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第一章・帰郷



京成本線佐倉駅 佐倉町 千葉県

昭和十九年三月二十二日


 朝に横田基地を出て、中央線に乗ったのが午前九時。新宿で山手線に乗り換えたのが午前十一時。日暮里に着いて京成本線へ乗り継いだのが正午過ぎで、そこからさらに二時間ほど揺られて、ようやく京成佐倉駅へ辿り着いた。


 帝都を離れるにつれて、車窓の景色は少しずつ低く、ひらけたものへ変わっていった。見慣れた基地や兵舎の気配は遠のき、畑地や疎らな家並みが長く続く。春はまだ浅く、野の色は薄かったが、ところどころに柔らかい陽の気配があった。


 小林愛子は網棚から旅行鞄を下ろし、もう一方の手で日傘を持ち直した。日傘はたたんで、鞄の把手へ器用に挟み込んである。軍装に日傘という取り合わせは、他人の目にはいささか妙に映るかもしれなかったが、愛子にとってはそれが自然だった。軍務に就いたからといって、急に別の人間になるわけではない。


 ホームへ降り立つと、風はまだ冷たかった。京成佐倉駅は帝都の駅に比べればずっと小ぶりで、人の流れも落ち着いている。軍服姿の者がまるでいないわけではないが、それでもここでは、歩く速度そのものが少し違って見えた。


 愛子の実家は、駅から二十分ほどのところにある。


 城下町の名残をとどめた町並みは、道幅こそさほど広くないものの、古くから人が住んできた土地らしい落ち着きがあった。低い軒、くすんだ板塀、ところどころに見える土蔵の壁、道端に積まれた薪、まだ冷たさを残した春先の土の匂い。風が吹くたび、どこかで戸の鳴る音がした。


 旅行鞄に加えて、日傘を挟んだ荷物を持って歩くのは、思いのほか骨が折れた。舗装のよくない道で鞄の重みが腕に食い込み、肩もじわじわ張ってくる。愛子はときどき息を整えながら、それでも足を止めずに進んだ。


 やがて、懐かしい家が見えてきた。


 門口も、玄関先の鉢も、柱の色も、何ひとつ目新しくはない。だが、長く離れていた者にとっては、その変わらなさこそが胸に迫るものだった。愛子は鞄を持ち直し、玄関を開けた。


「ただいま」


 すぐに奥から足音がして、母が出てきた。愛子の顔を見るなり、その目が大きく見開かれる。


「愛子……、愛子」


 それ以上の言葉が、すぐには続かなかった。母は駆け寄るようにして愛子を抱きしめた。軍装の肩口へ顔を寄せ、ひとつ息をつく。


「よく帰ってきたね」


 愛子も、しばらくされるがままだった。母の腕の力も、着物の匂いも、子どもの頃から知っているものだった。抱きしめられているうち、長い乗り継ぎの疲れが急にほどけるような気がした。


 やがて母は、はっとしたように身体を離した。


「それにしても……」


 しげしげと愛子の姿を眺める。愛子は統合航空軍の軍装を着て、その上に支給されたポンチョを合わせていた。旅装の塵をまといながらも、仕立てのよい軍衣は娘の体つきを以前より細く、きびしく見せていた。


「立派になったね」

「……うん」


 愛子は少しだけ視線を伏せた。そう言われると、まだ少しくすぐったかった。


 母はふっと笑った。


「夕方にはお父さんも帰ってくるわ。今夜はご馳走にしましょうね」


 その途端、愛子の表情がはっきり明るくなった。


「久しぶりに、お母さんのご飯が食べたい」

「はいはい」


 母はそう言いながら、すでに台所の段取りを頭の中で組み直しているらしかった。愛子は鞄を上がり框の脇へ置き、懐かしい家の中へ足を踏み入れた。廊下の板の軋み方さえ、覚えている音だった。



 夕刻、父が帰宅した。


 地方行政の仕事に就いている父は、仕事帰りらしい少し疲れた顔をしていたが、玄関へ出迎えた愛子を見ると、足を止めた。


「おかえり」


 それだけ言って、静かに頷く。愛子も頭を下げた。


「ただいま帰りました」


 父は娘の軍装姿をひととおり見たが、ことさらに感想めいたことは言わなかった。ただ、その頷きには、離れていた時間の分だけ慎重な、しかし確かな受容があった。


 夕餉の支度はもう整っていた。


 食卓に並んだのは、けっして豪勢ではない。だが、煮物の鉢には丁寧に火の通った根菜が盛られ、焼き魚は小ぶりながら香ばしく、湯気の立つ味噌汁には家の匂いがした。戦時下の食卓としては慎ましいものである。けれど、そこには確かに、母が帰ってきた娘のために工夫した跡があった。


「さあ、冷めないうちに」


 母に促されるや、愛子は「いただきます」と言って箸を取った。


 普段は黙々と食事をする小林家だったが、その晩ばかりは違った。愛子が軍機に触れぬ範囲で横田での暮らしや訓練のことを話せば、母は目を丸くし、父は合成酒を少しずつ舐めるように飲みながら耳を傾けた。


