第二章・翼は西へ
統合航空軍横田基地 東京都
昭和十九年四月一日
その日、小林愛子は辞令を受け取った。
着任先は、西部航空方面隊司令部付・迎撃作戦室。
活字で見れば、ただそれだけのことだった。だが、その地名は愛子の中にまだ地図として落ちてこなかった。西部航空方面隊。字面だけでは、九州なのか中国地方なのか、それとももっと別の場所なのか、すぐには判然としない。
愛子は辞令書をもう一度見下ろした。それから、近くで書類を整理していた曹長へ目をやる。親ほども年の離れていそうな、痩せた古参である。頬はややこけ、目尻には細かい皺があったが、身のこなしには長く軍の飯を食ってきた者らしい癖のなさがあった。
「あのぉ」
曹長は顔を上げた。どこか遠くを見てきた者の目つきで、しかし返事はすぐだった。
「はい」
「この、西部航空方面隊司令部というのは、どちらにあるのでしょうか」
曹長は辞令の文面をちらと見た。
「はい。平たく言うと、山口県ですな」
「あの、本州の端の、ですか?」
「そうですね」
愛子は思わず、辞令の紙から顔を上げた。
──長旅になるなぁ。
そう考えたのが顔にでも出たのか、曹長は書類を脇へ置いて、噛んで含めるように言った。
「少尉殿」
「はい」
「もっと堂々としていただいた方がよろしいですな。自分はともかく、兵に舐められます」
愛子は一瞬きょとんとして、それからすぐに頬のあたりが少し熱くなるのを感じた。
「あ、すみません」
「いえ」
曹長は苦笑ともつかぬ顔をした。
「こういうのも任務だと思ってください。少尉殿が少尉らしくしておらんと、下が迷います」
「……はい」
「武運長久を祈ります」
そう言って、曹長はきちんと敬礼した。
愛子も背筋を伸ばし、辞令を持ち直して答礼する。
「ありがとうございます」
曹長は満足したように小さく頷き、また自分の仕事へ戻っていった。
愛子はその背を見送りながら、さっきまでとは少し違う気持ちで辞令書を見下ろした。行き先を知るだけでなく、その行き先でどう見られるかまで、もう任務のうちなのだと分かる。
少尉になったということは、ただ階級章が増えたというだけではないらしかった。
もっとも、そう腑に落ちたところで、旅が長くなることに変わりはない。
──汽車で何時間の旅になるのかな。
「辞令の交付は終わったか?」
その声に、愛子は顔を上げた。
真田少将だった。いつものように、愛想のよい顔ではない。だが、こちらの都合など頓着せずに話を進める種類の足取りと声だけで、教場の空気が少し締まる。
「西部に飛ばされるのは誰だ?」
愛子を始め、数名が手を挙げた。
「なるほど」
真田はその顔ぶれをひととおり眺め、人の悪い笑みを口もとへ浮かべた。
「長旅ご苦労、と言いたいところだが」
そこで一度言葉を切る。
「折角だから飛行機に乗ってみないか?」
愛子は思わず目をしばたたいた。他の者たちのあいだにも、似たような戸惑いが小さく広がる。西部へ異動すると言われて、まず飛行機に乗る話が出てくるとは思っていなかったのである。
真田はそんな反応を見ても、別に面白がる風はなかった。
「汽車で行ってもよいが、たまには空から国土を見ておくのも悪くない。どうせ向こうで嫌というほど働くのだからな」
それだけ言って、さっさと踵を返す。
愛子は辞令書を持ったまま、その背を見送った。
──相変わらず、急だなぁ。
だが、その急さもまた真田らしかった。
それから二日後。
愛子たちは、横田基地の駐機場に立っていた。
目の前には四発機がいた。細身の機首から長く伸びた胴体、がっしりした主翼、その下に四つ並ぶ発動機。いかにも大きい。戦闘機の鋭さとも、輸送機の実用一辺倒とも少し違う、不思議な均衡を持った機体だった。
──高橋さんが喜びそうな機体ね。
