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泥人形と呼ばれた令嬢、隣国の冷徹皇帝に「世界の至宝」として攫われる ~「無能」と捨てられた私が、実は世界を守る唯一の浄化術師だった件。~  作者: 西園寺ミオ


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第38話:最初の忘却、あるいは名もなき温もり

朝の光が、聖域の銀色に溶けていた。


 エルセは、自身の胸の上で規則正しい鼓動を刻むレオンハルトの頭を、そっと撫でた。

 魂が繋がっているからこそ、わかる。

 昨夜、世界の摂理に「記憶」という名の代償を支払ったあの日から、彼の中に、たった一箇所だけ、ぽっかりとした「空洞」ができていることを。


「……ん、エルセか」


 レオンハルトが、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

 紫水晶の瞳がエルセを捉える。そこにあるのは、変わらぬ深い情愛と、彼女を独占せんとする魔王の熱量。


 だが。


「……陛下。……あの、ひとつ、伺ってもよろしいですか?」


「なんだ。お前の望みなら、空の星をすべて黒く染めてでも叶えてやろう」


 エルセは胸が締め付けられるのを堪え、努めて穏やかに、かつて二人で語り合った「小さな約束」について問いかけた。


「……私たちが初めて、この離宮の裏庭で、二人きりでお茶を飲んだ時のことを……覚えていらっしゃいますか?」


 レオンハルトは、一瞬だけ、不思議そうに眉を寄せた。

 彼の思考が、自身の記憶の図書館を高速で検索していくのが、魂の繋がりを通じてエルセに伝わってくる。


 カサリ、と。

 彼の脳裏で、古い本が一冊、音もなく灰になって崩れるような感触がした。


「……裏庭で茶を? ……いや、そんなことはしていないだろう。私は常に、お前を人目に触れさせぬよう、奥の寝室に閉じ込めていたはずだ」


 その瞬間、エルセの視界が歪んだ。

 

 ――あの日、毒に怯えて何も食べられなかった私に、陛下が自ら毒見をして、冷めかけた紅茶を勧めてくださった。

 ――「これは私の色だ。これを飲めば、お前は私の所有物だ」と、不器用な優しさで笑ってくださった。


 あの、大切な、最初の「人間らしい」ふれあい。

 それが、レオンハルトの中から、跡形もなく消え去っていた。


「……ああ、そうですわね。私の、勘違いでしたわ」


 エルセは微笑んだ。虹色の鱗が、悲しみに耐えるように淡く震える。

 

 陛下は忘れている。

 けれど、彼がその記憶を「世界」に捧げたおかげで、帝都の白化現象は止まり、エルセの身体を蝕んでいた虚無も、今は静かに凪いでいる。

 

「……エルセ? なぜ泣いている」


 レオンハルトが、狼狽したようにエルセの頬を包み込んだ。

 彼は記憶を失ったこと自体を、自覚していない。

 ただ、腕の中の愛しい女が、自分の知らない理由で傷ついていることに、獣のような苛立ちと焦燥を見せている。


「お前を泣かせるものは何だ。過去か? 神か? ……それとも、私の知らない『誰か』か?」


「いいえ、陛下。……ただ、幸せすぎて、少しだけ胸が苦しいのです」


「……ならばいい。もしお前を泣かせる者が現れたら、たとえそれが私の記憶の中にいる幽霊であっても、根こそぎ消し去ってやる」


 レオンハルトは、記憶の欠落を埋めるように、以前よりも激しく、狂おしくエルセを抱きしめた。

 

 魂が繋がっているからこそ、エルセには伝わってくる。

 彼は忘れてしまった。あの日、自分がどれほど不器用な優しさを彼女に向けたかを。

 けれど、その「優しさ」の結果として生まれた現在の「執着」だけは、記憶を失う前よりも鋭利に、深く、彼の魂に刻み込まれている。


 皮肉なことだった。

 思い出を捨てれば捨てるほど、今この瞬間の彼女に対する依存度が増していく。

 

「……ああ、愛している、エルセ。お前がいれば、他には何もいらん。名前も、過去も、昨日話した言葉さえも……すべてお前に捧げて、私はお前だけの魔王になろう」


 レオンハルトが、彼女の唇を奪う。

 接吻の熱の中で、エルセは絶望的な幸福を感じていた。


 この人は、これからも私を救うために、私との思い出を一つずつ殺していくのだろう。

 最後には、私の名前さえ忘れてしまうかもしれない。

 それでも、この人は私を「離さない」と、その魂の呪いで叫び続けるに違いない。


「……陛下。私も、愛しております。……たとえ世界中の誰もが、私たちの愛を忘れてしまったとしても」


 聖域の外。

 白く凍りついていた街角に、一輪の「色のある花」が咲いた。

 

 それはレオンハルトの記憶という犠牲の上に咲いた、呪われた奇跡。

 

 だが、その花を摘み取る影が一つ。

 

『――あはは。次はどれを消そうかな。……やっぱり、彼がエルセに初めて贈った、あのペンダントの記憶かな?』

 

 虚空に浮かぶ、黄金の瞳。

 世界を救うためのシステムは、二人の愛を「最も痛いところ」から順番に喰らい尽くそうと、次の牙を研いでいた。

第38話、お読みいただきありがとうございます。

最初の忘却……それは、二人が初めて心を通わせたティータイムの記憶でした。

陛下にとっては「なかったこと」でも、エルセ様にとっては「一生の宝物」。

その温度差に耐えながら、変わらぬ溺愛を受けるエルセ様の心中、察するに余りあります。


「陛下、本人は自覚がないのが余計に辛い……!」「思い出を食べて生き延びるなんて、切なすぎる……」

そんな風に二人の行く末を案じていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】と【ポイント評価(★★★★★)】をお願いいたします!

皆様の評価が、陛下の消えゆく記憶の「バックアップ」となりますわ。


次回、第39話。

「贈り物」の消失。

エルセが肌身離さず持っていたはずのペンダントを、陛下が「ゴミ」と呼んだ日。

物語は、さらなる感情の奈落へと突き落とされます。

どうぞ、お楽しみに。

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