者たちと戦うことで……」
ミナがはっとする。
「宝玉だけ七つ揃えても八年前と同じことになるから……」
「そう。Umbraが欲しいんじゃない。安定して境界の鍵として使えるようになったUmbraが必要だった」
カイルは拳を握る。
「完全に踊らされてたな」
ノアの狙いは宝玉を手に入れることだけではない。
安定したUmbraを手に入れるために、ルティスにUmbraの力を使わせ続けることが目的だった。
その時だった。
――ドン
「……!」
低い音。
三人が顔を上げる。
「何?」
――ドン
今度は窓ガラスが小さく震えた。
館内がざわめく。
「地震か?」
「違う」
ルティスが立ち上がる。
胸の奥。
Umbraが急に強く脈打ち始めた。
――ドクン
――ドクン
「……魔力」
「ルティス?」
「すごく大きな魔力が動いてる」
三人は文書館の外へ飛び出した。
大通り。
人々が足を止めていた。
誰もが同じ方向を見ている。
西。
「何だ……あれ」
誰かが呟いた。
ルティスも空を見る。
「……!」
遥か遠く。
空に――一本の黒い線が走っていた。
雲ではない。
影でもない。
まるで空そのものに傷がついたような。
亀裂。
「嘘……」
ミナの顔から血の気が引く。
黒い線がゆっくりと伸びていく。
その周囲で雲が不自然に渦を巻く。
そして風が止まった。
「……」
静寂。
次の瞬間。
――ゴォッ!!
街中の旗が一斉に西を向いた。
木々が揺れる。
砂埃が舞う。
ミナが目を見開く。
「風が……」
「どうした?」
「全部」
ミナは西を見る。
「全部――あそこへ流れてる」
「どこだ?」
カイルが尋ねる。
だが。
ルティスにはもう分かっていた。
「……エアリオン」
――ドクン!
Umbraが強く脈打った。
「始まった……」
「何が?」
ルティスは。
黒い亀裂を見る。
「境界が――動いてる」
三人は急いで文書館へ戻った。
机の上。
設計図を広げる。
エアリオン。
中央塔。
六つの副塔。
七つの力。
「教団はもうエアリオンにいる」
ルティスが言う。
カイルが剣を背負い直した。
「だろうな」
「急ぎましょう」
ミナも弓を背負う。
だが、その手が止まった。
「……ルティスさん」
「何?」
「エレナさん」
ルティスが黙る。
「来るなって言ってましたよね」
アルカ遺跡。
境界の向こう。
エレナの声。
『私も、あなたに会いたい』
『でも、今は来ないで』
『まだ危険だから』
「……うん」
「それって安定したUmbraをわざわざ持ち込むことになりませんか?」
ルティスは窓を見る。
西の空。
黒い亀裂。
エレナに会いたい。
その気持ちはもちろんある。
八年前。
果たせなかった約束。
ずっと。
もう一度会いたかった。
けれど。
今、エアリオンへ向かう理由は――それだけではない。
「それでも行く」
ルティスは答えた。
「エレナに会うためだけじゃない」
カイルとミナを見る。
「ノアが何をしようとしてるのか確かめる」
「それで?」
カイルが尋ねる。
「止めるべきなら――」
短剣へ手を置く。
「力づくでも止める」
カイルが笑う。
「ああ」
ミナも頷いた。
「じゃあ決まりですね」
三人はヴァルセリアを出た。
西へ。
風の都――エアリオンへ。
しばらく歩いたところで、カイルがふと口を開いた。
「変わったな、お前」
「何が?」
「歩く速さ」
ルティスが眉を寄せる。
「同じでしょ」
「前はもっと速かった」
「そう?」
「俺が遅れると、平気で置いてった」
「あなたが遅いからでしょ」
「ほら、それだよ」
「何よ」
カイルが後ろを見る。
少し離れて、ミナが歩いている。
「今はちゃんと、あいつの歩幅に合わせてる」
ルティスも振り返った。
「ルティスさーん!」
ミナが小走りで追いついてくる。
「二人とも何の話ですか?」
「ルティスが優しくなったって話」
「言ってないでしょ」
「え、そうなんですか?」
「ミナまで乗らないで」
カイルが笑う。
ミナも笑った。
ルティスだけが、少し不満そうに前を向く。
けれど――
歩く速さは変えなかった。
しばらくしてミナの足が止まった。
「……待って」
さっきまでの笑顔が消えていた。
「どうした?」
「静かすぎます」
カイルが周囲を見る。
街道。
草原。
森。
一見、何もおかしくない。
だが、ルティスも気づいた。
「……鳥がいない」
鳴き声がない。
虫の音もない。
ただ風だけが西へ流れている。
「急ぎましょう!」
ミナが歩き出す。
先ほどより少しだけ早く。
昼を過ぎた頃。
街道沿いに細い川が見えてきた。
「水、補給していきましょう」
ミナが言った。
カイルが荷物から水筒を取り出す。
水筒はもうほとんど空だった。
「そうね」
三人は川へ下りた。
カイルは少し上流へ。
ルティスとミナは下流へ向かう。
ミナは水筒を満たすと、川の水を両手ですくった。
そのまま顔へ。
「……冷たい」
もう一度すくい、首筋の汗を流す。
「ルティスさんも」
ルティスもしゃがんだ。
冷たい水で顔を洗う。
首筋を濡らす。
火照っていた身体から、わずかに熱が引いた。
ミナはすでに膝まで水に浸かっていた。
「今日は夕方に雨が来るかもしれませんね」
ルティスが空を見る。
「こんなに晴れてるのに?」
「匂いが違うんです」
「またそれ」
「またって何ですか」
「水の場所も分かるし、風も分かるし。前から思ってたけど、あなた何者なの?」
「弓使いです」
「それは知ってる」
ミナは川の水を両手ですくった。
「母に教えてもらったんです」
「お母さん?」
