第九話 最後の魔王
第九話 最後の魔王
勇人の机の上に置かれていた黒い紙には、白い文字で『Lv.150』と記され、その裏には『次は、お前が逃げられない場所で会おう』と書かれていた。
何度読み返しても文字は消えず、夢の中でレベル150の男から告げられた言葉と明らかに繋がっている。これまでにも銀貨や「ヴァルのたまご」、ベルン農園の商品、瀬留大玲央や安久那大輔など、夢の中の出来事を思わせるものが現実に現れていたが、勇人は何とか偶然だと思おうとしてきた。しかし、自宅の机に自分宛てとしか思えない紙まで置かれてしまえば、さすがに同じ説明を繰り返すことはできなかった。
勇人は玄関と窓の鍵を確認したものの、誰かが侵入した形跡はなく、結局何も分からないまま紙を引き出しへしまった。以前なら、怖いことや考えたくないことがあれば眠ってしまえばよかった。眠れば自分は世界最強の勇者ユートになり、現実の失敗も将来への不安も忘れられたからである。
ところが今夜は、その夢の中にこそ自分を待っている何者かがいる。
勇人はベッドへ横になったものの、なかなか目を閉じることができなかった。
◇
翌朝、ほとんど眠れないままスマイルマートへ出勤すると、黒田店長から先日提案した短縮営業について、本部から試験実施の許可が出たと知らされた。
深夜二時から五時までを閉店し、三か月間の売上、人件費、廃棄額、電気代などを比較したうえで、その後の営業時間を決めるという。以前の勇人なら、店舗の経営について意見を出すどころか、自分の担当業務を間違えずに終わらせるだけで精一杯だったため、自分の提案が実際に店の運営を変えたことがまだ信じられなかった。
「佐伯君、言い出した以上、集計も手伝ってもらうからな」
「俺もですか?」
「当たり前だろ。提案だけして後は店長にお願いします、じゃ困るぞ」
黒田店長が笑いながら資料を渡してきたため、勇人も苦笑しながら受け取った。面倒だとは思ったが、不思議と嫌ではなかった。
その様子を近くで見ていた美咲が、「最近、本当に仕事するようになりましたね」と笑ったので、勇人は「前からしてるよ」と反論したものの、以前の自分を考えれば強く否定できない。
しかし、美咲の顔を見たことで昨夜の黒い紙を思い出し、勇人の表情は自然と真剣になった。
「小川さん、今日、仕事終わったら少し話せる?」
「何ですか?」
「夢のこと。今度は誤魔化さないでほしい」
美咲は一瞬だけ黙ったが、やがて「分かりました」と答え、それ以上は何も聞かなかった。
◇
午後十時を過ぎ、黒田店長と玲央が帰った後、勇人は休憩室で美咲と向かい合い、鞄から黒い紙を取り出して机の上へ置いた。
その瞬間、美咲の表情が僅かに変わった。
「やっぱり知ってるんだな」
「……何のことですか?」
「もうそれはいいよ。これ、昨日家にあったんだ。俺が置いたわけじゃないし、誰かが部屋に入った形跡もなかった。それに、この文章は夢の中であいつが言っていたことと繋がってる」
勇人はこれまで起きた出来事を一つずつ話し、美咲が何度も「三回目」「四回目」「五回目」と数えていたことも覚えていると伝えた。
「俺の夢が普通じゃないことくらい、もう分かってる。小川さんが何か知ってることも分かってるから、全部じゃなくてもいい。何が起きてるのか教えてほしい」
美咲はしばらく黒い紙を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「全部は、まだ話せません」
「どうして?」
「佐伯さん自身が決めなければならないことがあるからです。私が先に答えを教えてしまったら、たぶん意味がなくなります」
「俺が何を決めるんだ?」
美咲はすぐには答えず、少し考えてから逆に質問した。
「佐伯さん。もし夢の世界で、ずっと勇者として生きられるとしたら、どうしますか?」
「ずっと?」
「はい。世界最強のままで、仲間もいて、誰かに必要とされて、失敗して笑われることもありません。現実の生活へ戻る必要もなくなるとしたら、それでもこちらへ帰ってきますか?」
以前なら答えは決まっていた。
夢の世界を選ぶ。
現実の自分には何もないと思っていたし、時給1300円のコンビニ店員として失敗を繰り返す生活より、世界最強の勇者として仲間と旅を続ける方がいいに決まっている。
ところが、今の勇人には即答できなかった。
黒田店長から任される仕事が増え、玲央には先輩として頼られ、店の赤字について自分なりに考えた提案が実際に採用された。相変わらず時給は1300円で、勇者のような特別な力があるわけでもないが、以前ほど自分の生活を惨めだとは思わなくなっている。
