第六章・超重爆の影
統合航空軍横田基地 東京都
昭和十九年一月三十日
真田少将の指示棒は、教場前方の地図に記された南洋の一点を、軽く二度、叩いた。
マリアナ諸島。
「我が本土防空集団にとって、ここが喪われれば、本格的な仕事になる」
真田の声は相変わらず低く、乾いていた。
だが、その平板さの中に含まれている意味は、候補生たちにも十分すぎるほど伝わった。先ほどまで艦隊決戦の勝敗や損害回復の話をしていたはずなのに、その帰結がいま、自分たちの任務へそのまま接続されてきたのである。
中山照子が、地図へ目を向けたまま口を開いた。
「海の真ん中なのですね。日本からは、随分と距離がありそうですが」
東京女子高等師範学校から来た候補生で、成績も気位も佐藤恵子といい勝負をしている娘だった。物を訊く時の口調にも、曖昧なところをそのままにしておかぬ種類の鋭さがある。
真田は指示棒を肩へ担ぐようにして、背後の堀少佐へ顔を向けた。
「堀君。どれくらいある」
「約二〇〇〇キロです」
堀は即答した。
「二〇〇〇……」
誰かが小さく復唱した。
だが、候補生たちの顔つきは、数字そのものよりも、その数字をどう実感してよいか分からぬ困惑を浮かべていた。二〇〇〇キロといえば遠いのだろう。だが、どれほど遠く、どれほどの意味を持つ遠さなのかは、まだ身体に落ちてこない。
真田は元の位置へ戻り、教卓の端に置いてあった缶へ手を伸ばした。
中からかりんとうを一本つまみ、無造作に口へ入れる。
「ちなみに」
がり、と一度噛み砕いてから続けた。
「我が統合航空軍ができるきっかけになったソロモンの航空戦だが、あの時の戦闘半径は、おおむね一〇〇〇キロ前後だ」
教場のあちこちで、候補生たちの目つきが少し変わった。
既知の苦戦を尺度として置かれたことで、二〇〇〇キロという数字が、ただの桁ではなくなったのである。
真田は湯呑みの冷めた茶をひと口すすり、淡々と続ける。
「片道で数時間。行って、戦って、帰る。それだけで搭乗員も機体もずいぶん削れた。損耗というものは、撃たれる撃たれないだけで決まるわけじゃない」
佐藤恵子が半ば呆れたように言った。
「倍の距離となれば、倍の消耗になるではないですか」
中山もすぐに続ける。
「その上で、少将は脅威だと見ておられるのですね」
「ふん」
真田は鼻を鳴らした。
肯定とも否定ともつかぬその一音のあとで、矢沢大尉へ顎を動かす。
矢沢が、今度は数枚綴りのわら半紙を候補生たちに配り始めた。
一枚目には、太い文字で「軍機」とだけ書かれている。
紙を受け取った候補生たちの背筋が、目に見えて伸びた。
先ほど真田が「権利がある」と言ったとはいえ、軍機と明記された紙を自分の机の上へ置かれる経験は別種の重さを持つ。わら半紙のざらつきが、いつもより乾いて感じられるほどだった。誰かが紙をめくる前に、ひとつ唾を呑む音まで聞こえた。
真田は表情を変えずに言う。
「まずは読んでみろ」
候補生たちは二枚目をめくった。
表題には、こうあった。
新型超重爆に関する報告
その下には図面があり、性能諸元があり、搭載量や高度、速度、航続距離が並んでいる。
数字を追うにつれ、候補生たちの顔つきが変わった。
速力六〇〇キロ毎時以上。
実用高度一万メートル以上。
最大爆弾搭載量九トン。
そして機種名、B-29。
最後に示された航続距離は、五〇〇〇キロを超えていた。
「すごい飛行機です……」
高橋円香が、思わずそう漏らした。
声音には、怯えだけではない、機械そのものへの驚嘆が混じっている。脅威の資料を前にしても、まず兵器としての異様な完成度へ目が向いてしまうあたり、いかにも高橋らしかった。
だが他の候補生たちは、そこまで素直に感嘆できなかった。
一万メートル。
六〇〇キロ。
五〇〇〇キロ。
それらは、ここ数か月でようやく身体へ入れ始めた迎撃の理屈とぶつかる数字でもあった。