「雨が降る前は、風の匂いが変わるって」
ルティスが隣へ腰を下ろす。
「分かるものなの?」
「昔は全然」
ミナは笑った。
「こうやってました」
すん、すん。
わざとらしく鼻を鳴らす。
「何してるの?」
「子供の頃の私です」
「……馬鹿みたい」
「ひどい!」
ミナが水を飛ばす。
「ちょっと!」
「馬鹿って言った仕返しです」
ルティスが睨む。
けれど、ミナは楽しそうに笑っていた。
その姿を見ながら、ルティスが尋ねる。
「弓も、お母さん?」
「それは父です」
ミナの手が止まった。
ほんの少しだけ。
「父は狩人だったんです」
「だった?」
ミナは川を見る。
水が絶えず流れている。
「……十二の時、帰ってこなくなりました」
ルティスの表情から笑みが消えた。
「狩りに行ったまま?」
「はい」
その日の朝も、いつもと同じだった。
父は弓を背負って家を出た。
『夕方には帰る』
そう言った。
だからミナもいつものように、
『いってらっしゃい』
と答えた。
けれど。
夕方になっても帰らなかった。
夜になっても。
次の日になっても。
村の男たちが何日も森を探した。
それでも父の弓さえ見つからなかった。
「……亡くなったの?」
「分かりません」
ミナは首を振った。
「だから困るんですよ」
「困る?」
「死んだなら、死んだって言ってほしいじゃないですか」
いつもの明るい声だった。
けれど少しだけ違った。
「帰ってくるかもしれないって思っちゃうから」
川の音だけが続いている。
「ずっと待ってたんです」
森へ続く道を見て。
風が吹けば顔を上げた。
知らない旅人が来れば走った。
足音が聞こえた気がするたび、家を飛び出した。
「母は?」
「何も言いませんでした」
待つなとも。
諦めろとも。
「父の椅子も、ずっとそのままでした」
ルティスは何も言わない。
ミナは小石を拾った。
川へ投げる。
ぽちゃん。
水面に波紋が広がった。
「でもある日、嫌になったんです」
「何が?」
「待ってることが」
ミナは流れていく波紋を見る。
「帰ってくるかもしれない人を、ずっと同じ場所で待ってるのが」
そして父の弓を手に取った。
『どこへ行くの?』
母に聞かれた。
『探しに行く』
『お父さんを?』
その問いには答えられなかった。
「本当に父を探したかったのか、自分が外へ出たかっただけなのか……今でも分かりません」
「それで村を出たの?」
「はい」
森を越えた。
山を越えた。
知らない街を見た。
知らない人と話した。
それでも父は見つからなかった。
けれど世界は思っていたより、ずっと広かった。
「それで、あんなにいろんなこと知ってるのね」
「まだまだですよ」
ミナが立ち上がる。
濡れた手を振った。
「知らないことの方がいっぱいあります」
ルティスも立ち上がる。
そこで、ふと思った。
「……じゃあ」
「はい?」
「どうして私についてきたの?」
ミナが振り返った。
「ベルナ村で会ったばかりだったでしょ」
「そうですね」
「宝玉を探してるなんて、どう考えても面倒事じゃない」
「それは思いました」
「なら――」
ミナは少し考えた。
「ルティスさんが、エレナさんを探してたからかもしれません」
ルティスの目が止まる。
「……私と同じだから?」
「違います」
ミナは首を振った。
「ルティスさんは待ってなかったから」
「……」
「自分から探しに行ってた」
風が吹いた。
赤い髪が揺れる。
「だから、いいなって思ったんです」
ルティスは答えない。
「待ってるだけじゃ、帰ってこない人もいます」
ミナはいつものように笑った。
「だったら探しに行けばいいんです」
「見つからなかったら?」
「その時は――」
ミナは少しだけ考えた。
「その時、考えます」
「何それ」
「だって、まだ見つからないって決まってないじゃないですか」
ルティスが目を丸くする。
そして小さく笑った。
「……あなたらしいわね」
「でしょう?」
その時、上流から声が飛んできた。
「おーい! そろそろ行くぞ!」
カイルだった。
「はーい!」
ミナが大きく手を振る。
そして弓を背負った。
「行きましょう、ルティスさん」
「ええ」
二人が街道へ戻ろうとした、その時。
ミナが足を止める。
「……?」
川を見る。
先ほどまで静かだった水面。
そこに――
波紋が生まれていた。
風は吹いていない。
魚でもない。
一定の間隔で。
――トン。
――トン。
ミナの笑顔が消える。
「ルティスさん」
「何?」
「これ……変です」
ルティスも川を見る。
――トン。
再び水面が揺れる。
その瞬間。
胸元のUmbraが同じ間隔で脈打っていた。
夜。
ミナの言う通り雨が降り出していた。
フードを被り三人は街道を進んでいた。
ミナが立ち止まった。
「……待って」
赤い髪が西へなびいている。
ミナは目を閉じた。
頬を撫でる風。
草原を渡る風。
森から抜けてくる風。
すべてが――西へ向かっている。
「……嫌な風」
「どんな?」
ルティスが尋ねる。
「前にエアリオンへ行った時とは全然違います」
風の迷路。
Aerisへ続く道で、何度も三人を惑わせた風。
「あの時は、風が私たちを迷わせてました」
「今は?」
ミナは答えなかった。
代わりに地面から一枚の枯れ葉を拾う。
指先から離す。
葉は西へ飛んだ。
ミナがもう一枚拾う。
今度は東へ向かって投げた。
だが――
ふわり。
空中で押し戻される。
そして西へ。
ルティスが眉を寄せた。
「……全部?」
「はい」
ミナが周囲を見る。
「北からも、南からも……全部です」
その瞬間。
――ゴォッ!
