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第〇章・停車場の朝



本土防空集団の官舎 入間市 埼玉県

昭和十九年七月十九日


 朝八時。本土防空集団にあてがわれた官舎の並びから道を抜けて、乗り合い自動車の停車場には三々五々、人が集まりつつあった。

 兵も下士官も軍属も、みな同じように眠たげな顔をして、しかし出勤前のわずかな時間だけはそれぞれに黙っていた。


 昨夜の空襲警報が空振りに終わった朝は、とかくそういう空気になる。半端な時刻に叩き起こされ、灯火管制のまま息をひそめ、結局は何も来なかった、という種類の夜明けである。誰もがひとまず一晩を生き延びたことを知っており、しかもそれを口にするほど楽天的でもなかった。

 列の中には、欠伸を噛み殺した拍子に帽子の庇を指で押し上げる兵もいたし、眠気をごまかすように煙草を指のあいだで弄んでいる軍属もいた。



 この停車場は、統合航空軍入間基地に所属する人間が、営外から基地に勤務できるよう整備された路線だった。


 七月十七日に本格実働した入間基地の中部航空方面隊司令部。そこに勤務する男女の、ほとんど唯一の足である。


 利用者は軍属、営外に居を構えることのできた運のよい下士官兵、そして士官だった。官舎住まいといっても気楽なものではなく、夜半の警報で眠りを裂かれれば、そのまま浅い眠りの残りを抱えて朝の路線へ並ぶよりほかない。


 実働が始まってまだ日が浅いぶん、通勤の手つきも暮らしの癖も、皆どこか定まりきっていなかった。



 停車場の脇には、夏の光を避けるには少々頼りない街路樹が一本立っているきりで、待つ者たちの多くは帽子の庇に朝日を受けていた。舗装の荒れた道に、時おり兵員輸送車が土埃を薄く巻き上げて通りすぎ、そのたび列の何人かが顔を背けた。


 定刻八時発の乗り合い自動車は、だいたい定刻に来ることになっていたし、来ないこともまた珍しくなかったが、待つ側は律儀に列を作っていた。内地の戦争とは、案外そういうところで律儀なものである。



 その列の向こう、官舎の並ぶ方角から、ひとりの女性士官が歩いてくるのが見えた。


 手首まで隠れるほどの袖の長い白いセーターを、いくぶん垢ぬけない統合航空軍の制服の上に羽織っていた。髪はきちんとシニヨンネットでまとめられ、背筋はいつものようにまっすぐだった。


 平均的な背丈の、細身の身体つきである。派手な美人というのではないが、目鼻立ちの整い方に知的な気配があった。


 何より人目を引いたのは、その手にしたフリル付きの日傘であった。戦時下の停車場にはいささか場違いで、しかし持つ本人の歩きぶりがあまりに自然なので、滑稽にはならなかった。

 妙な言い方だが、日傘の方が彼女に似合ってしまっていたのである。


挿絵(By みてみん)


 小林愛子統合航空軍少尉だった。


 列の中ほどにいた兵が、最初にそれと気づいたらしい。あ、と小さく声を洩らし、あわてて姿勢を直した。その気配が前へ伝わると、下士官兵たちは半ば反射的に身を引き、列の前方に空きを作った。


 少尉が来た以上、上官を先に通すべきだ、と彼らは考えたのである。もっともその判断には、命令系統への服従ばかりでなく、若い女性士官をどう扱えばよいか分からぬ当惑も、いくらか混じっていた。


「少尉殿、どうぞ前へ」


 列の先頭近くにいた軍曹が、帽子の庇に手を触れながらそう言った。ほかの者たちも、口には出さぬまま、同じことを思っている顔だった。

 女の士官、それも迎撃作戦室勤めの少尉というものに、彼らはいまだ十分には慣れていなかったのである。命令には従う。敬礼もする。だがどう遇するのがいちばん自然なのかとなると、誰しもまだ少し迷っていた。


 小林は足を止め、列の前に生じた不自然な空白をひと目見た。それから、日傘をすこし傾けるようにして、やわらかく笑った。


「ありがとうございます。でも、最後で結構です」


 声は高めで澄んでいたが、耳に触る軽さはなかった。むしろ不思議に聞き取りやすく、語尾まできれいに届く声だった。迎撃管制官に向いている、と初めて聞いた者の多くが思うたぐいの声である。


「しかし少尉殿」

「毎朝これですと、皆さんのお手間でしょう。順番は順番ですから」


 そう言って、小林は空けられた前列へは進まず、ためらいなく列の最後尾へ回った。


 白いセーターの袖口を整え、閉じた日傘の柄を持ち直す所作まで、どこか妙にきちんとしていた。威張っているのではない。かといって、遠慮して縮こまる風でもない。ただ自分の立ち位置を、初めからよく知っている者の動きであった。


 押し戻された格好になった軍曹は、一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、小林の方ではもうその顔を見ていなかった。停車場の先、朝靄の薄く残る道路の彼方を見やっている。


 官舎を出る時には、たぶん今日も制服の皺を指で確かめ、シニヨンネットの乱れを鏡で見ただろう。そういう小さな朝の仕度をひとつずつ済ませて、こうして列の最後尾に立っている。

 作戦室に入れば、その目は今日も高度と針路と到達時刻を追うことになるのだろうが、いまはまだ、出勤途中のひとりの若い士官にすぎなかった。


 列に戻った兵のひとりが、隣の上等兵に向かって、ごく小さな声で言った。


「……少尉殿、変わってるな」

「変わってるが、まあ……」

「まあ、何だ」

「感じはいいだろう」


 上等兵はそう答えたきり、少し照れたように咳払いをした。小林の耳にも入っていたかもしれないが、彼女は振り向かなかった。ただ口もとに、ごく薄い笑みの名残を置いたまま、背筋を伸ばして立っていた。



 やがて遠くから、くたびれた乗り合い自動車の機関音が近づいてきた。列は自然に締まり、待つ者たちの顔から朝の私語が消える。


 小林愛子少尉もまた、フリル付きの日傘をきちんと畳み、白いセーターの裾を軽く直した。それから何事もなかったような顔で、列の最後尾のまま自動車を待った。


 本土防空集団の迎撃管制官たちは、しばしば特別な存在として見られたが、少なくとも小林自身は、その特別扱いを好まなかった。命令を下すべき時には下し、列に並ぶ時には並ぶ。それだけのことである。



 もっとも、その「それだけ」を自然にやれる者は、案外少なかった。




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