第3話:死の森の静寂、黒い獣の足音
意識の淵で、エルセは母の声を聴いた気がした。
――エルセ、あなたは誰よりも透明で、優しい子。いつかその色が、誰かの闇を照らす灯火になるわ。
(……いいえ、お母様。私の火は、もう消えてしまいそうです……)
叩きつける雨の音が、遠くなる。
肺に吸い込む空気は冷たく、泥の臭いが鼻腔にこびりついて離れない。
この『境界の森』は、溢れ出した魔力の残滓が「瘴気」となって渦巻く死の地。色のない、魔力を持たないとされるエルセがここで生き延びる術など、どこにもなかった。
ガサリ、と重い足音が響いた。
魔物だろうか。それとも、腐肉を漁る獣だろうか。
エルセは指先一つ動かせないまま、ただその「死」を待った。
だが、訪れたのは暴力的な死ではなかった。
――静寂だ。
激しかった雨音が、ぴたりと止む。
いいえ、止んだのではない。
エルセの周囲に立ち込めていた不気味な紫の瘴気が、より「絶対的な何か」に飲み込まれ、消滅したのだ。
見開かれたエルセの瞳に、信じられない光景が映る。
深い闇の中から現れたのは、一人の男だった。
夜を切り裂いて仕立てたような漆黒の外套。その隙間から溢れ出すのは、触れるものすべてを塵に帰すような、圧倒的な「死の魔力」の波動。
男が歩くたび、周囲の木々はひれ伏すように砕け、地面は黒く灼ける。
それほどの破壊を撒き散らしながら、男の顔立ちは――神が嫉妬するほどに、美しかった。
濡れた黒髪から滴る雫。
すべてを射抜く、冷徹な紫水晶の瞳。
その瞳が、泥にまみれて横たわるエルセを捉えた。
「……ほう」
低く、地鳴りのように響く声。
男――アイゼンシュタット帝国の皇帝レオンハルトは、無造作にエルセへと歩み寄った。
通常なら、彼の魔力に触れただけで、エルセのようなひ弱な令嬢は精神ごと消し飛んでしまうはずだ。
だが、奇跡は起きた。
レオンハルトの纏う「漆黒」がエルセの体に触れた瞬間、彼女の「無色」が、真珠のような柔らかな光を放ち始めたのだ。
彼の破壊的な魔力が、彼女に触れることで「凪」へと変わる。
猛り狂う嵐が、鏡のような水面に吸い込まれていくように。
「私の闇を吸い込み、光に変えるか。……お前は、何者だ」
レオンハルトが跪き、泥に汚れたエルセの頬に手を添えた。
熱い。
凍え切っていたエルセにとって、その手のひらは、生まれて初めて触れた太陽のようだった。
「あ……あ……」
エルセの瞳から、一筋の涙がこぼれ、レオンハルトの指を濡らす。
彼はその涙を慈しむように親指で拭うと、ため息をつくように囁いた。
「この汚れきった世界に、これほどまで純粋な『透明』が残っていたとは。……王国の連中は、これほどの至宝を泥に捨てたのか」
彼の瞳に、昏い愉悦と、燃えるような独占欲が灯る。
レオンハルトは、泥まみれのエルセを――まるで世界で最も壊れやすい宝石を扱うかのような手つきで、その逞しい腕の中に抱き上げた。
「……陛下……なぜ……?」
「黙っていなさい。お前の声は、私が許可した時にだけ聴かせればいい」
レオンハルトは、エルセの額を自分の胸に押し当てた。
ドクドクと、力強く脈打つ鼓動。
今まで誰にも触れられず、孤独に「破壊」を背負ってきた皇帝。
そして、誰にも理解されず、孤独に「浄化」を捧げてきた令嬢。
欠けた魂のピースが、今、パズルのようにはまった。
「よく耐えたな。これからは、お前を傷つけるものは風の一吹きさえ許さない。……今日からお前は、私のものだ。死すらも、私の許可なくお前を奪うことはできぬ」
レオンハルトは翻した外套でエルセを包み込み、そのまま闇の中へと消えていく。
その背後で、エルセを運んできた荷馬車の車輪の跡が、彼の放った黒い炎によって跡形もなく焼き尽くされた。
彼女の過去を。
彼女を侮辱した記憶を。
そのすべてを、この男が灰にしようとしている。
エルセは、彼の胸の中で深い眠りに落ちた。
次に目を開ける時、彼女の世界が「逆転」していることも知らずに。
ついに、運命の出会いが果たされました!
泥にまみれたエルセを抱き上げたレオンハルト陛下。
彼の「重すぎる愛」の片鱗、感じていただけましたでしょうか?
「陛下、カッコよすぎる……!」「エルセ、もう大丈夫だよ!」
そんな風に思っていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】をお願いいたします。
次は第4話。
目覚めた先は、帝国の最奥――。
そこでは、王女時代の質素な生活からは考えられないような「過保護すぎる新生活」が待っています。
エルセの反応と、陛下のデレ(?)を楽しみにしていてくださいね!




