第七章・幻実の戦果
統合航空軍横田基地 東京都
昭和十九年二月二十日
日曜日だった。
候補生たちは、数度目の外出許可を得て、横田基地の外へ出た。誰が言い出したものか知らないが、いつしか彼女たちは、基地の外を「娑婆」と呼ぶようになっていた。
いささか俗な言い方ではある。だが、朝から晩まで訓練と座学と規律の中で回る生活を続けていると、鉄条網の向こう側はたしかに別の世界めいて見えてくるのだった。
「本土防空集団」の施設を出て、統合航空軍の司令部施設を大迂回して営門に向かう。
候補生の胸中にはやはり、初日にぶつけられた将官の言葉、「二度とここに連れてくるな」が残っていた。
久しぶりの世間は、戦時下にあってなお、まだ明るさを保っていた。
むろん、何もかもが平時のままというわけではない。食糧の多くはすでに配給制へ移り、米のみならず、味噌、醤油、塩といったものまで少しずつ量が削られている。店頭に並ぶ品も以前に比べれば明らかに乏しいし、代用品めいたものも増えた。
それでも街を歩く人々の顔つきは、今すぐ破局が降ってくると知っている者のそれではなかった。行き交う娘たちは笑い、店先の声は明るく、日曜の往来にはまだ人並みの賑わいがある。
小林愛子は、そんな街の空気を歩きながら、ぼんやり考えた。
──この明るさは、どこから来るのかな。
彼女はその日、佐藤恵子、丸山椿、高橋円香の三人と連れ立っていた。
軍服に似た規律のある生活を送っていても、彼女たちが若い女であることに変わりはない。外出許可の出た日曜となれば、甘いものも食べたいし、本屋も覗きたい。
妙な階級章をつけた「少尉候補生」という半端な立場になったとはいえ、そのあたりの心持ちは世間の同年配の娘たちとさほど変わらなかった。
まず入ったのは甘味処だった。
店の表へ掛かった暖簾は少しくたびれていたが、硝子越しに見える卓はそこそこ埋まっている。入ってみれば、湯気と餡の匂いがほのかに混じり、戦時下の簡素さはあっても、客たちはみなそれなりに日曜の時間を楽しんでいるように見えた。
彼女たちはあんみつを頼んだ。
寒天の量はどこか控えめで、甘味もたぶん昔よりは薄いのだろう。だが、それでも匙で掬って口へ運べば、訓練所の食事とは別種のやさしさがあった。丸山が「生き返るねえ」と大げさに息をつき、佐藤が「大げさですこと」と言いながらもまんざらでもなさそうに笑う。高橋は甘味を楽しみつつも、店先から見えた書店の看板が気になるらしく、何度かそちらへ目をやっていた。
甘味処を出ると、四人はそのまま本屋へ向かった。
津田塾の出であるという自負は、こういう時にも顔を出す。せっかく娑婆へ出るのだから、ただ甘いものを食べて帰るだけでは勿体ない。何か一つでも、訓練所以外の知識や世間の空気を持ち帰りたいという気持ちが、誰の中にも多少はあった。
店内には紙の匂いが満ちていた。
もっとも、戦時下ゆえ紙質は総じて落ち、色刷りも贅沢には使えぬらしい。それでも雑誌の棚には、総合誌、婦人雑誌、映画雑誌、軍事雑誌がひととおり並んでいる。世の中が戦争のさなかにあっても、人はやはり読むべきものを読み、見たいものを見るらしかった。
佐藤は迷わず、やや硬めの総合誌を手に取った。
丸山は婦人雑誌をぱらぱらとめくり、着物地の工夫や節約記事に「こういうの、お母さんが好きそう」と笑っている。高橋は最初から軍事雑誌の棚へ直行し、機体の写真と解説記事を真顔で見比べていた。
小林は映画雑誌を買った。
表紙をめくると、邦画の記事のあいだに、海外の映画人を小さく紹介する欄が残っていた。検閲と戦時色の濃い誌面の片隅に、マリーネ・ディートリヒの記事がほんのわずかに載っている。舞台写真は粗い網点で潰れ、文章もごく短い。それでも異国の女優の名と横顔が、いまなお紙面に残っていることが、どこか不思議だった。
戦争は世界を狭くする。
だが、まだ完全には閉じきっていないのかもしれない。
やがて四人は、買った雑誌を抱えて喫茶店へ入った。
店内は少し薄暗く、窓硝子には冬の光が鈍く溜まっている。木の卓には細かな傷があり、椅子の軋みも年季を感じさせた。注文した代用コーヒーは、運ばれてきた時点で香りからして頼りない。
飲んでみれば、やはり味はいまひとつで、丸山が露骨に顔をしかめ、高橋が「でも温かいだけましです」と言い、佐藤が「その感想はちっとも慰めになっていませんわ」と返した。
四人はそれぞれの雑誌を開いた。
読む分野はばらばらだったが、ある話題だけはどの誌面にも共通して踊っていた。
トラック沖海戦大勝利。
総合誌にも、婦人雑誌にも、映画雑誌の時局頁にさえ、その文字が見える。
高橋の買った軍事雑誌が、やはりいちばん詳しかった。
そこには日米両艦隊の戦果まで記されている。被害僅少、戦果甚大。敵主力を痛撃し、我が方はなお健在。文面はおおむねそういう調子だった。
記事の締めには、
マーシャルに続く大勝利である。我が軍の征く途を阻むものは何ものもいない。
見てろニミッツ、マッカーサー。勝利の日はすぐ。
といった勢いのよい文句まで躍っていた。
丸山が、誌面をのぞき込みながら言う。
「景気がいいねえ」
「景気がよいのは結構ですが、勇ましすぎて少し芝居がかっていますわね」
佐藤はそう言ったが、声音の底には、悪い気はしていない響きがあった。
