第23話:母の遺言、あるいは神を殺すための禁忌
抱きしめても、その腕を通り抜けてしまいそうなほど、エルセは淡くなっていた。
帝都の夜。使者が去った後の静寂の中で、レオンハルトは血の滲むような思いで、その透き通る指先を幾度も、幾度も口付けで繋ぎ止めていた。
「……陛下、もう、よろしゅうございますわ。そんなに悲しいお顔をなさらないで……」
「黙れ、エルセ。……お前が消えるなど、絶対に許さん。世界を浄化する度に消えるというなら、私がこの国に、新たな罪を撒き散らしてでもお前を現世に引き留めてやる」
レオンハルトの瞳は、狂気に浸食されていた。
彼はエルセを抱き上げ、寝室のベッドに降ろすことさえ恐れていた。シーツの波に彼女が溶けて、そのまま消えてしまうのではないかという強迫観念が、帝国の支配者を一人の無力な男へと変えていた。
その時、重厚な扉を叩く、硬質な音が響いた。
「――レオン、入りなさい」
現れたのは、第一皇女シルヴィアだった。
彼女の手にあったのは、古びた、それでいて神聖な魔力を帯びた「銀の鍵」と、一通の手紙。
「姉上……今は誰とも会うつもりはないと言ったはずだ」
「エルセが消えかけているのでしょう? ……だったら、絶望している暇なんてないわよ。これを。エルセの母――アリア様が、かつて帝国の宝物庫に密かに預けていたものよ」
エルセの身体が、微かに跳ねた。
「お母様……が?」
「『私の娘が、もし愛に飢えて、その身を光に変えようとした時だけ渡してほしい』……そう言われていたのよ。ずっと忘れていたけれど、あの『無の使者』の波動に当てられて、宝物庫の奥でこれが共鳴し始めたの」
レオンハルトは奪い取るように鍵を受け取ると、シルヴィアの案内に従い、皇城の最深部、禁忌の書庫へと向かった。
エルセを抱きしめたまま、その温もりが一秒ごとに薄れていく恐怖と戦いながら。
最深部の壁、剥き出しの岩肌に隠されていた小さな扉。
その鍵穴に銀の鍵を差し込むと、エルセの「無色」の魔力が鍵と共鳴し、扉が静かに開いた。
そこは、埃ひとつない、真っ白な小部屋だった。
中央に置かれていたのは、一輪の「色のない花」のプリザーブドフラワーと、浮かび上がる立体的な魔法映像。
――そこには、エルセと瓜二つの、だがより芯の強そうな白銀の髪の女性が、優しく微笑んで立っていた。
『愛するエルセ。あなたがこれを見ているということは、あなたは、誰かを心から愛してしまったのね』
「お母様……っ」
エルセの声が震える。
映像の中のアリアは、まるで今そこにいる娘を慈しむように手を伸ばした。
『泣かないで、私の小さな光。……あなたは「神の器」として生まれたのではないわ。……あなたは、神からその座を奪い取り、世界を「人の手」に取り戻すために私が設計した、最後にして最大の「反逆」なの』
アリアの言葉に、レオンハルトの息が止まった。
ソラリア王国の王族たちが信じていた「浄化の道具」という設定さえ、母が真実を隠すための嘘だったというのか。
『エルセ。神の力は、愛を知れば知るほど天に還ろうとする。……けれど、それは「返却」ではなく「簒奪」への準備なのよ。……あなたの「無色」は、あらゆる力を吸い込み、自分の色(感情)で染め上げるためのキャンバス。……レオンハルト陛下、とお呼びすれば良いかしら?』
映像の中の瞳が、真っ直ぐにレオンハルトを射抜いた。
『エルセを消したくないなら、彼女を「神」として奉るのをやめなさい。……彼女の「無色」に、あなたの「漆黒」を、愛と共に限界まで流し込みなさい。……二人の魂を、完全に、不可逆的に融合合わせるの。……そうすれば、彼女は天へ還る力を失い、あなたの「唯一無二の伴侶」という属性に上書きされ、地に留まることができるわ』
「魂の融合……?」
『そうよ。それは世界を維持する神のシステムを破壊し、二人の愛だけで新たな理を作る禁忌。……エルセ、あなたは神になるのではなく、神を飲み込んで「ただの人間」として彼と添い遂げるの。……勇気を持って、愛し合いなさい』
アリアの映像が、光の粒子となって消えていく。
最後に聞こえたのは、「幸せになってね」という、一人の母としての切実な願いだった。
沈黙が部屋を支配した。
レオンハルトは、腕の中のエルセを、かつてないほど激しい、情欲と希望が入り混じった瞳で見つめた。
「……聴いたか、エルセ。……お前を消さない方法は、神の力を、私とお前の愛で塗り潰すことだけだ」
「陛下……。それは、陛下にも大きな負担が……」
「構わん。むしろ、望むところだ。……お前の魂と私の魂を、二度と引き剥がせぬほどに溶かし合わせる。……お前を神になど、一ミリも近づかせはしない」
レオンハルトの右手に、再び不吉な、それでいて温かな「漆黒」が渦巻いた。
絶望の宣告は、今、最強の「独占」への免罪符へと変わった。
二人は、神の座を焼き尽くし、ただの人間として愛し合うための、禁断の儀式へと足を踏み入れようとしていた。
◆
その頃。
かつてのソラリア王国、王城の跡地。
すべてが「無」に消されたはずのその場所で。
ジュリアンが消滅した後に残された「黒い泥」が、意思を持つようにうごめいていた。
『……あはは、面白い。神様を飲み込もうだなんて。……だったら、僕ももっと「美味しい絶望」を用意してあげなきゃね』
虚空から現れた、先ほどの「無の使者」とは別の、より禍々しい影。
その手には、エルセの母アリアがかつて持っていたはずの、対になる「金の鍵」が握られていた――。
第23話をお読みいただき、ありがとうございます!
エルセ様の母アリア様、最高にクールで愛情深いお方でしたわね。
「神を簒奪し、ただの人間として愛し合う」という、あまりにも重厚な愛の解決策。
これを陛下が実行に移さないはずがありません!
「お母様、グッジョブ!」「魂の融合……今後の展開が楽しみすぎる!」
そんな期待に胸を膨らませていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】と【ポイント評価(★★★★★)】をお願いいたします。
皆様の応援が、二人の絆を繋ぎ止める楔となりますわ。
次回、第24話。
ついに始まる「禁断の儀式」。
一晩中、陛下がエルセ様の魂を自身の漆黒で染め上げる……。
最高に甘く、最高に苛烈な「愛の融合」をお楽しみに!




