第八章・卒業試験
統合航空軍横田基地 東京都
昭和十九年三月十五日
候補生二十名は、卒業試験の日を迎えていた。
座学の試験もむろんある。
だが、誰の目にも本当の山場は明らかだった。会敵試験――迎撃管制の実技である。
赤とんぼを相手に、速度も高度も限られた条件で始まった訓練は、いつしか疾風を用いた想定へ移っていた。
飛ぶものの速力が倍になれば、こちらの思考の速さも倍いる。位置の変化を追い、時刻を読み、会うべき点を先に作るその仕事は、ゆっくり考えてよい学問ではなくなっていた。
候補生たちはこの数か月で、会敵を作るための知識と経験を一通りは積み上げていた。
成功率はおおむね八十五パーセントほど。訓練課程としては悪くない数字である。
とはいえ真田少将から見れば、満足とは程遠かったろう。もっとも、残りの十五パーセントを教場の中だけで詰め切ることはできないことも、また彼は知っていた。そこから先は、実任務の中でしか積み上がらぬ種類の確率でもあった。
試験は、一機誘導から順に始まり、最終的には五機誘導まで実施された。
三機成功で合格。それ以下は不合格。単純だが容赦のない基準だった。
もっとも、これだけの人数を横田で実機を使って捌くには、空域も時間も足りない。
そのため試験は、実機のかわりに図上演習として行われることになっていた。
だが、候補生たちにとってその違いは本質ではない。
戦況図があり、計算尺があり、書類があり、ヘッドセットがある。時刻は刻まれ、位置情報は流れ込み、司令部役や各飛行場役の声が受話器越しに飛び込んでくる。会敵点を作る者にとって、それは十分すぎるほど戦争だった。
試験会場となった教場には、朝から乾いた緊張が満ちていた。
前方には大きな図板が置かれ、敵味方の位置を示す記号が時々刻々と書き換えられていく。候補生の机上には記録紙、計算尺、鉛筆、消しゴム、各種の諸元表が整えられていた。
ひとたび試験が始まれば、そこへ新しい位置情報や高度、針路、速度が次々と放り込まれる。整理し、読み、先回りし、指示を出す。その一連の動作に迷いが出れば、会敵は遅れ、あるいは失敗する。
試験は朝から順に行われた。
ひとりまたひとりと席へ着き、受話器を耳へ当て、図上の空と向き合う。
見学の将兵たちも後方に控えていた。彼らにとっても、これは本土防空集団一期生の出来を見る場だった。
結果から言えば、二十名のうち十八名が合格した。
佐藤恵子と中山照子は四機。
丸山椿と高橋円香は三機。
主な成績はそのあたりだった。
佐藤はやはり安定していた。判断が速く、迷いが少ない。
中山は佐藤より慎重だが、そのぶん破綻がない。
丸山はどこか飄々として見えるくせに、追い込まれるとかえって腹が据わる。
高橋は機体性能への理解がそのまま誘導へ生きる場面があり、合格線をきちんと越えてきた。
真田は後方の卓から、その一部始終を見ていた。
成績が出揃っても、表情は大きく変わらない。ただ、口元に浮かんだものは、褒めるでもなく腐すでもない、「こんなものか」という種類の納得だった。悪くはない。だが、まだ足りぬ。そういう顔である。
やがて、小林愛子の番が来た。
小林が席へ着くと、机上の紙類がかすかに鳴った。
受話器を当て、鉛筆を持つ。図板へ目をやる。呼吸をひとつ整える。
今回の試験想定は、どれもそれなりに凝っていた。
マリアナから発進するB-29迎撃の想定もあれば、複数方向からの同時侵入、誤認情報を混ぜたもの、発進遅延を含むものもある。
だが、小林に与えられた課題は、その中でもいささか癖があった。
北部航空方面隊から発進した不審機の迎撃。
そう記された課題の文字を見た瞬間、小林はわずかに眉を動かした。
敵爆撃機でもなければ、正体の明らかな攻撃隊でもない。しかも北部から南下してくるという設定である。妙な状況だった。
受話器の向こうで、司令部役の声が飛ぶ。
「こちら中空SOC。どういうことなんだ。南下している攻撃機を、すぐ引き返させろ。……なに、上がっていない?」
演技はいささか芝居がかっていた。
後方で見ていた将兵の何人かが、たまらず噴き出す気配を見せる。だが小林にとっては、それどころではない。声色の滑稽さなど、計算の前ではすぐに消える。
彼女に与えられた迎撃戦力は、百里基地から二機、小松基地から二機、霞ヶ浦飛行場から一機。
合計五機。これらを用いて、不審機を首都圏到達前に会敵させねばならない。