高橋は高橋で、戦果欄の数字を追いながら、「これだけ沈めているなら、本当に大勝利かもしれません」と半ば感心したように呟いている。
小林は映画雑誌の時局記事と、ディートリヒの小さな写真とのあいだへ目を行き来させながら、ふと思った。
──もしかしたら、「もうすぐ終わる」という気持ちが、世間の明るさを支えているのかもしれない。
戦争は苦しい。配給は減る。代用品は増える。けれど、勝っている、もう少しで終わる、という思いがあるなら、人はまだ笑えるのかもしれない。
明るさとは、豊かさそのものではなく、先にある終わりへの期待から来ることもあるのだろう。
翌日、月曜日。
朝の教場には、真田少将がいた。
候補生たちが席につくのを見て、彼は口の端をわずかに持ち上げた。
「娑婆の空気はうまかったか」
教場のあちこちで、くすりと笑いが漏れる。
嫌味とも冗談ともつかぬ、いかにも真田らしい言い方だった。
佐藤がすぐに手を挙げた。
「少将。海軍の決戦があったそうですね。やはり我が軍が勝利したみたいですわ」
「ほう」
真田の返事は短い。
丸山も続けた。
「もうすぐ戦争は終わるのでしょうか」
真田は少しだけ首を傾け、それから佐藤へ視線を戻した。
「佐藤」
「はい」
「勝利の根拠は何だ」
一瞬だけ、佐藤は言葉に詰まった。
だが怯まずに答える。
「軍事雑誌の分析です」
「ふん。なるほど」
真田の顔つきは、怒っているようでもあり、笑っているようでもあった。
それから矢沢大尉へ向けて言う。
「矢沢君。配り給え」
矢沢が前へ出て、候補生たちへわら半紙を配り始めた。
紙が机へ置かれていくたび、教場は少しずつ静かになっていく。
そこに書かれていたのは、堀少佐たちが解析した戦果と損害だった。
本物の数字である。
候補生たちは紙面を見つめたまま、すぐには声を出せなかった。
誰かが紙を一枚めくる音が、やけに大きく聞こえた。
日本は空母四隻を喪っていた。
アメリカは五隻。
補助艦艇の損害も、おおむね似たような交換比である。
たしかに勝ちではある。
だが、戦局を決定的に変えるような大勝利とは言いがたい。辛勝――あるいは、真田の言い方を借りれば、引き分けに近い勝ちでしかなかった。
中山照子が、沈黙を破った。
「これでは、決定的な勝利にならない、ということですか」
「とりあえず、決戦そのものは引き分けに近い」
真田は淡々と言った。
「海軍としては勝ちだろうが、戦争全体を終わらせるほどではない」
小林が口を開く。
「では、ここからが問題、と」
「そうだな」
真田は頷いた。
「堀君」
教場の脇に控えていた堀少佐が、一歩前へ出る。
「どう見積もっている」
「ざっくりと、我は半年。彼は三カ月、といったところです」
三カ月。
その数字が落ちた途端、教場にざわめきが広がった。
昨日まで誌面の中で大勝利を謳っていた戦いが、いまや三カ月後の敵攻勢という形で返ってくる。その落差が、候補生たちにもようやく実感として迫ったのである。
佐藤が硬い声で言った。
「アメリカが、次の一手を」
「そうだな」
真田の返答は、容赦がなかった。
その瞬間、候補生たちの脳裏を、同じ地名がよぎった。
マリアナ。
真田は教卓へ軽く腰を預けるようにして続けた。
「艦隊はしばらく動けん。だから次は基地航空隊の戦いになる」
教場の壁に掛かった地図を、彼は顎で示した。
「そうなると、中部太平洋方面集団の出番だ」
中部太平洋方面集団。
統合航空軍の名の下に組み込まれてはいても、気風の上では海軍航空の色を濃く残した、従来型航空隊の延長にある存在だった。
艦隊のために戦ってきた者たちが、今度は島を支える基地航空隊として時間を稼ぐ役に回るのである。
小林には思い出すものがあった。
──そういえば、ここに来た初日、私たちを罵倒したあの将官は「中部太平洋方面集団」の看板を掲げた建物から出て来たな……。
──あの将官がいる部隊。戦いの考え方はどういうものなのだろう?
「彼らが、どれだけ時間を稼げるか。次の焦点はそこだ」
真田の言い方は、勝てるかどうかではなく、どれだけ保たせるか、という種類のものだった。
小林はその言い回しに、ふと昨日の街の明るさを思い出した。あの往来の笑い声も、あんみつの甘さも、喫茶店の薄い代用コーヒーも、もしかすると、こうした見えない時間稼ぎの上に、まだ成り立っているのかもしれない。
真田は候補生たちを見回した。
「来月には卒業だ。いよいよ君らも少尉になる」
その言葉で、教場の空気がもう一段引き締まる。
「最後まで研鑽を忘れるな」
それから、こともなげに言った。
「じゃあ、今日の訓練にかかりたまえ」
候補生たちは一斉に立ち上がった。
大勝利の見出しも、勇ましい雑誌の文句も、いまはもう昨日ほど明るくは響かない。
だが、その代わりに見えたものもある。
戦争とは、世間に流れる景気のよい言葉だけで動くものではないこと。勝った負けたの先に、損害と回復と、次の戦場と、そこで稼がれる時間があること。
小林は机上のわら半紙を見下ろしながら思った。
幻のような戦果と、実際の戦果。
その両方のあいだに、人の暮らしも、街の明るさも、次の戦いも挟まっているのだ、と。
教場の窓の外では、まだ冬の光が乾いていた。
候補生たちはその朝もまた、受話器と記録紙のある訓練の席へ戻っていった。




