第39話:否定された証、あるいは孤独な宝物
「……エルセ、それは何だ。汚らしい。今すぐ捨てろ」
寝室に、冷ややかな声が響いた。
レオンハルトの紫水晶の瞳が射抜いたのは、エルセの白い首元で揺れる、一粒の真珠のペンダントだった。
それは、第1章の終わり、彼が帝都のすべての名工を集め、彼女の瞳の色に合わせて作らせた、世界に唯一の「誓い」の品。
かつて彼は、これをお守りとして彼女に贈り、「お前の涙はすべて、私がこの真珠に閉じ込めてやる」と囁いたはずだった。
「陛下……? これ、は……。貴方が、私に……」
「私が? 戯言を。私はお前に『最高のもの』しか与えん。そんな出所の知れぬ、魔力も宿らぬ凡庸な石を、私が選ぶはずがなかろう」
レオンハルトの言葉には、一片の迷いもなかった。
彼の黒い鱗に覆われた指先が、ペンダントの鎖を千切らんばかりに掴み取る。
カサリ、と。
昨日よりも大きな音が、エルセの心の中で響いた。
彼の中から、このペンダントを選んだ時の高揚も、彼女の首にかけた時の震える指の熱も、すべてが「白」く塗り潰されたのだ。
「……っ、ぁ……」
エルセの喉から、声にならない悲鳴が漏れる。
魂が繋がっているからこそ、痛烈に理解できてしまう。今の彼にとって、この真珠は愛の証などではない。最愛の女の肌を汚す、ただの「ゴミ」に過ぎないのだと。
「そんなにそれが大事か? 他の男から贈られたものででもあるまいな。……不快だ。お前の身体には、私の漆黒だけが刻まれていればいい」
レオンハルトは、情け容赦なくペンダントを奪い取り、窓の外の雲海へと投げ捨てようとした。
「いけません!!」
エルセが叫び、彼の腕に縋り付いた。
彼女の虹色の鱗が、悲鳴を上げるように激しく発光する。
「……陛下、お願いです。これだけは……これだけは、奪わないで……っ。貴方が忘れてしまっても、私の心には、まだ貴方の手の温もりが残っているのです……!」
レオンハルトの手が、止まった。
彼は、自分に縋り付き、必死に涙を流すエルセの姿を、呆然と見つめた。
彼には理解できない。
なぜ彼女が、こんな価値のない石ころのために、これほどまでに傷ついた顔をするのか。
なぜ、自分以外の「過去の自分」に、これほどまでの想いを馳せるのか。
「……そんなに……泣くのか。私の前で、その石のために」
レオンハルトの瞳に、暗い影が差した。
それは記憶を失ったことへの戸惑いではない。
自分が知らない「何か」に、エルセの心が支配されていることへの、猛烈な嫉妬と自己嫌悪。
「……わかった。捨てはしない。……だが、私の前では二度と着けるな。それは私の知らないお前だ。……私は、今の、私の腕の中にいるお前だけを愛したい」
レオンハルトは、ペンダントをベッドの脇に投げ捨てると、乱暴にエルセを抱き寄せた。
彼の心音は激しく、どこか壊れそうなほどに不安定だった。
「……すまない。お前を泣かせたのは、この私か。……ならば、世界を殺した後に、この私自身も裁かねばならんな」
「陛下……」
彼は忘れている。自分が彼女を傷つけたことさえ、忘却の糧にして。
ただ、彼女を独占したいという剥き出しの本能だけが、日に日に先鋭化していく。
その時。
投げ捨てられた真珠のペンダントが、床の上で僅かに「黄金色」に輝いた。
『――ねえ、素敵だと思わない? 彼は君を愛するために、君を忘れていく。……このままだと、次は君の名前が消えるよ?』
虚空から響く、黄金の瞳の嘲笑。
エルセは、陛下の腕の中で、決意を固めるように目を閉じた。
(……お母様。もし、私の力が『すべてを飲み込む穴』なら。……陛下の奪われた記憶さえも、私が飲み込んで、保存してみせますわ)
彼女は気づいていた。
聖域の奥底に、母アリアが遺した「禁忌の記録庫」への扉が、もう一つ存在することに。
そこに入ることは、神の力を完全に受け入れ、人間としての感情をさらに切り捨てることを意味する。
それでも。
彼に「誰だ」と問われる日を待つくらいなら、彼女は自ら、思い出を背負う「墓標」になる道を選ぼうとしていた。
第39話をお読みいただき、ありがとうございます。
二人の大切な誓いの証であるペンダントが、陛下の手で「ゴミ」として扱われてしまうシーン……。
あまりの切なさに、執筆しながら私の扇子も震えてしまいましたわ。
陛下が「自分自身(過去の自分)」に嫉妬するという、忘却が生んだ歪な愛の形。
エルセ様は、彼を繋ぎ止めるために「記憶の墓標」となる決意をしました。
神としての力を振るい、消えゆく思い出を自分の内側に保存する。
それは、彼女がますます「人間」から遠ざかることを意味します。
「陛下、頼むから思い出して……!」「エルセ様の献身が痛々しくて尊い……」
そんな風に二人の愛の行方に悶絶していただけましたら、ぜひ【ブックマーク】と【ポイント評価(★★★★★)】をお願いいたします!
皆様の応援が、二人の「最後の絆」を守る魔力となりますわ。
次回、第40話。
禁忌の扉、開放。
エルセが陛下の記憶を「保存」し始めた時、二人の魂に起きる「究極の共鳴」とは。
どうぞ、お楽しみに。