突然、強い風が吹き抜けた。
「……っ!」
ルティスの外套が大きく翻る。
ミナの身体が西へ持っていかれた。
「ミナ!」
カイルが腕を掴む。
「大丈夫か?」
「はい……」
だがミナはカイルを見ていなかった。
西を見ている。
黒い亀裂を。
「今の風……」
ミナの顔から、いつもの表情が消えていた。
「西へ吹いたんじゃありません」
「何?」
「引っ張られたんです」
沈黙。
ルティスの胸元で、
――ドクン
Umbraが脈打った。
川で感じたものより強い。
ルティスは胸元を押さえる。
「……また」
「ルティスさん?」
「大丈夫」
そう答えた瞬間だった。
森の木々が一斉にざわめいた。
枝が。
葉が。
草が。
すべて西へ傾いている。
まるで世界そのものが、あの亀裂へ吸い寄せられているように。
ミナが小さく呟いた。
「……風が逃げようとしてる」
ルティスが彼女を見る。
「逃げる?」
ミナは弓を握りしめた。
「本当は逆へ行きたい」
それでも髪は西へなびいている。
「なのに、逃げられない」
ルティスは黒い亀裂を見上げた。
そのとき、亀裂の奥で紫色の光が脈打った。
――ドクン
胸のUmbraが応える。
「……急ごう」
ルティスは歩き出した。
「エアリオンで、何か始まってる」
やがて遠くの空に、エアリオンの輪郭が見え始めた。
巨大な風車。
浮かぶ島々。
そして、中央塔。
「……見えた」
ミナが呟く。
だが、すぐに表情が変わった。
「……おかしい」
「何が?」
「風車」
ルティスが目を凝らす。
回っている。
いや――
回りすぎている。
巨大な羽根が、遠目にも分かるほどの速さで回転していた。
一基だけではない。
二基。
三基。
街にあるすべての風車が、同じ方向へ猛烈に回っている。
「あんなに速く回るものなの?」
「……回りません」
ミナが答える。
「少なくとも、前に来た時は」
その瞬間。
――ゴォォォォ……。
低い音が、夜の街道まで届いた。
風の音ではない。
巨大な何かが回り続ける、鈍い轟音。
ミナの赤い髪が西へ強く引かれる。
「やっぱり……」
彼女はエアリオンを見つめた。
「全部、あそこへ吸い込まれてる」
そして――
中央塔の上。
黒い亀裂が、夜空を引き裂いていた。
――ドクン!!
「っ……!」
ルティスが胸を押さえる。
「ルティス!」
「大丈夫」
顔を上げる。
その時だった。
黒い亀裂がほんの僅かに――開いた。
「……!」
向こう側。
こちらとは違う色の空。
遠く。
見覚えのない大地。
ASTRA。
そして、そこにいた。
白い服。
銀紫の髪。
「エレナ……!」
だが、すぐに亀裂は細くなる。
声だけが風に混じった。
『――来ないで』
ルティスは目を閉じた。
胸の奥。
Umbraが静かに震えている。
「……ごめん」
小さく呟く。
そして目を開いた。
「それでも行く」
もう誰かに答えを決めてもらうためではない。
エレナが何を恐れているのか。
ノアが何を求めているのか。
境界で何が起きているのか。
そして八年前。
なぜ自分だったのか。
全部。
自分の目で確かめる。
その上で自分で決める。
「行こう」
ルティスが言った。
カイルが剣の柄へ手を置く。
「ああ」
ミナが弓を握る。
「はい」
三人は歩き出した。
風の都――エアリオンへ。
頭上では黒い亀裂が。
ゆっくりと――広がっていた。
風は逃げるように、それでもエアリオンへ吸い込まれていく。
そして二つの世界が再び――触れようとしていた。
――Chapter 17 END




