最後の一矢
行也は退職後の手続きの説明を聞いて、会社から出た。彼はずっしりとした鞄を抱え、会社の建物にまた一礼してふらふらと歩き出す。
「山田! どうした? 顔色が悪いぞ?」
ちょっと険しい目付きの中年男性が、走って行也を呼び止めた。彼は行也が入社した時の教育係で、厳しくも丁寧に指導してくれた男である。社長の信頼も厚い。
眉間にシワを寄せて見つめる彼に、行也は事情を説明した。彼は少し唸ったが、行也の腕を引っ張った。
「それは確かに不味かったが……何かあったんだろ? 一緒に社長に……。」
行也は力無く首をふった。
「社長は入社した時に、時間や約束が守れない人間は例え家族でも許せないと仰っていました。
俺は社長に、何がなんでも時間を守ると約束して、雇っていただけたんです。それなのに俺は、事前連絡なしの遅刻と、無断欠勤をしてしまいました。社長にも皆様にもご迷惑をおかけして……。」
「いや、今度から気をつけてくれれば……それよりお前は来年、弟が受験なんだろ?
うちも結構金がかかった。受験料だけでも一〜二万はするんだぞ。
だから何がなんでもしがみつけ!」
行也の両肩を持ち、訴えかけるように見上げる元指導係。行也はそんな彼から目をそらして言った。
「社長は……俺を可愛がってくださいました。クリスマスにはプレゼント、お正月にはお年玉をいただいたり……そんな社長を俺は裏切ってしまいました。
それに社長はご自身のお考えは曲げない方です。」 指導係の手が、するりと落ちる。行也はそんな彼に、頭を下げて立ち去った。
「……今まで大変お世話になりました……そのうち夕飯でも食べに来て下さい…ありがとうございました!」
――その後。彼はゾンビのように生気のない表情で、ハローワークへ。
離職票はまだ貰えなかったため、失業保険の申請は今は出来ない。そのため今日は様々な手続きを経て、職員に就職相談をした彼だが。
五十分後。行也はがっくりと肩を落としてハローワークを出た。
「やっぱり資格……運転免許証もまだ無いのと、急に抜けなきゃいけない時があるのと、無断欠勤と遅刻で解雇されたのが……。自業自得だけど……。とりあえずパートを探そうかな……。履歴書も書かなきゃ……。」
彼は霞のように真っ白な顔と消え入りそうな声で呟き、コンビニで履歴書を購入、駅で無料の求人誌を入手して帰った。
「ただいま戻りました……。」
黒田は玄関へ走ってきて、行也を見上げた。
「おかえり。お昼、一緒に食べるか!」
黒田は、明るく微笑むと冷蔵庫へ走っていく。彼は麦茶を取り出すと、駆け寄った行也を制止し、瓶を居間へと引き摺って運んだ。そしてテーブルの上に置いてあったコップ麦茶を注ぐ。
「……お疲れ様。」
行也はドサッと床に崩れ落ちた。そしてそんな彼の膝元には歪んだ水玉が点描画のように広がり、大きな円になる。
彼はさらに体も声も心も震わせた。
「……く…び…に……なって…しまいました……。俺はもう兄失格です……。弟を養えないなんて……。また行人に気を使わせてしまう……。」
黒田は裏返った声で言った。
「くびは……予想がついていたが……行人が気を使うぅ?」
「はい…中学校は野球部だったのに……グローブやバット代とか遠征とかあるから…家計に気を使って……高校で部活に……入らないんです……。大学も……。」
目も鼻も真っ赤にした行也は言葉が止まらなくなった。
「……はるひ…こ…さんは……きちん…とてるく…んを……す…いそう…がくぶにいれた…り……こうむ…いん…だし…しっかりしてるのに……。ゆき……とにはも…うし…わけ……ない…おなじ…あになのに……。どう…してこ…うも……ちが……」
黒田はハンカチを行也に渡して、冷たい声で言った。
「そうじゃな。ワシも人のことは言えんがお前は情けない。家に変な奴を招き入れるわ、多少はマシになったものの訪問販売やセールス電話にひっかかりそうになるわ、警戒心が足りない。行人にもちょっと甘やかしすぎじゃ。」
受け取ったハンカチを目に当てて、深く頷く行也。 そんな彼に、黒田はすこし体温の通った声で続けた。
「……でも一番情けないのは、どうしようもないことを他人と比べてごちゃごちゃ悩むことじゃ!
お前は良くやっている。頼りないしアホじゃがアホなりに!
弁当を朝早く起きて作ったり、ワシらの体質をきちんと把握した食事を出してくれたり、こまめに掃除したり、お前なりに周りを気遣って行動している!
仕事も真面目にやっていた!
