第五章・次なる決戦
統合航空軍横田基地 東京都
昭和十九年一月三十日
一月も末に近づくころには、横田の空気はいよいよ乾いていた。
候補生たちはこの頃になると、基礎訓練のいくらかを身体へ馴染ませつつあった。受話器の扱いにも、記録紙へ時刻を書き込む手つきにも、入所当初のような露骨なぎこちなさは減っている。
もっとも、それは上達したというより、上達しなければ話にならぬ段階をようやく抜けた、という方が正確だったろう。真田少将に言わせれば「やっと人間らしい顔つきになってきた」あたりである。
その日の午後、候補生たちは教場へ集められた。
いつもの座学と同じようでいて、どこか空気が違う。
教卓の脇に立つ真田の顔には相変わらず大仰な気負いはないが、矢沢大尉と、見慣れぬ少佐がひとり控えている。
その少佐は痩せた体つきに眼鏡をかけ、いかにも眠らぬまま紙束と数字に埋もれていそうな顔をしていた。覇気がないわけではない。ただ、威勢のよさより先に観察と計算が来る人間の顔である。
候補生たちが席についたのを見て、真田が口を開いた。
「どうやら海軍は、決戦をしかけるようだ」
それだけで、教場の空気が変わった。
決戦。
その言葉は、戦時の日本でいささか便利に使われすぎていたかもしれない。だが、便利に使われる言葉であるがゆえに、実際に将官の口から平板に出てくると、かえって重い。候補生たちは思わず息を呑んだ。
真田は教卓に腰を預けるでもなく、ただ立ったまま言う。
「さて」
短くそう言って、横の矢沢へ顎をしゃくった。
矢沢が前へ出て、わら半紙を一枚ずつ配り始める。
候補生たちはそれを受け取り、ざらついた紙面へ目を落とした。
そこには、日米両艦隊の兵力配置が書かれていた。
空母、巡洋戦艦、巡洋艦、駆逐艦、補給艦その他。艦種ごとに整理された数と、部隊ごとの配置。いわゆる戦闘序列である。何人かは見慣れぬ記号と数字の多さに眉をひそめ、何人かは逆に食い入るように見た。
佐藤恵子が最初に口を開いた。
「こういうものを、私たちが見てもよいのですか」
真田は腕を組んだまま、こともなげに答える。
「君たちは少尉候補生だ。当然、権利はある」
必要だから見せる、と彼は言わなかった。
見てよい、ではなく、権利があると言った。その言い方に、候補生たちはわずかな緊張を覚えた。彼女たちはここで初めて、訓練を受ける側であるだけでなく、判断材料に触れる側へ半歩足を踏み入れたのかもしれなかった。
紙面に記された戦力を見るかぎり、日米両艦隊の主力はおおむね拮抗していた。
少なくとも、素人目に一方が圧倒しているとは見えない程度には、互いに大きな塊を持っている。
高橋円香が、顔を上げた。
「私たちの艦隊はともかく、アメリカの艦隊なんて、そんなに分かるものなのですか」
真田は少しだけ口元を動かし、横に控えていた少佐へ顔を向けた。
「堀君。どうだ」
呼ばれた少佐は、わずかに背を正した。
「おおむね、この通りです」
「根拠は?」
真田の問い方は、知らないから聞く調子ではなかった。
堀もそれを承知しているらしく、候補生たちの方へ向き直るようにして答えた。
「通信傍受。中立国を通じた建艦情報の取得。進水から公試、就役、その後の実戦投入までの間隔。あとは港湾での燃料消費量や荷動きの変化、船舶保険料、アメリカ市場の株価……そういったものの積み重ねです」
教場に、わずかなざわめきが走る。
高橋が思わず言った。
「株価まで見るのですか」
堀は肩をすくめた。
「戦争というものは、軍艦だけで動くわけではありませんから」
乾いた答えだった。
だが気取ったところはない。情報を扱う者にとっては、それが特別なことでも何でもないのだろう。
真田が言う。
「だそうだ。堀少佐は情報というものの値打ちを、よく知っている」
小林愛子は、紙面へ目を戻しながら考えていた。
戦闘機を誘導する訓練の時と、どこか似ている。あちらでは断片的な方位や高度や時刻をつなぎ、数分後の空を先に組み立てた。こちらでは艦の数や就役時期や株価のような、一見ばらばらなものをつないで、まだ見ぬ敵艦隊の姿を描いている。
情報とは、見えているものを言い換える技術ではなく、見えないものの輪郭を先に作る技術なのかもしれなかった。
やがて彼女は、顔を上げた。
「それで、これを私たちはどうすればよいのでしょうか」
「うむ」
真田はそう言って、教卓の脇に置いてあった缶を開けた。
中には、かりんとうや落花生や干菓子が雑然と入っている。誰が持ち込んだものか知らないが、軍の教場というより町工場の寄り合い所帯めいていた。
「考える時は甘いものでも食った方がいい。遠慮するな」
そう言うと、自分でまずかりんとうを一本つまみ、無造作に口へ放り込んだ。
候補生たちは顔を見合わせる。将官が教場で菓子を勧めるというのは、いささか行儀が悪いようでもあり、真田らしいようでもあった。
丸山椿が最初に小さく手を伸ばし、つられるように何人かも缶へ手を出す。
佐藤などは一瞬ためらったものの、結局、落花生を二つばかり取った。高橋は紙面から目を離さぬまま干菓子をつまんでいる。
真田はかりんとうを噛み砕きながら言った。
「君たちで予測してみろ」
教場にざわめきが広がった。
予測せよ、と言われたのである。訓練の正解を答えよ、ではない。艦隊決戦がどう終わるか、自分の頭で見立てろというのだ。