そんなことを思う。高橋円香なら、きっと目を輝かせて発動機の型式や翼面荷重の話でも始めただろう。
「まあ、乗り込みたまえ」
真田に促され、愛子たちは機内へ入った。
内部は構造材がほとんど剥き出しで、申し訳程度に座席が設けられているだけだった。金属の匂いと油の匂いが混ざり、床板には細かな擦れと使い込まれた跡がある。旅客機のような気の利いたものではない。いかにも軍用機の腹の中、といった趣だった。
愛子は指示された席へ腰を下ろし、安全帯を締めた。布と金具の感触が、思ったよりずっと無骨である。座ったところで落ち着くというより、機体の一部へ括りつけられるような心持ちの方が近かった。
やがて発動機の音が増した。四つの力が、低く鈍い唸りとなって機体全体へ広がっていく。床板が細かく震え、座席の背を通してその振動が背骨へ伝わった。
滑走が始まり、速度が乗る。
愛子は無意識のうちに、膝の上で手を組み直していた。
機体がふっと地面を離れる。腹の底がわずかに置いてゆかれるような感覚があり、窓の外で滑走路がするすると後ろへ遠ざかった。建物が縮み、車両が豆粒ほどになる。いつも地上から見上げていた空へ、自分が持ち上げられていくというのは、妙な気分だった。
しばらくして、高度二〇〇〇ほどで飛行が落ち着いた。発動機の音は相変わらず大きいが、離陸時の切迫した震えは薄れ、機体は長い呼吸で巡航しているように感じられた。
愛子は安全帯の留め具を指先で一度確かめてから、向かいにいる真田へ目をやった。
「このような機体も持っていたのですね」
真田は窓の外を見たまま答えた。
「十八試大攻。……元々は海軍の大型攻撃機となる予定だった。試験飛行までたどり着いたのだが、統合航空軍設立のどさくさで不採用になったのをいいことに、我々が引き取った」
「本土防空集団として、ですか」
「そうだ」
愛子はもう一度、機内を見回した。
大型の攻撃機。それがいまはこうして人員を運んでいる。統合航空軍という組織そのものが、そうした継ぎ合わせの上に出来ているのかもしれない、とふと思った。
──大型の攻撃機。だけど、私たちは迎撃が主任務。なら……。
「この機体も、迎撃作戦に使うのですか?」
真田は、その問いに口もとを歪ませることで応じた。
「ふん」
いつもの癖のある相槌である。
「今はこうして連絡機代わりに使っているが、この先電探を載せる予定だ」
「電探を」
「そうだ」
真田は窓の外、翼の先の向こうへ顎を少し動かした。
「洋上で監視するため、ですか」
「そうだな」
真田は、はっきりと頷いた。
「より高く、より遠くから探知できれば、それだけ即応できる。島づたいの見張りや地上電探だけでは、どうしても拾いきれん空白が出るからな」
「……見つける場所そのものを、前へ出すのですね」
「そういうことだ」
愛子はその言葉を頭の中で組み直した。
遠くで早く見つけられれば、そのぶん会敵点を作る猶予が増える。迎撃は、飛ばす前から始まっているのだ。いや、もっと前、探知の時点からすでに始まっていると言うべきかもしれない。
だが同時に、遠くで見つけるほど、情報がずれた時の誤差も大きくなる。空の上の目と、地上の判断と、実際に飛ぶ迎撃機とが、途切れずにつながっていなければ意味がない。
「問題は」
真田がそこで言葉を継いだ。
「実用的な電探の確保だ。これに少し手間取っている」
その一言のあと、機内には発動機の音だけが残った。
愛子は窓外へ視線を移した。
──ここでも時間との戦いなのね。
候補生時代で学んだことが、また別の形でそこにあった。艦隊決戦の前後にも、B-29の飛来にも、訓練の仕上がりにも、いつも時間がからんでいた。そしていま、ここでは電探の実用化がその時間を左右しようとしている。