──妙な状況設定ね。
──でも、やるしかない。
小林はすぐに図上の位置関係を見た。
不審機は三沢基地方面から南下してくる。
現在位置、針路、速度。
こちらの発進地点はばらばらで、到達に要する時間も異なる。
全部を真正面からぶつけようとすると、早い段階で空を無駄に埋めるだけになるかもしれない。順番と角度を考えねばならない。
まず、霞ヶ浦の一機を使う。
「『司祭』へ。こちら『魔術師』。これより、貴機を誘導下に置きます」
『了解』
この交信から、試験が始まった。
距離的にもっとも柔軟が利く。小林はそれを北上させ、不審機の進路へ前から差し込むのではなく、ややずらした位置で交差するよう修正をかけた。過不足なく速度を読み、最初の会敵点を作る。
成功。
次に百里の二機だった。
こちらは順に投入する。二機を同時にぶつければ一見手数は多いが、進路の修正余地が減る。小林は一機目をやや深く、二機目をその修正に応じて食い込ませる形で動かした。図板の上で鉛筆の先が短く走り、計算尺が机上で乾いた音を立てる。受話器の向こうから飛び込む時刻報告を拾い直し、わずかな補正を重ねる。
二機とも成功。
ここまでは三機。
合格は見えた。
だが試験は終わらない。
最後は小松からの二機だった。
小松は遠い。
しかも発進地点の位置関係が大きく異なるため、前提となる時間の読みがいままでとは変わる。首都圏へ向けて南下する不審機に対し、西から上がる機体をどう噛ませるか。真正面から追いつかせようとすれば、速度差と位置差が厳しい。図板の上で見るかぎり、真っ直ぐぶつけるやり方は分が悪かった。
小林のこめかみに、じわりと汗が滲んだ。
演習上の時計は進みつづける。
不審機はすでに南下を続け、首都圏到達まで残り三十分という報告が入る。
四機目は、どうにか成功した。
だが、最後の一機が難しかった。
会敵しない。
数字の上では届くはずの線が、実際に時刻と進路へ落としていくと微妙に噛み合わない。真正面へ向ければ、相手の針路変化に追従できず、わずかに遅れる。南下する機体へ西から無理に直進させても、角度が浅い。追う形になれば、決定的な交差にはならない。
不審機は迫る。
残り時間は減る。
小林は受話器を握る手に力を入れた。
図板を見つめ、進路の線をもう一度引き直す。
──大丈夫。
──やればできる。
真っ直ぐぶつける必要は、ない。
その瞬間、頭の中で線がつながった。
小松からの最後の一機を、不審機の現在位置へ最短で向かわせるのではなく、いったん南東へ迂回させる。
遠回りに見えるが、そのぶん相手の背後側へ回り込みやすい。南下を続ける不審機に対し、正面や側面から無理に噛ませるのではなく、後方から食いつく形で会敵点を作るのである。
図板の上で見れば、ぎりぎりだった。
だが、ぎりぎりであることと、不可能であることは同じではない。
小林は指示を出した。
時刻、方位、修正。
受話器の向こうで復唱が返る。
報告が入る。
さらに数値を合わせる。
教場の空気が、いつの間にかしんと静まっていた。
後方で見ていた将兵も、さっきまでの笑いを消して図板を見ている。
やがて、会敵報告が入った。
成田上空。
時間と位置の両方で、ほとんど限界に近いところだった。
五機すべて、成功。
小林は受話器を置いた。
その瞬間、ようやく自分の肩に力が入っていたことへ気づく。背中にじっとりと汗がついていた。
後方で見ていた候補生たちの反応は、拍手などではなかった。
佐藤は腕を組み、何も言わない。悔しさも、納得も、その両方を内に畳み込んだ顔だった。
丸山は小さく息を吐き、高橋は半ば呆れたような顔で図板と小林とを見比べている。中山は静かに目を伏せ、一度だけ小さく頷いた。
真田は後方の卓にいた。
いつものように、あからさまな賞賛は示さない。
ただ、口元を隠すように両手を合わせていた。その指の下で、わずかに口元が歪んでいる。
笑ったのだ、と小林は思った。
いや、あの男なりの笑いに近いものだったのかもしれない。
赤とんぼから始まった訓練。
数字と声と計算尺と書類の上で積み上げてきた数か月。
それらはこの日、ようやく一つのかたちになった。
教場の外では、三月の光がまだ少し冷たかった。
だが候補生たちはその朝、訓練生としてではなく、任務へ送り出しうる者としての線を、たしかにひとつ越えていた。




