第51話 閑話「色を失った庭」(アラバスター公爵視点)
泥人形と呼ばれた娘を、誰より早く切り捨てた父がいました。
娘がいなくなった国で、彼が最後に見たものを。
※本編完結後の番外編(閑話)です。本編第13話前後、ソラリア王国が枯れはじめた頃の、王都の片隅の話です。
アラバスター公爵邸の庭は、王都でただ一つ、雪のように白い庭だった。
白亜の敷石、白い薔薇、白い噴水。色を持たぬことを誇りとする家。代々、それがアラバスターの矜持だった。鮮やかな魔力を七色に咲かせる他家を、公爵は心のどこかで下品だと見下していた。白は、混じり気のない高貴の色なのだと。
だから、娘が「無色」の魔力しか持たぬと知れたとき、公爵はむしろ得心したものだった。アラバスターの白を継ぐ娘。だが、社交界はそうは見なかった。色を出せぬ令嬢は、ただの空っぽの器、欠陥品、泥人形と嗤われた。家名に泥を塗る娘を、公爵は持て余し続けた。
あの夜会で、第一王子ジュリアンが婚約を破棄し、男爵令嬢ミエルの七色の魔力が娘を泥水へ叩き込んだとき――公爵は、目を逸らした。
「一族の恥さらしめ。お前の籍は既に抜いた。二度と、私の視界に入るな」
そう言い捨てて、背を向けた。胸の内には、安堵さえあった。これでようやく、家名の傷が一つ消える、と。
その夜から、ちょうど一月が過ぎようとしている。
◆
異変は、庭から始まった。
まず、白い薔薇が褪せた。白が褪せるとは妙な言い方だが、たしかに褪せたのだ。透き通っていた花弁が、どこか灰色がかり、縁から黒く萎れていく。庭師が水を変え、土を入れ替えても止まらない。噴水の水はうっすらと濁り、底に薄墨を流したような澱みが溜まった。
庭だけではなかった。
領地の井戸が濁ったと報告が来た。畑の麦が、穂をつける前に黒く腐ったと。王都の空は日に日に重く垂れ込め、人々は理由の知れぬ咳に悩まされ始めた。医師は流行り病だと言ったが、薬はどれも効かなかった。
公爵自身も、朝、洗面の鏡で気づいた。
己の白髪に、墨を一滴落としたような、薄汚れた翳りが差していることに。
「……気のせいだ」
声に出してそう言い、公爵は鏡から目を逸らした。あの夜、娘から目を逸らしたときと、同じ仕草で。
◆
娘の部屋は、抜いた籍とともに片付けるはずだった。だが下女たちが病で臥せり、手が回らぬまま放られていた。公爵が自らその扉を開けたのは、ほんの気まぐれだった。何か銭になるものでも残っていれば、と。
部屋は、拍子抜けするほど質素だった。
地味なドレスが数着。読み込まれて背の割れた書物。そして、机の抽斗の奥に、一冊の古い帳面があった。
開いて、公爵は眉を寄せた。
それは、日誌だった。几帳面な、見覚えのある細い文字で、毎日、同じことが記されている。
『寅の刻、登城。東の井戸、濁り三分。浄化。』
『卯の刻、王宮地下、澱み濃し。半刻を要す。』
『今朝は手が痺れて、筆が持てなかった。けれど、城の者は誰も気づいていない。よかった。』
日付は、何年も前から、一日も欠かさず続いていた。
誰よりも早く登城し、人の目に映らぬ「濁り」を、たった一人で受けて、無に帰し続けていた記録。色を出せぬのではない。すべてを呑み込み、何もなかったことにするための、無色だったのだ。
最後の頁には、震える字で、こうあった。
『今日も、お父様にはお会いできなかった。それでいい。私が城の澱みを引き受けていることは、誰も知らなくていい。私が消えたあとも、この国がきれいなままなら、それで――』
頁は、そこで途切れていた。あの夜会の、前の日の日付で。
公爵は、長いあいだ、その頁を見つめていた。
◆
王宮へ召されたのは、その数日後だった。
謁見の間は、かつての威容を失っていた。極彩色を誇った薔薇園は腐土に変わり、玉座の国王は死人のような顔色で震えていた。並ぶ重臣たちも、皆、肌に薄墨の翳りを浮かべている。アラバスターの白い庭と、同じ翳りを。
「アラバスター公……」
国王の声は、掠れていた。
「そなたの娘は、ただの欠陥品ではなかった。あれは、この国の血筋に眠る毒を――王家が代々溜め込んできた業の澱みを、その身一つで引き受けていた、唯一の器だったのだ。あれを失った今、毒は行き場を失い、土へ、水へ、我らの身へと逆流している」
公爵は、答えられなかった。
日誌の、痺れた手で書かれた一行が、瞼の裏で重なった。
「……気づいて、おられたのですか」
「いいや」国王は力なく首を振った。「気づいていれば、手放しはしなかった。我らは皆、目に映る色だけを見て、目に映らぬものを捨てたのだ」
目に映らぬものを、捨てた。
公爵は、その言葉を、自分の声で繰り返したかった。だが喉の奥が薄墨で塞がれているようで、声にならなかった。
◆
邸へ戻る道すがら、北の空に、一筋の光が見えた。
遠く、隣国アイゼンシュタットの方角。天まで届くような、銀色の、澄んだ光の柱。
民は噂していた。あれは、捨てられた令嬢が、帝国の皇帝に拾われ、その腕の中で笑うたびに溢れる光なのだと。泥の中に沈めた娘が、今は手の届かぬ高みで、別の国の空を潤しているのだと。
公爵は、馬車を降りて、色を失った白い庭に立った。
褪せた薔薇。濁った噴水。墨を刷いたような自分の手の甲。
北の光は、こちらを振り返りもしない。
「……エルセ」
何年ぶりかに、公爵は娘の名を口にした。
謝罪ではない。許しを乞う資格などないことは、公爵自身が一番よく知っていた。それは、ただ――この白い庭に、たしかに一度、何にも代えがたい色が在ったのだという、遅すぎる気づきの音だった。
返事は、なかった。
枯れた薔薇が一輪、音もなく散っただけだった。
公爵は、その場に長く立ち尽くした。
娘が毎朝そうしていたように、誰にも気づかれぬまま、ただ一人で。
番外編、お読みいただきありがとうございます。
派手な断罪は、第13話で王子たちに受けてもらいました。けれど、いちばん静かに、いちばん深く堕ちていくのは、娘の価値に「在ったあとで」気づいてしまう父なのだと思い、この閑話を書きました。
エルセ様は振り返りません。帝国の空の下で、ちゃんと幸せですから。
本編をもう一度、第1話から読み返していただけたら――あの夜会の泥が、少しだけ違って見えるかもしれません。
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