「……分からない」
勇人はしばらく考えた末、正直に答えた。
「少し前なら絶対に向こうって答えてた。でも今は、本当に分からない」
美咲はその答えを聞くと、ほんの少し安心したように笑った。
「それなら大丈夫です」
「何が大丈夫なんだ?」
「次に会った時、自分で答えられると思います」
「誰に?」
美咲は机の上の黒い紙へ視線を落とし、しばらく迷った末に答えた。
「最後の魔王に、です」
◇
その夜、勇人は自宅へ戻ると、ベッドに横になって天井を見つめた。
美咲が何者なのかも、夢の世界が何なのかも、まだ分からない。しかし、一つだけはっきりしたことがある。次に眠れば、おそらくあのレベル150の男と再び会うことになる。
怖くないと言えば嘘になる。
それでも勇人は、眠らずに朝まで起きているという選択をしなかった。
「逃げないって決めたんだよな」
自分に言い聞かせるように呟いて目を閉じると、意識はゆっくりと遠ざかっていった。
◇
ユートが目を開けると、そこは見渡す限り何もない荒野だった。
空は赤黒く染まり、乾いた大地には無数の亀裂が走っているが、幸い今回は一人ではなく、ガイラス、バルガ、リリシア、セレス、ゼルディアの全員が近くにいた。
「師匠、ここがどこか分かるか?」
ゼルディアに尋ねられ、ユートは首を振った。
「場所は分からない。でも、誰が来るかは多分分かる」
その言葉が終わるのとほぼ同時に、荒野の向こうから一人の男が歩いてきた。
黒髪に黒い服を着ただけの、ごく普通の人間に見える。しかし、男の頭上に表示されている数字を見た瞬間、仲間たちの表情が一斉に変わった。
レベル150。
レベル128のユートよりも、さらに二十二も高い。
「あり得ません……」
セレスが思わず呟き、ガイラスは無言で剣へ手をかけた。リリシアも杖を構え、バルガでさえ普段のように嬉しそうに飛び出すことはしなかった。
男はそんな彼らを気にする様子もなく、ユートの前で足を止めた。
「やっと来たな、ユート」
「お前が最後の魔王?」
「そう呼びたければ、それでいい」
「名前は?」
「ノア。それで十分だ」
ユートはノアを見つめながら、最も気になっていたことを尋ねた。
「何で俺を探してる?」
「お前を助けるためだ」
「何から?」
ノアは少し笑って答えた。
「お前が帰りたくない場所からだ」
その瞬間、ユートの頭の奥に、見覚えのない景色が一瞬だけ浮かんだ。
白い照明。
商品棚。
レジ。
制服。
そして、少女の声。
『佐伯さん』
ユートは思わず頭を押さえた。
「何だ、今の……」
「考えなくていい」
ノアは穏やかな声で続けた。
「ここではお前は世界最強の勇者だ。誰かが困れば助けることができ、魔王が現れれば倒すことができる。失敗して馬鹿にされることもなければ、自分には何の価値もないと思う必要もない」
ユートはノアの言葉を聞きながら、なぜか胸の奥が苦しくなった。
「ここなら、お前はずっと必要とされる。ガイラスも、バルガも、リリシアも、セレスも、ゼルディアも失わなくていい。だから、もう帰らなくていい」
「どこへ?」
「お前が一番嫌っていた場所へだ」
ユートには意味が分からなかった。
それなのに、何かだけは分かる。
この男の言う通りにしてはいけない。
「お前、敵なの?」
「違う。むしろ一番お前のことを理解している」
「だったら何で、こんなに嫌な感じがするんだ?」
ユートが聖剣を抜いた瞬間、ノアの表情から笑みが消えた。
「それは、お前が変わり始めたからだ」
◇
次の瞬間、ユートの身体は遥か後方へ吹き飛ばされていた。
ノアが動いた姿さえ見えなかった。
ユートが岩山へ激突するより早くガイラスが斬りかかったが、その剣はノアの指一本で止められ、軽く弾かれただけでガイラス自身が地面を転がった。続いてバルガが全力の拳を叩き込んだものの、ノアは片手で受け止め、わずかに押し返しただけで巨体を数十メートル先まで吹き飛ばした。
リリシアは普段なら絶対に使わない規模の攻撃魔法を展開したが、ノアが指を鳴らすと巨大な魔法陣そのものが消滅し、セレスが仲間を守るために重ねた結界も、ノアが歩くだけで次々と砕けていった。
最後にゼルディアが黒炎をまとって突進する。
「我は魔王の息子として戦うのではない! 勇者ユートの弟子として、師匠を守る!」
全力の拳を受けたノアは初めて半歩だけ後退し、少し感心したようにゼルディアを見た。
「悪くない」
しかし、それだけだった。
ノアが軽く腕を振るとゼルディアも吹き飛ばされ、ついにユート以外の全員が倒れた。