佐藤がまっさきに口を開いた。
「当然、我が軍の勝利ですわ」
答えは速かった。
いかにも佐藤らしい。願望だけで言っているわけではないにせよ、彼女の中ではまず勝つべきであり、勝つと考えるべきなのだろう。少尉候補生としての矜持と、優等生らしい規範意識が、そのまま口に出たような答えだった。
丸山椿は紙を傾けながら、少し考える顔をしてから言う。
「これでいくと、アメリカの方が少し上かなあ。……でも、どっこいどっこいかもね」
断定を避ける調子だが、楽観にも寄っていない。
丸山はこういう時、案外地に足のついた答えを出す。
高橋が言った。
「烈風や新型機も揃えているのですし、我が軍が有利かもしれません」
それは高橋らしい答えだった。
彼女の視線は、いつでもまず機体や装備の性能へ向く。悪いことではない。兵器体系の一端を担う者にとって、それもまた正当な見方だった。
何人かの候補生もそれぞれ意見を口にしたが、小林はしばらく黙ったまま紙面を見ていた。
戦力が拮抗している。
ならば、一方的な圧勝にはなりにくい。
そうなれば、両方がかなり傷つくかもしれない。
──被害も、同じくらい出るのかな。
勝つ負ける、という言葉だけでは何か足りない気がした。
仮に海の上で我が方が勝ったとして、そのあと艦隊はすぐに次の戦いへ出られるのだろうか。敵もまた同じだけ傷つくとして、その傷の塞がる速さは同じなのか。
小林は顔を上げた。
「引き分け、というのもありますか」
何人かが彼女を見た。
決戦を前にして引き分けという言葉を出すのは、いささか拍子抜けした問いにも聞こえたかもしれない。だが真田は別に眉一つ動かさない。
「まあ、あり得るな」
「そうすると……」
小林は再び紙へ目を落とした。
日米両艦隊の主力。空母、巡洋戦艦、巡洋艦。その下へ目を滑らせる。そこには主力ほど目立たぬが、妙に厚みのある後方戦力の欄があった。
「随分と後方の戦力があります。これは、戦闘をするためのものではないのですか」
真田が、鼻を鳴らした。
「ふん」
その「ふん」は、小林の目がようやくこちらへ届いたことを面白がる響きだった。
堀少佐が説明を引き取る。
「移動整備と補給を担う部隊です。前線近くまで出て、損傷艦の応急修理、弾薬や燃料の補給、航空機の再補充その他をやる。名前だけ判明しているものもありますが、『ヘカトンケイル』とか『ウルカヌス』とか、妙に神話めいた名をつけているらしい」
誰かが小さく感嘆した。
「随分と神話に詳しい方が名付けたみたいですね」
教場にわずかな笑いが漏れる。
だが小林は笑わなかった。紙面の後方欄を見たまま、そこに書かれている数ではなく、その意味を考えていた。
主力がぶつかる。
双方が傷つく。
そのあと、どちらが先に傷を塞ぎ、再び艦隊として立ち上がるのか。
そこに差があれば、次の局面では同じ戦力図にはならない。
勝敗ではなく、回復までに要する時間差。
いま真田が見せているのは、その差なのではないか。
小林は顔を上げた。
「少将」
「なんだ」
「少将が問題にしているのは、どれほど両軍が戦果を挙げるかということより、どの程度の時間で損害を回復できるか、そこに重心を置いておられるのではありませんか」
一瞬、教場が静かになった。
真田の口元が、わずかに歪む。
笑った、というより、相手の着地点がようやく見えた時の表情だった。
「そうだな」
彼は煙草を一本取り出し、唇へくわえた。
だが火は点けない。そのまま、言葉だけを続ける。
「問題はそこだ。海の上でどちらが何隻沈めたか、という話だけなら軍報で足りる。だが戦争は、その次で決まる」
真田は教場前方の壁に掛けられた地図へ歩み寄った。
指示棒を取る。候補生たちの視線が、その先端を追う。
「彼らが、どれくらいで損害を回復するか。こちらが、どれくらいかかるか。その時間差が、次の戦場を決める」
佐藤が珍しく少し声の調子を落として訊いた。
「もし、アメリカの回復力が早ければ……?」
「そうなると」
真田の指示棒が、地図の海上を滑る。
内地から遠く離れた青い広がりを渡り、ある一点で止まった。
教場の中に沈黙が落ちた。
候補生たちは、その地名を見た。
マリアナ諸島。
真田が、低く言った。
「次の目標は、ここになるだろう」
誰もすぐには口を開かなかった。
その地名が何を意味するか、候補生たちの全員が厳密に理解していたわけではないだろう。だが、そこが遠い南洋の島々であり、そこを失えば戦争の形が変わるらしいことだけは、真田の声で分かった。
彼は指示棒の先を、そのまま小さく叩いた。
「そして、これに対抗できるのは航空隊しかいない」
海軍が決戦を挑む。
その帰趨だけでは終わらない。
損害の回復力が次の戦場を決め、その次の戦場が、やがて本土防空ともつながってくる。
小林は地図の一点を見つめながら思った。
訓練教場の机上に置かれた戦闘序列と、遠く離れた南の島と、自分たちがいま学んでいる迎撃管制とが、一本の線でつながった気がした。
戦争は、一つの会敵で終わらない。
ひとつの勝敗だけでも決まらない。
その先に何が残り、どれほど早く立ち直れるかで、次の局面がやって来る。
教場には、しばらく誰の声もなかった。
ただ、真田が噛み砕いたかりんとうのかけらが、教卓の上にひとつ落ちていた。




