第45話:欠落した「初めての言葉」
新しく生まれた帝国の朝は、蜂蜜色の光と、虹色の薔薇の香りに満ちていた。
エルセは、自身の髪を指先で梳くレオンハルトの、熱を孕んだ視線に微睡んでいた。
彼の指が、新しく羽化した彼女の真珠色の肌をなぞるたび、そこから小さな光の粒が零れ落ち、足元で跳ねる精霊ルミエルがそれを嬉しそうに追いかけている。
「……陛下。あまり見つめられては、顔が火照ってしまいますわ」
「よせ。お前があまりに美しく、あまりに脆い光を放つから、目を離した隙にまた空へ還ってしまうのではないかと、気が気ではないのだ」
レオンハルトはエルセの細い腰を引き寄せ、その背に自身の漆黒の翼を重ねた。
二人の心音は、聖域を介さずとも完璧に重なり合っている。神域を壊し、世界を塗り替えた今、レオンハルトの魔力はエルセにとっての『大気』そのものとなっていた。
「……ところで、陛下。ひとつ、気にかかることがございますの」
エルセが、レオンハルトの胸元に顔を埋めたまま、小さな声を漏らした。
「なんだ。言ってみろ。お前の不安の種は、芽吹く前に私がすべて摘み取ってやる」
「……あの日、私が記録庫で貴方の記憶を保存したときのことです。……お母様、アリアの言葉が、どうしても繋がらないのですわ」
レオンハルトの眉が、僅かに動いた。
彼もまた、あの日取り戻した膨大な記憶の断片を、自身の内で整理し直していた。
「……ああ。私も感じていた。……彼女は、お前を『部品』だと言い、私を『起動キー』だと呼んだ。だが、その後に続くはずの……『何のために』という言葉だけが、まるで最初から存在しなかったかのように消えている」
二人が共有する「アリアの言葉」。
『愛を知るほど、器は完成する。愛を知るほど、神は地に堕ちる。……そして、その時、この世界は――』
その、肝心な最後の一節が、神殺しの際にも、記憶の奪還の際にも、どこにも見当たらなかったのだ。
「世界を壊すため、なら、あの天使が動くはずがありません。……お母様は、私を壊そうとしたのではなく、何かを『隠そう』としていたのではないかしら」
「フン……。死してなお、お前の心を占有しようとは、強欲な女だ」
レオンハルトの瞳に、不機嫌な独占欲が宿る。
彼はエルセの顎を指先で持ち上げ、その虹彩が渦巻く瞳を、自身の闇で塗りつぶすように見つめた。
「過去に何があろうと、あの女が何を企んでいようと、関係ない。……今、お前の隣で、お前の肉体を温め、お前の魂を抱いているのはこの私だ。……お前の『初めて』が私の名前でなかったとしても、お前の『最後』は必ず、私の腕の中だと刻み込んでやる」
彼は傲然と言い放ち、エルセの唇を深く、深く奪った。
過去の謎さえも焼き尽くさんばかりの、狂おしい接吻。
その瞬間だった。
エルセの胸元、漆黒の鎖で繋がれた真珠のペンダントが、見たこともない『黄金色』に激しく脈動した。
「――っ、陛下!?」
エルセが胸を押さえて身をよじると、ペンダントから一筋の光が放たれ、空中に古い羊皮紙のような文様を描き出した。
それは、記録庫の中にもなかった、アリアの『真の遺言』。
光の文字が、二人の前で形を成していく。
『――愛しき、私自身の失敗作へ。
もし、この言葉が届いたなら。それは、君を愛し、君のために世界を殺せるほど狂った「魔王」が、君の隣にいるということ。
おめでとう。
君は、ただの器から、世界を育む『苗床』へと進化したわ。
……さあ、教えてあげましょう。
君が生まれた、本当の理由。
この世界が「白く」なっていたのは、君のせいじゃない。
……最初から、この世界には「魂の寿命」が来ていたのよ』
「寿命……? 世界の、寿命だと?」
レオンハルトの声に、驚愕が混じる。
光の文字は、残酷な真実を紡ぎ続ける。
『神様は、君を使って世界を直したかったんじゃない。……君の中に、この世界の「種」を保存して、次の宇宙へと逃がしたかったの。
君は、終わる世界の『箱舟』なのよ。
……けれど、気をつけて。
箱舟が動き出すには、君を愛する者の「命」を、最後の羅針盤として捧げなければならないの――』
最後の文字が刻まれた瞬間、光はパリンと割れ、エルセの瞳の中に吸い込まれていった。
「……陛下……?」
エルセが、震える瞳でレオンハルトを見上げる。
愛すれば愛するほど、救われるのは世界。
そして、その完成の代償に必要とされるのは、愛する者の命。
レオンハルトは、青ざめるエルセの肩を、砕けんばかりの力で抱きしめた。
「……フッ、ハハハハハ! 面白い……! 神の次に、今度は世界そのものが、私の命を要求するか!」
魔王の瞳に、極大の殺意が宿る。
「いいだろう。……エルセ。私の命を奪わねば動かぬ船なら、私はその船をこの腕で引き摺り、地獄の業火で動かしてやる。……お前から私を奪うなどという『運命』、私が根こそぎへし折ってやろう」
新世界の空に、再び不穏な暗雲が立ち込める。
だが、二人の絆は、絶望さえも甘美な薪にして、より一層激しく燃え上がっていた。
第45話をお読みいただき、ありがとうございます。
ついに明かされた「エルセ様が生まれた真の理由」。
世界を救うための器ではなく、滅びゆく世界を「種」として保存し、次へ運ぶための「箱舟」……。
そして、その発動条件は「陛下自身の命」。
あまりにも残酷な母の遺言に、陛下の逆鱗が再び咆哮いたしましたわ!
「運命が命を奪うなら、運命そのものをへし折る」。
これこそが、私の愛してやまないレオンハルト陛下の姿です。
「アリア、結局いい人なの? それとも最悪な母親なの!?」「陛下、絶対に死なないで……っ!」
そんな風に二人の過酷な愛に胸を締め付けられましたら、ぜひ【ブックマーク】と【ポイント評価(★★★★★)】をお願いいたします!
皆様の応援が、運命を焼き尽くす陛下の炎となりますわ。
次回、第46話。
『箱舟の目覚め、あるいは魔王の拒絶』。
エルセの中に眠る「世界の種」が発芽を始め、帝都に巨大な「黄金の樹」が出現します。
どうぞ、お楽しみに。