まぁ今回は何とか上手く説明する方法はなかったのかとは思うが……これはワシにも言えるんじゃがな。 とにかく自信を持て!」
もう喋れないほどに神経が色々な思いでパンクした行也の背中を、黒田は叩いた。
「べそべそいつまでも泣く奴はワシは好きでない。
十五分したら、顔を洗って立ちなさい。城井に呼ばれたからワシも行く。今日見かけた島津殿が言うにはアイツはもう長くはないそうだ。」
「ふぇぇ?」
行也は急ブレーキをかけた車のように泣き止んだ。
お昼も食べずに行也は家を飛び出した。彼は電動竹馬に乗って市役所へ走る。
「確かにちょっと変かなとは思っていましたが……まさか……そんなに緊急なんて……。
幽斎さんなら博士らしいから何か知っているかも! 先生電話して下さ…ふごっ!」
お腹が鳴った行也の口にバナナを突っ込むと、黒田は幽斎に電話した。
「……は? 普通の人間じゃないから病院は無理? じゃあどうす……栄養ドリンクぅ?」
――行也は薬局で栄養ドリンクを三ダース購入してから市役所へ。
「城井師範!」
武者姿の城井は定規のように真っ直ぐ立っていたが。白く冷たく、儚げな佇まいであった。息も荒い。
行也達は幽斎から聞いていた通り、急いで栄養ドリンクを城井の頭にかける。三十六本分の瓶が地面に転がった頃には、城井の顔色が少しだけ良くなった。
「師範、本日はお休みになられたほ……。」
「いや! まだお前に伝えきれていないことがある! さっさと始めろ!」
戦場にいるかのような鬼気迫る眼差しで、城井は行也に弓矢を突きつける。
「で、でも……!」
「私の命を無駄にする気か!」
不安げに見つめる行也へ城井は、行也が今まで聞いたことがない、魂の叫びを身体中から発した。
行也はそんな彼を真っ直ぐに見て、直ぐ様壁の的に矢を射始めた。
「もっと強く引け! ……そうだ!」
行也はひたすらひたすら矢を打ち続けた。傍らの城井は咳き込みながら行也を見つめる。
「これ、あたたかいでござるよ。」
島津は飛び上がり、城井の首にマフラーを巻いた。「一見、ど派手で慎み深さのないデザインでござるが……一目一目丁寧に編んだのは伝わってくるでござる。」
城井はほどいたマフラーをじっくり間近で見つめ、巻き直した。
「……悪くはない。」
その後も行也は手から血が出るほど弓を放ち続けた。休憩一切なし。いつのまにか空は光を失い暗黒の世界になった。島津は懐中電灯で的を照らす。
城井は叫んだ。
「最後の一本!」
行也の放った矢は真っ直ぐに的のど真ん中を貫いた。城井はそれを見て、頷き、壁の的を外す。そして的に突き刺さった矢を纏め、一つの銅色の矢にした。
彼は矢を行也、的を黒田に渡し、ハッキリと響く声で言う。
「最後に試験をする。黒田。この的を頭にのせろ。そしてあそこの塀の上の縁に立て。」
城井が刺した塀は、50mは先。黒田は塀に走ると、何とかよじ登り、的を掲げ持つ。行也の場所からは的がゴルフボール大にしか見えない。
「山田。お前はその的をここから射抜いてみせよ。」
「この矢は一度刺さったら、中々抜けない形でござる! 黒田殿が危ない! せめて反射神経のよい拙者が!」
城井に詰め寄る島津。一方、黒田は叫んだ。
「これくらいの的が射抜けないようじゃ、戦士としても、これからの人生も、この空のようにお先真っ暗じゃ! お前なら出来る!」 行也は眉を下り坂のように下げ、息を呑んで城井を見る。城井の肌は栄養ドリンクをぶっかける前より白く透明で、背景がうっすら透けていた。そして顔には眉間のしわのほかに冷や汗が光っている。
行也は先程の城井の言葉と弓矢を握りしめ、矢を構えた。
「先生の命、師範の命、師匠の意志! お借りします!」
彼は的だけを見て矢を放つ。矢は島津の照らした光の道を真っ直ぐに突き進み、的の上縁よりちょっと下に突き刺さる。
黒田はヘナヘナと塀の縁に腰掛け。島津も長い息を吐いて座り込む。
「良くやった!」
城井は快活な笑みを浮かべ、気が抜けて膝をついた行也の背中を叩く。
「師範の指導のおかげです! ありがとうございます!」
何かが吹っ切れたように微笑み、頭を下げた行也に、城井は淡々と告げた。
「私の矢は一本しかない。本当に倒したいものに使え。子孫を調べて下さった栗山殿と母里殿と田中殿……それからあの失礼な少年にも宜しくな。私の愛するこの大地をどうか頼む。」
彼は目を瞑って和歌を早口で詠み始めた。城井の体は赤く光輝き、的と銅の矢を吸い寄せ、取り込んだ。
「ミネラルなら……師範ーー!」
慌てて鞄からスポーツドリンクを出した行也に柔らかく微笑むと、城井は銀色の矢と弓に変化し、灰色のアスファルトに落ちた。




