第九章・幼年期の終わり
統合航空軍横田基地 東京
昭和十九年三月二十日
三月二十日。
本土防空集団一期生の課程は、終わりを迎えようとしていた。
卒業試験の結果、二十名の候補生のうち十八名が合格した。
二名は不合格である。
その事実は、数字にしてしまえばそれだけのことだった。
だが、同じ教場で学び、同じ図板を見つめ、同じ受話器を握ってきた者たちにとって、その二名が列から外れるということは、紙の上の数字よりもよほど重かった。
十七日、松田千秋少将がその二名との面談にあたった。
示された進路は二つだった。
四月一日から始まる二期生に加わり、もう一度やり直すこと。
あるいは、ここで訓練を終え、日常へ帰ること。
どちらも、やさしい道ではなかった。
残るにせよ、自分が一度は振り落とされたという事実と向き合わねばならない。帰るにせよ、ここで学んだ数か月を胸に抱えたまま、元いた場所へ戻らねばならない。
やがて答えは出た。
一人は帰ることを選び、一人は二期生として再起の道を選んだ。
帰ることを選んだのは、山本だった。
その日の夕刻、一期生たちは山本のために送別の場を開いた。
といっても、大げさなものではない。菓子とサイダーを持ち寄って、営内の一隅でささやかに開かれたものだった。戦時下の、候補生たちらしい見送り方である。
集まったのは、山本本人を入れて八人だった。
少ない、と言ってしまえば少ない。
だが、それを薄情と片づけるのも違うように小林には思えた。人と人との親しさにはもともと濃淡がある。加えて、残る者と去る者とでは、どうしても同じ温度ではいられない。別れの場にだけ、その差が見えるようになることは、たぶん珍しくない。
机の上に置かれた菓子も、豪勢なものではなかった。
乾きものがいくらかと、小さく切り分けられた甘いもの、そして硝子瓶のサイダーが数本。
それでも栓を抜けば、しゅ、と細い音がして、教場とも試験場とも違う時間がそこに生まれた。
山本は終始、明るく振る舞おうとしていた。
冗談にも相槌を打ち、丸山の気の利かない慰めにも「ありがとう」と笑って返していた。だが、その笑みが少しだけ硬いことを、小林には隠しきれていなかった。
悔しくないはずがない。
ここまで一緒に来て、最後のところで列を外れるのだ。
それでも山本は、途中でふと手元のサイダー瓶を見ながら、静かに言った。
「せっかくここまで来たんだものね。無駄だった、では終わらせたくないわ」
誰もすぐには口を挟まなかった。
山本は少し視線を落とし、それから続けた。
「帰っても、ここで覚えたことを、何かの形で活かしたいの。軍の中でなくても、働くにしても、暮らすにしても、たぶん前とは違うと思う」
その言い方は、強がりだけではなかった。
悔しさはある。けれど、それをただ敗北の形で持ち帰るつもりもない。そんな意地が、彼女の低い声の底に残っていた。
佐藤がめずらしくやわらかい調子で言った。
「山本さんなら、きっとできますわ」
山本は少し笑って、
「そういう言い方、あんまり慰めっぽくなくて助かる」
と返した。
それで、場に小さな笑いが起きた。
その夜の別れは、涙よりも先に、そうした抑えた笑いと沈黙のあいだを行き来しながら進んでいった。
華やかではない。だが、そのぶんごまかしのきかぬ夜だった。
もう一人、不合格となりながら二期生として残る道を選んだ三沢絹江は、その席でもあまり多くを語らなかった。
もともと感情を表へ大きく出す娘ではない。悔しさも、気まずさも、決意も、たいていはいちど内側へ沈めてから言葉にする。
だが、その夜の三沢の佇まいには、諦めてしまった者の緩みがなかった。
菓子にも手を伸ばし、必要な時には相槌を打つ。静かではあるが、輪の外へ逃げてはいない。自分はまだここに残り、やり直すのだという気配が、その無口さの中にかえってはっきり出ていた。
別れ際、三沢はいつもの調子で、とつとつと言った。
「みんな待ってて。すぐに追いつくから」
声は大きくなかった。
だが、その一言には奇妙なほど揺らぎがなかった。
誰に言い訳するでもなく、励ましを乞うでもなく、ただそう決めている者の響きだった。
翌日。
山本は軍の自動車で親元へ送り届けられることになった。
朝の空気はまだ冷たかった。
営門の近くで見送りに出た娘たちは、口数少なく立っていた。昨日の夜のささやかな送別が終わったいま、いよいよ本当に別れるのだと、みな身体で理解していたのである。