観測窓から見える地上は、すでに遠かった。長く伸びる海岸線と、その向こうの海が、春の鈍い光を受けて広がっている。ところどころで白く波が砕け、岬や入江が小さな図面のように折れ曲がって見えた。
──地面があんなに遠い。
そんな当たり前のことが、空へ上がってみると妙に新鮮だった。
──搭乗員さんの視界も、そうなのかもね。
自分たちは地上で針路と速度と高度を数字で追う。けれど、あちらはこの遠さの中で海と陸を見下ろしながら飛ぶのだ。その視界の広さと、逆に細部の見えにくさとを、愛子はぼんやりと想像した。
飛ぶ者と、地上で導く者。
どちらも同じ迎撃の一部なのだと思うと、そのあいだを結ぶ声と判断の重みが、これまでより少し違って感じられた。
離陸から三時間ほどで、機体は高度を落とし始めた。
巡航中とは違う微かな沈み込みがあり、発動機の音もわずかに調子を変える。窓外の海と陸が少しずつ近づき、地形の起伏や道路の筋が見分けられるようになった。
横田や入間のあたりとは空の色も地面の輪郭もどこか違って見える。瀬戸内海の穏やかな水面のせいか、風の気配まで変わったような気がした。
やがて小月基地が見えた。
滑走路と施設群が、ひらけた土地の中に置かれている。まだ新しい司令部の匂いというべきものが、上空から見てもどこか漂っているようだった。急ごしらえの戦争は、地上の建物の並び方にまでにじむらしかった。
着陸の衝撃は、愛子の思ったより固かった。車輪が地面を噛み、機体が短く跳ねる。金具が鳴り、座席の背が肩へ押し返してくる。
速度が落ち、機体はゆるやかに誘導路を進んだ。
外へ出ると、風が横田とは違っていた。海の近い土地の匂いが、かすかに混じっている。春とはいえ、まだ冷たさの残る風だった。
基地では、司令部の者たちが待ち受けていた。
愛子たちが順に降り、最後に真田が地面へ降り立つ。その時、待っていた将官の一人が進み出て声をかけた。
「真田君、よく来てくれた」
「山口さん」
愛子はそこで、わずかに目を瞬かせた。
──あれ、少将が上官じゃないのかな?
役職だけを見れば、真田の方が上のはずである。だが、呼び方が少し妙だった。迎える側の将官は真田を「君」と呼び、真田はその相手を「さん」付けで呼ぶ。軍隊の上下だけでは、どうも説明のつかぬ響きがそこにはあった。
──それに、このひと、どこかで見たような……。
出迎えた将官は、ふくよかでありながら、どこか武術を心得た者のような引き締まりを身体に残していた。軍服の襟元に窮屈さがない。立っているだけで、場の中心へ力まずに重みを置くことのできる人間らしかった。
それでいて、表情は柔らかい。
目がとくによかった。
強く見据えるのではなく、相手をそのまま受け止めるような目である。
──優しい目をしている……。
愛子がそう思った時、将官は西部へ異動してきた者たちの方へ視線を向けた。
「遠路ご苦労だった。あぁ、司令官の山口だ。これからよろしく頼む」
声は大きくはない。だが、無理に張らなくても届く種類の声だった。
「こちらで骨を折ってもらうことになる。まずは、よく来てくれた」
その言葉に、愛子は自然と背筋を伸ばしていた。
真田のもとで聞いてきた声とは違う。乾いた刃物のような調子ではない。だが、柔らかいだけでもない。やわらかなものの中に、すでに決まっている覚悟のようなものがあった。
これが、小林愛子にとっての山口多聞少将への第一印象だった。
西部航空方面隊司令部。
小月基地。
洋上監視。
電探。
そして……。
横田で身につけたものを、そのまま持って入ってゆける新しい世界が、愛子の前に開きつつあるのだと、その時ようやく実感が湧いた。
風がひとつ吹き抜ける。駐機場の端で、どこかの旗が短く鳴った。
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