瓦礫の中から立ち上がったユートは、口元の血を拭いながらノアを見る。身体中が痛み、これまで戦ったどの敵とも比較にならないほど強いことは、もう十分に理解していた。
それでも聖剣を構える。
「まだやるのか?」
「仲間がやられてるのに、やめられるわけないだろ」
「勝てないぞ」
「それでもやる」
ユートは初めて、最初から自分より強いと分かっている相手へ向かって走った。
これまでの戦いでは、本気を出せば周囲まで破壊してしまうため、常に力を抑える必要があった。しかし今回は違う。ユートは全身の力を聖剣へ集中させ、魔王グラディオスと戦った時でさえ使わなかったほどの一撃をノアへ振り下ろした。
巨大な光が荒野を貫き、遠くの山々まで揺れた。
それでも。
光が消えた時、ノアは同じ場所に立っていた。
しかも。
ユートの聖剣を片手で掴んでいる。
「本当に強くなったな」
ノアが少しだけ寂しそうに言った直後、勇者の聖剣に亀裂が走った。
ユートが何かを言うより早く、聖剣は粉々に砕け落ちる。
「でも、ここまでだ」
ノアの拳がユートの胸へ触れた。
激しい衝撃とともに身体の力が抜け、ユートはその場へ倒れた。
完全な敗北だった。
ガイラスも、バルガも、リリシアも、セレスも、ゼルディアも立てない。自分にも、もう戦う力が残っていない。
ノアは倒れたユートの前へしゃがみ込み、静かに言った。
「もう頑張らなくていい。ここに残れば、お前はもう二度と失敗しない」
「……何を言ってる」
「お前はずっと勇者でいられる。世界最強で、誰かに必要とされ続ける。それがお前の望みだったはずだ」
ユートは答えようとしたが、その瞬間、再び知らないはずの景色が頭の中へ流れ込んできた。
スマイルマート。
黒田店長。
玲央。
安久那。
そして。
美咲。
『佐伯さん』
名前。
佐伯。
誰だ。
いや。
知っている。
「俺は……」
ユートが呟く。
ノアの表情が僅かに変わった。
「思い出すな」
「俺はユートだ」
「ああ」
「勇者ユート。でも……」
もう一つ。
名前がある。
ユートは激しい頭痛に耐えながら、その名前を掴もうとした。
「佐伯……」
「まだだ」
ノアの声が初めて強くなる。
「佐伯……勇人」
その名前を口にした瞬間、世界が静止した。
倒れていた仲間たちも、空を流れていた黒雲も、荒野を吹いていた風も、全てが止まる。
ノアだけが動いていた。
そして。
静かに拍手した。
「おかえり、佐伯勇人」
ユート――勇人は、混乱したままノアを見る。
「俺は……どっちなんだ」
「それを決めるのは俺じゃない」
ノアが手を上げると、世界が二つに割れた。
片方には、勇者ユートとして過ごしてきた世界がある。ガイラス、バルガ、リリシア、セレス、ゼルディアがいて、人々が勇者を必要としている。
もう片方には。
小さなコンビニがある。
白い蛍光灯。
レジ。
商品棚。
黒田店長。
玲央。
安久那。
そして。
美咲。
「次で決めろ」
ノアが言った。
「何を?」
「どちらで生きるのかを」
勇人は二つの世界を見比べる。
「夢なのは、どっちなんだ?」
ノアは答えなかった。
「次に全部分かる」
「今教えろよ」
「駄目だ。答えを知ってから選んだのでは意味がない。お前自身が、自分にとってどちらが現実なのかを決めなければならない」
ノアは勇者の世界を指した。
「世界最強の勇者ユートとして生きるか」
次に。
コンビニを指す。
「時給1300円の佐伯勇人として生きるか」
そして、最後に勇人を見た。
「次に会った時、お前自身が答えろ」
◇
勇人が目を覚ますと、自宅のベッドの上だった。
時計を見る。
午前六時十二分。
最初に勇者ユートの夢から目覚め、七時の勤務へ二分遅刻した、あの日と同じ時間だった。
勇人はしばらく天井を見つめていたが、やがて身体を起こし、机を見る。
黒い紙は消えていた。
代わりに。
銀貨が一枚置かれている。
最初の夢の後、制服のポケットに入っていたものと同じ銀貨だった。
勇人がそれを手に取ったところで、スマートフォンが鳴った。
美咲からだった。
『今日は、絶対に遅刻しないでください』
勇人はその文章を読んで、思わず笑った。
「分かってるよ」
制服へ着替え、銀貨をポケットへ入れる。
玄関を出たところで、勇人は一度だけ立ち止まった。
世界最強の勇者として生きるのか。
時給1300円の自分として生きるのか。
まだ答えは出ていない。
それでも。
今日は逃げない。
勇人は駅へ向かって走り出した。
今までのように何かから逃げるためではなく、自分で答えを出す場所へ、今度こそ遅れずに辿り着くために。
第九話 最後の魔王 了