山本は荷物を抱え、車へ乗る前に一人ひとりを見た。
何か言おうとして、それでもうまくまとまらなかったらしい。結局、最後には笑おうとして笑えない顔になった。
その瞬間、見送る側の娘の一人がたまらず山本へ駆け寄った。
山本もそれを受け止める。
互いに泣きながら抱き合う姿を見て、他の者たちの顔も次々に崩れた。
帰る娘と、見送る娘。
同じ日々を過ごしながら、ここで道が分かれる。
そのことの重みは、言葉よりも先に涙の形で現れていた。
山本は、それでも最後にはきちんと顔を上げた。
目元は赤かったが、その目つきは前夜よりもむしろ定まっていた。
「行ってくるわ」
その言葉は奇妙だった。
帰る者の言葉であるはずなのに、どこかこれから先へ出て行く者の響きがあった。ここで学んだものを何かのかたちで活かす──その決意が、彼女の中でようやく言葉の姿を取ったのかもしれない。
車が動き出す。
見送る娘たちは、見えなくなるまでその場に立っていた。
そして、卒業式の日が来た。
会場には、いつもの教場とは別種の緊張があった。
整えられた机、正された姿勢、呼ばれる名、進み出る足音。訓練の終わりを告げる場であると同時に、次の身分への移行を宣告する場でもあった。
首席として最初に登壇したのは、佐藤恵子だった。
実技も優秀だったが、座学では断トツの成績である。
その歩き方には、晴れやかさと緊張とが、どちらも同じだけ混じっていた。
演壇を挟み、真田少将から証書を受け取る。
佐藤は小さく礼をし、振り返った。顔つきは凛としていたが、胸の内ではさすがにいくらか高鳴っていたのだろうと知れた。
丸山も、高橋も、中山も、順に証書を受け取っていく。
それぞれがそれぞれの歩幅で、前へ出て、受け取り、戻ってくる。
ここまで同じ訓練を受けてきたはずなのに、その身のこなしにはもう、各自の性質が出ていた。
やがて、小林愛子の名が呼ばれた。
小林は進み出て、真田の前に立つ。
紙は二枚あった。
ひとつは卒業証書。
もうひとつは、「任 統合航空軍少尉」と記された任命書だった。
その受け渡しの瞬間、小林は数瞬、真田と見つめ合った。
言葉はない。
だが、赤とんぼから始まった日々も、疾風の図上演習も、卒業試験の最後の一機も、そうしたものがその一瞬の沈黙の中にたしかに沈んでいるように思えた。
小林は二枚の紙を受け取った。
これで自分たちは、ただ課程を終えた候補生ではなくなった。
正式に少尉、正規の階級を持つ士官となるのである。
証書を受け取ると、隣に控えていた年嵩の女性が、小林の右胸に徽章を付けた。
迎撃管制官の徽章だった。
送受話器を中心に、その左右を戦闘機が飛ぶような意匠である。
機銃でも操縦桿でもなく、声と判断によって空の戦いへ関わる者の印だった。
小林はその重みを、布越しにわずかに感じた。
軽い金属のはずなのに、奇妙に軽くはなかった。
全員への授与が終わると、真田が前へ出た。
卒業生──いや、新任の少尉たちは、息を詰めるようにしてその言葉を待った。
「君たちに、おめでとうとは言わない」
真田はいつもの低い声で言った。
「この先、実任務が待っている」
会場がしんと静まる。
「これから君たちの携わる仕事は、心身ともに削られるものだ」
飾り気のない言葉だった。
だが、それだけにごまかしがなかった。祝辞の体裁を借りて甘いことを言うつもりは、最初からないのだろう。
「だが、待遇その他は男と同様だ」
真田の目が、列の前から後ろへと流れる。
「たとえ甲羅に苔の生えた下士官兵でも、遠慮することはない。彼らは君たちの部下だ」
何人かの新任少尉が、わずかに背筋を正した。
古参兵への遠慮やためらいを、ここで断ち切っておく必要があるのだと、小林にも分かった。
「これより、さらに研鑽を続けることを望む」
短い訓辞だった。
祝福よりも、任務への送り出し。
それがこの場にふさわしいと、真田は考えているのだろう。
小林はその話を聞きながら、静かに思った。
──これでもう、学生時代は終わりなのね。
──これからは、軍隊という社会で過ごすことになる。
卒業とは、ただ学課を終えることではなかった。
守られた時間から出ること。
猶予のある立場を終えること。
そして、命令と責任のある世界へ、自分の名で立つことだった。
会場の外には、やわらかな春の気配があった。
だが、その日を境にして、彼女たちの季節はもう、以前と同じものではなかった。




