第37話:世界が拒む、二人の心音
足元から噴き出したのは、影ですらなかった。
ジュリアンが白い塵へと還った場所に刻まれた「ヒビ」。そこから溢れ出した「黒い白い羽」は、重力に逆らって渦を巻き、やがて一つの巨大な「形」を成していく。
それは、色彩を失った巨大な翼を持つ、顔のない人型の異形だった。
『――検知。世界律を乱す、過剰なる熱源。排除対象:個体名レオンハルト、およびエルセ』
その声は、人間の喉から出たものではない。
風の唸り、大地の軋み、あるいは死にゆく世界の「呼吸」そのものが言葉を成したような、無機質な響き。
「排除……? フン、この私をか?」
レオンハルトが、エルセを左腕に抱きしめたまま、右腕の黒い鱗を逆立たせた。
彼の背後から伸びる漆黒の翼が、異形が放つ不気味な威圧感と激突し、地下監獄の空間そのものが歪み、砕け散る。
「陛下、いけません! この方は、さきほどの使者とは違います……! これは、世界そのものの『意思』ですわ!」
エルセの虹色の鱗が、かつてないほどの輝きを放ち、警鐘を鳴らしていた。
彼女には見えていた。この異形の正体は、彼女が幸せになればなるほど「白く」死んでいく世界が、最後の力を振り絞って生み出した「抗体(アンチ体)」であることを。
『器の肥大化を確認。色彩の枯渇、残り0.03パーセント。……世界を救うために、病巣を切り離す』
異形が翼を羽ばたかせると、そこから「無」の波動が放たれた。
それは、レオンハルトが放つ漆黒の魔力さえも、一瞬で「ただの概念」として消去していく、圧倒的な拒絶の力だ。
「……っ、が……あッ!」
レオンハルトの右腕の鱗が、剥がれ落ちるように削り取られていく。
世界というシステムにとって、今の彼は「自分たちを食い荒らすウイルス」に過ぎない。自身の細胞から攻撃を受けているかのような、抗い難い「消去」の痛みが魔王を襲う。
「陛下! ああ、もうおやめください! 私のために、世界をこれ以上……!」
「黙れ、エルセ……! 私の身体が消えようと、この魂がお前を繋ぎ止めている限り、私は死なぬ! 世界が私を拒むなら、私は世界を殺して、お前だけの神になる!」
レオンハルトが、口から黄金の血を吐きながら、無理やり漆黒の刃を顕現させた。
彼はエルセを一度も離さなかった。たとえ自分の存在が削り取られ、塵になろうとも、彼女を抱きしめるその一点だけを「世界の真実」にしようと、己の全存在を懸けて抵抗する。
その時。
エルセの胸元で、陛下によって「黒く」染め上げられたはずの『原初のプリズム』が、爆発的な輝きを放った。
「――お下がりください、陛下」
「エルセ、何を……っ」
エルセはレオンハルトの腕から、静かに滑り降りた。
彼女が一歩踏み出すと、足元にたまっていた白い塵が、虹色の光となって舞い上がる。
彼女は、顔のない異形へと右手を伸ばした。
「……確かに私は、誰かの色を奪って、こうして生きているのかもしれません。けれど、その色を私に注ぎ込んだのは、この世界ではありません。……私を愛し、私に命をくれた、たった一人の男性です」
エルセの瞳から、一筋の虹色の涙が零れる。
「彼の愛を『病』と呼ぶなら、私はその病を抱いたまま、世界を飲み込みます。……来なさい、世界の盾よ。私の『色彩』に、耐えられるものなら!」
エルセの背中から、真珠色の、そしてレオンハルトの漆黒を纏った「神の翼」が大きく広がった。
異形と、女神。
ぶつかり合ったのは、純粋な物理的破壊ではなかった。
世界の「保存」という摂理と、個人の「幸福」という狂愛。
ドォォォォォォォォォンッ!!
衝撃波が監獄を、そして帝都の地面を突き抜け、天空へと至る光の柱となった。
異形の放つ「排除」の波動を、エルセの「簒奪」の力が、そのまま飲み込んでいく。
……静寂が、訪れる。
異形の身体は、エルセの魔力に触れた瞬間に「虹色の結晶」へと変わり、その場に虚しく崩れ落ちた。
世界というシステムが放った最初の一撃を、エルセは自らの意志で、力技でねじ伏せたのだ。
「……エルセ、大丈夫か……?」
ボロボロになったレオンハルトが、彼女の元へ這い寄り、震える手で彼女の腰を抱いた。
「はい、陛下。……私は、平気ですわ。……けれど、わかってしまいました。……世界は、もう私たちを許してはくれない」
虹色の結晶となった異形の残骸が、最後のかすかな声を漏らした。
『――おめでとう、怪物たちよ。……君たちは、世界を『殺した』。……だが、忘れるな。……崩壊する世界の心臓部を維持するためには、もう『色』だけでは足りない。……次に必要なのは、お前たち自身の『記憶』だ』
「記憶……だと?」
『彼女を生かし続けたいなら、皇帝。……君がお前自身の、彼女との思い出を、一欠片ずつ捧げるがいい。……思い出が消えるたび、彼女の器は満たされ、白き終焉は一時的に遠のくだろう……』
結晶が砂となって消えていく。
レオンハルトの顔が、絶望に歪んだ。
エルセを生かすために、彼女との愛の記憶を、自分の内側から消し去らねばならない。
究極の独占欲を誇る魔王に突きつけられた、あまりにも残酷な「延命」の条件。
エルセは、陛下の顔を見ることができなかった。
繋がった魂が、レオンハルトの胸の中で激しく波打つ、凄まじい「拒絶」と「恐怖」を伝えてきたからだ。
第37話をお読みいただき、ありがとうございます。
世界の防衛本能さえもねじ伏せたエルセ様。ですが、その先に待っていたのは「思い出を糧にする」という、ロマンスの否定とも言える過酷なルールでした。
陛下にとって、エルセ様との記憶を失うことは、死よりも辛い選択。
それでも彼女を生かすために、彼は「自分を失う」道を選ぶのでしょうか?
「世界、容赦なさすぎる……」「陛下、思い出を捨てないで!」
そんな風に二人の運命に心を痛めていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】と【ポイント評価(★★★★★)】をお願いいたします!
皆様の応援が、消えゆく記憶を繋ぎ止める「唯一の楔」となりますわ。
次回、第38話。
「最初の記憶の欠落」。
陛下が、エルセとの出会いの一部を忘れてしまった朝。
二人の間に、これまでにない「距離感」が生まれ始めます。
どうぞ、お楽しみに。




