第4話
「エリザ、今日は本当にお疲れ様でした」
「いえ、私は大したことはしていません」
修道院がようやく静けさを取り戻した頃だった。子どもたちは夕の祈りを終え、それぞれの部屋で眠りにつく支度をしている。院長室には、湯気を立てる茶器と、小さな皿に並べられた砂糖菓子が用意されていた。
「いいえ。アフルがいないことに気が付いてくれたわ」
「それは……子供たちが教えてくれたからです」
「でも、あなたはそれを私にまで届けてくれたわ。それが嬉しいの」
「あ、ありがとうございます」
フィレスは穏やかに微笑み、ティーポットを手に取った。温かな香りが部屋いっぱいに広がり、張りつめていた空気を少しずつほどいていく。
「さ、お茶にしましょう。とっておきのお菓子もあるのよ」
「院長様、これって……」
皿の上に並ぶ砂糖菓子を見た瞬間、エリザの目がわずかに見開かれる。
「子供たちにも上げたけれども、私たちにもご褒美って必要でしょう?」
「は、はい……」
エリザの声に、フィレスは静かにカップへ紅茶を注ぐ。細く立ち上る湯気を眺めるように目を伏せると、穏やかな声で続けた。
「エリザ、今日のあれはどう思いましたか?」
フィレスの声に、エリザの脳裏には森での出来事が思い出されている。普通では信じられないこと。でも、修道院にある宗教画に描かれているような光景だった、と思っているのだった。
「信じられない光景だと思いました。でも、ちょっと思ったんです。ファクリエル様の思いがあそこにあったのではと……」
「そう……あなたはそう思ったのね……」
フィレスは静かにカップを持ち上げる。その仕草には、修道院で暮らす今も、消えることのない気品があった。エリザは思わず背筋を伸ばす。
――そういえば、この方は伯爵家のご令嬢だった。
「エリザ、あの光景は誰にも話してはいけません」
「えっ、どうしてですか?」
フィレスは返事をしない。静かにカップを受け皿へ置く。小さく音が鳴る。
「話すことは、許しません」
そう言うと、フィレスはゆっくりとカップを戻している。そして、まっすぐエリザの目を見つめていた。
「エリザ、あなたは『呪歌』というものを知っていて?」
「あ、はい……家にいる頃、父からそのような話を聞いた記憶がございます」
「よかったわ。今日のあれはその呪歌よ」
フィレスの言葉に、エリザは目を見開く。
「でも、あれは『まじない歌』ではありませんでしたわ。あれは……ファクリエル様の奇跡でしかありません」
「そうね。あなたがそう思うのも無理はないわ」
フィレスは静かに紅茶を口へ運ぶ。しかし、その手はほんのわずかに止まった。
「でも……私には別のものが見えたの」
エリザは思わず息を呑む。
「あれは奇跡だったのかもしれない。でも、同時に呪歌うたいの力でもあったの。音には力がある。歌には人の心を揺らす力があるでしょう?」
「はい……礼拝でファクリエル讃歌を捧げたときは温かいものを感じますわ」
「その力が、人の手では扱いきれないほど強く現れる者がいたの。その者たちは『呪歌うたい』と呼ばれていたわ」
「『呪歌うたい』、でございますか?」
聞いたことのない言葉だった。呪歌なら知っている。けれど、その歌を歌う者をそう呼ぶなど、一度も耳にしたことはない。
そう言いたげな表情で、エリザは首を傾げる。そんな彼女を見ながら、フィレスはカップを静かに受け皿へ戻した。
「昔は、その力を欲しがる者が大勢いたのよ」
「……欲しがる」
フィレスの言葉をエリザは繰り返すことしかできない。そんな彼女を見ながら、フィレスはゆっくりと紅茶を飲み干しているのだった。
◇◇◇
コン、コン、――
二人がお茶を飲んでいる部屋に静かな音が響いていた。
「お入りなさい」
フィレスのその声に扉が開く。立っていたのはまだ顔色が悪いアフル。その姿を見たエリザは、自分がここにいてもいいのか、というような表情をフィレスに向ける。だが、彼女は何事もなかったようにアフルに声をかけていた。
(院長様……私も、ここにいなさいということですね……)
こうなった以上、自分は空気でいるしかない。そう思ったエリザが静かにカップを置いている。もっとも、アフルはそれに気が付かないようだった。青ざめた顔のまま、何度も両手を握りしめている。そのまま、彼女はフィレスに向かって大きくお辞儀をしているのだった。
「院長様、今日は申し訳ありませんでした!」
「どうして、そのようなことを言うの?」
「だって……院長様のいいつけを破りました……」
頭を下げたまま、アフルは声を絞り出すようにしてそう告げる。そんな彼女にフィレスは穏やかな声をかけていた。
「まずは頭を上げなさい」
「で、でも……」
「話をするときは、相手の目を見なさいと教えなかったかしら?」
フィレスの声に、アフルはようやく頭を上げる。その表情が、泣くのを必死で堪えているのが分かる。だからだろう。彼女の声は、アフルを責めるようなものではない。
「やっと、顔を見せてくれた」
「院長様……」
「ねえ、一つ教えて。どうして、森に入ったのかしら?」
その声にアフルの体がピクンとなる。だが、黙っているわけにはいかないのもわかっているのだろう。「……薬草がなかったので」という小さな声が口から漏れる。
「あなたらしいわ……」
そう言うと、フィレスはアフルにも椅子を勧めている。最初のうちは首を横に振っていた彼女だが、エリザがいることにも気が付いたのだろう。おずおずと勧められた椅子に腰をおろしていた。そんな彼女にフィレスはゆっくりと声をかけている。
「あなたが森に入った理由はわかったわ。でもね。そこまでしなくてもいいのよ? 何事もなく終わっただけでも奇跡なのだから」
「でも……私は、こうしないといけないんです!」
どこか切羽詰まったような声がアフルの口から出てくる。先ほどまでのものとは違う表情に、エリザも思わず彼女の顔をみつめる。
「どうして、そんなことを言うの? あなたに何かがあったら、みんなが悲しむのよ?」
「そうよ、アフル。森の中であなたを見つけた時、ホッとしたわ。でも、それ以上に怖かったのよ。野犬があんなにそばにいるのにって……」
「エリザ様……」
エリザの声に、アフルはフッと視線を下げている。そのまま、膝の上で手が何度も握りしめられていた。そんな彼女の手をエリザがぎゅっと握りしめていた。
「あなたの手はこんなに小さいの。だから、全部をやらなくてもいいの。院長様に話せなかったのなら、私にだけでも話してくれればよかったの」
「でも、エリザ様も忙しそうでしたし……」
「そうだったとしても、あなたの話を聞いてあげるくらいの時間はあったわよ?」
その声にアフルはますます下を向いてしまう。その口からは「だって、私は……」という声がかすかに漏れる。そんな彼女の髪にエリザが手を伸ばそうとした時、顔を上げたアフルはしっかりとした声で告げていた。
「院長様、エリザ様。私は『呪歌うたい』です。こんな私でもここにいてもいいのですか?」
アフルの声にエリザは息を呑んだ。フィレスだけは静かに目を閉じていた。そして、自分を『呪歌うたい』だと口にしたアフルは、青ざめたまま二人の返事を待っていた。