「それで?」

「うん」

「そうか」

「頑張ったね」


 父の言葉は相変わらず短かったが、愛子の話を途中で遮ることはなかった。愛子の方も、いつになくよく喋った。家へ戻っている安堵と、久しぶりに聞いてもらえる相手がいる嬉しさとで、口が自然にほどけていた。


 そして何より、愛子はよく食べた。煮物を口へ運び、焼き魚の身を丁寧にほぐし、味噌汁を啜っては、目を細める。


「やっぱり、お母さんのご飯が一番」


 母は「そんなこと言って」と笑いながらも、どこか誇らしげだった。愛子はそのあとも遠慮なく箸を伸ばし、久しぶりの家の味を惜しむように、しかし勢いよく食べ続けた。基地でも食事は足りているはずなのに、家の膳に向かうと、身体のどこかが別の仕方で飢えていたのだと分かる。


 食後、父は湯呑みを置き、娘の顔を見て言った。


「今日はゆっくり休みなさい」


 それは命令でもなく、ただ労わるような調子だった。愛子は素直に「うん」と答えた。



 翌日からは、ひっきりなしに近所の知り合いが訪ねてきた。最初のうちは玄関へ出て愛想よく挨拶を返していた愛子も、こう立て続けでは少し疲れが溜まる。母は気を利かせ、「愛子は少し体調を崩していまして」と、やわらかい口調で面会を断るようになった。


 縁側には、昼の光が静かに落ちていた。愛子はそこへ膝を寄せるように座り、津田塾から引き揚げた教科書や、好きな小説を手元にひろげた。ただ休むのではなく、活字を追っているときの方が、かえって心が落ち着いた。庭の向こうから近所の話し声がかすかに聞こえても、頁を繰るあいだだけは、それが少し遠くなった。



 数日を実家で過ごしたのち、二十五日には在郷軍人会による壮行会が開かれた。


 会場には、年寄りたちの姿が目立った。若い男たちは、たいていもう戦地へ向かっているか、あるいは別の任務に取られている。残った者たちは町の古老や役職者、婦人会の者たち、それに学校関係の顔ぶれで、畳の上に並ぶ視線はひとつではなかった。


 素直に郷土の誉れとして喜んでいる者がいる。女の身で士官とは、と内心で首をひねっている者もいる。なかには、軍装に身を包み、白い顔で静かに座る愛子の姿へ、必要以上に視線を留めてしまう者すらいた。


 ざわめきはなかなか絶えなかった。その空気を、会長の咳払いが断ち切る。


「この度は、我が郷土から士官が誕生した。大変に珍しい例だとは思うが」


 言いながら、ちらりと愛子を見る。その視線には、誇らしさと戸惑いの両方があった。


「愛子君には、お国のため、大いに奮闘してもらいたい」


 そこで話を結ぶと、会場はひとまず静かになった。次いで、愛子の挨拶が促される。


 彼女は立ち上がり、居並ぶ顔ぶれを見渡した。幼い頃から見知った顔もあれば、名は知っていても言葉を交わしたことのない者もいる。いずれにせよ、いまこの場で自分は、家の娘であるだけでなく、この土地から送り出される士官として立っているのだった。


「今日は私のためにお集まりいただき、ありがとうございます」


 まず、礼を言う。声は落ち着いていた。


「本当は、私が役立つ日が来ない方がいいのですが……」


 会場の空気が、一瞬だけ凍った。何人かが目を見開き、互いの顔を見合う。こういう場で、そう来るとは思っていなかったのである。


 だが愛子は、言い淀まなかった。


「もしも、私の仕事が必要になったら、できる限りのことをします」


 そう言って、深く一礼した。


 飾り気のない、短い挨拶だった。だがその言葉は、勇ましい文句よりも強く、何人かの胸に残った。愛子が自分の仕事の意味を、誰よりよく知っていると感じさせたからである。



 三月二十七日。

 再び、佐倉駅の朝が来た。


 見送りに集まった人々は、日の丸の小旗を手にし、口々に声をかけた。万歳三唱が起こり、その響きがまだ静かな駅の空気に広がってゆく。出征兵を送るのとは少し違う、だがやはり時代の色を濃く帯びた送り方だった。


 母はホームで愛子を抱きしめた。行きのときよりも、今度は少し長かった。


「身体に気をつけるのよ」

「うん」


 父はその傍らで、言葉少なに娘の肩を叩いた。


「しっかり、仕事をしてこい」

「はい」


 愛子はまっすぐに答えた。返事は短かったが、揺るがなかった。


 やがて乗車の時刻が来て、扉が閉まる。ゆっくりと電車が動き出した。


 帝都へ向けて愛子を運ぶ京成電車。窓の外では、小旗を振る人々の姿が少しずつ後ろへ流れ、見慣れた町の輪郭もほどけていく。吊り掛け駆動の電動機音が、規則正しく車体の床を震わせた。


 愛子はその音を聞きながら、窓の外を見ていた。


 ──次にこの景色が見られるのは、いつだろう。



 春先の薄い光の中で、佐倉の町は静かに遠ざかっていった。基地へ戻った愛子を待っていたのは、もはや訓練ではない本格的な実任務だった。




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