高度一万メートルで侵入し、六〇〇キロで進み、しかも大編隊で来る敵を、こちらは地上から把握し、会敵点を作り、迎撃機へ誤りなく指示しなければならない。数字として読むだけでも骨が折れる。実際に空で起きるとなれば、なおさらだった。
佐藤が、紙から目を上げずに訊いた。
「このB-29という飛行機は、日本へ届く、ということですか」
「うん」
真田の返事は短かった。
だがいつもの飄々とした響きは、いくらか薄れている。
「マリアナが落ちれば、そこはB-29の発進基地になるだろう」
教場の空気が、目に見えぬまま一段冷えた。
小林愛子は、紙の上の数字と、先ほどの戦闘序列の話とを頭の中でつなぎ始めていた。
艦隊決戦がある。
たとえそこでこちらが善戦しても、互いに損耗は出る。
問題は、そのあとどちらが先に戦力を回復するか。
もしアメリカの方が早く立て直すなら、次の進撃が始まる。
その矛先がマリアナへ向く。
そしてマリアナが落ちれば、この超重爆が日本へ届く。
会敵点を作る時と同じだった。
未来の一点を先に置き、そこから逆算する。
小林は顔を上げた。
「つまり、アメリカが戦力を回復して再び進撃を始め、そのうちマリアナも落ちるかもしれない。そうなると、日本へB-29がやってくる」
そこで一度言葉を切る。
「そこから逆算して、それまでに私たちが『使える』ようになっていなければならない、ということですね」
「そうだ」
真田は腕を組んだ。
「まあ、マーシャル沖海戦の時みたいに、お味方大勝利、その勢いで停戦へ持ち込める可能性がないでもない」
そこまで言ってから、少しだけ口元を歪める。
「だが、最悪に備えるのが我々の仕事だ」
小林はさらに問うた。
「その最悪に至る場合、残された時間はどれくらいですか」
真田は少しも間を置かなかった。
「遅くても今年中。早ければ半年だな」
教場にざわめきが走った。
候補生たちの視線が、紙と地図とのあいだを行き来する。半年。あるいは一年。そのあいだに、自分たちは本当に間に合うのか。まだ訓練で会敵を作れるようになったばかりの身で、超重爆相手の本土防空に立てるところまで行けるのか。誰も口には出さなかったが、空気ははっきりそう言っていた。
真田が、ぴしゃりと口を開いた。
「だから、牧童の百倍苦労すると言っただろう」
ざわめきが止む。
「少しずつ使えるようにはなってきた。だが、実戦投入にはまだまだ足りん。高度も速度も編隊規模も、いままでの想定より一段上だ。だから、これから先も研鑽を続けることを忘れるな」
その言い方は叱責というより、冷水だった。
浮ついた希望も、怯えすぎた絶望も、まとめて一度机の上へ戻す種類の言葉である。
真田はそこまで言ってから、自分がいささか真面目に話しすぎたことへ気づいたらしかった。
わずかに相好を崩す。
もっとも、その笑い方も、人好きのするものではない。小林には、どちらかといえば、獲物の逃げ道を塞ぎ終えた悪党が機嫌をよくした時の顔に見えた。
「まあ、そう青くなるな」
真田は缶の蓋を叩いた。
「まずは菓子を食え。サイダーでも飲め。考えすぎた頭には、その方が効く」
矢沢が困ったような、しかし慣れたような顔で教場の隅に置かれていた木箱を引き寄せた。中にはラムネ瓶に似た細首のサイダーが何本か入っている。候補生たちは一瞬、顔を見合わせたあと、ようやく小さく笑った。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
だが小林は、受け取ったサイダーの冷たい硝子瓶を掌に感じながらも、まだ頭のどこかで地図の南の一点を見ていた。
マリアナ。
そこが落ちれば、B-29が来る。
その前に、自分たちは使えるようにならねばならない。
教場の窓の外では、冬の空が乾いて高かった。
まだ敵の超重爆は来ていない。
だがその影だけは、すでにこの横田の教場へ差し込み始めていた。




