第十話 時給1300円の勇者
第十話 時給1300円の勇者
午前六時五十二分、勇人はスマイルマートの自動ドアをくぐった。
最初に勇者ユートの夢を見た朝も、目を覚ましたのは同じ六時十二分だった。しかし、あの日は慌てて家を飛び出した挙げ句に二分遅刻し、黒田店長から注意され、美咲には笑われ、その後も肉まんとあんまんのボタンを間違えている。今日は昨夜のうちに制服を準備し、目覚ましを二つ設定して、朝食を済ませても八分前に到着できた。
世界最強の力など必要なかった。ただ、明日のことを少し考えて準備しただけである。
「おはようございます」
事務所へ入ると、黒田店長が時計を見てから勇人を見た。
「佐伯君が八分前に来るとは珍しいな」
「普通ですよ」
「その普通ができるようになったことを褒めてるんだ」
「それ、褒めてます?」
そんな会話をしていると、美咲が入ってきた。
「おはようございます。ちゃんと間に合いましたね」
「昨日メッセージまで送られたからな」
「送らなかったら遅刻しました?」
「もうしないよ。たぶん」
「最後の『たぶん』はいりません」
美咲が笑うのを見ながら、勇人は昨夜の夢を思い出した。
レベル150の最後の魔王ノアから、自分は二つの選択肢を突きつけられている。
世界最強の勇者ユートとして生きるのか。
時給1300円の佐伯勇人として生きるのか。
まだ答えは出ていなかった。
◇
午後三時、休憩に入った勇人は制服のポケットから銀貨を取り出し、机の上へ置いた。
夢の世界がただの夢なら、この銀貨が現実に存在する理由を説明できない。それだけではなく、ゼルディアを思わせる玲央、魔神アグナディスと重なる安久那、そして夢について明らかに何かを知っている美咲までいる。
考えても答えは出なかった。
勇人は椅子へ深く腰掛け、ほんの少し休むつもりで目を閉じた。
再び目を開けた時、そこはスマイルマートではなく、空も地面も真っ白な世界だった。
目の前にはノアがいる。
「来たな」
「俺、寝てないぞ」
「もう眠る必要はない。夢と現実の境界が、それだけ薄くなったということだ」
ノアが手を上げると、白い世界が二つに分かれた。
左にはガイラス、バルガ、リリシア、セレス、ゼルディアがいる。右にはスマイルマートがあり、黒田店長、玲央、安久那、美咲が働いている。
「答えを聞こう」
ノアは勇人を見る。
「世界最強の勇者ユートとして生きるか、それとも何の力もない佐伯勇人として戻るか。どちらを選ぶ?」
勇人は答える前に、一つだけ尋ねた。
「その前に教えてくれ。勇者ユートって何なんだ?」
ノアはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「お前が作った、もう一人のお前だ」
その瞬間、勇人の記憶が戻ってきた。
大学を辞め、就職もうまくいかず、周囲だけが先へ進んでいくように感じていた日々。コンビニで働き始めても失敗を繰り返し、何かを任されることが怖くなり、いつしか自分には何もできないと思うようになっていた。
「現実では何をしてもうまくいかない。それなら夢の中だけでも、誰より強く、誰かに必要とされる人間になりたい。そう願ったお前が作ったのが勇者ユートだ」
「じゃあ、ガイラスたちも俺が作ったのか?」
「最初はそうだったのかもしれない。しかし、お前が夢を繰り返すうちに、彼らはお前が考えていないことまで話し、自分の意思で行動するようになった。今となっては、あの世界が本当にただの夢なのか、俺にも分からない」
「じゃあ、お前は?」
ノアは少し笑った。
「お前が現実へ帰らないために作った最後の逃げ道だ。現実で失敗するくらいなら、夢の中で永遠に勇者として生きればいい。そう考えていたお前自身が、俺を最後の魔王にした」
勇人はようやく理解した。
だからノアは強かった。
倒すべき敵ではない。
自分自身が作った「逃げたい」という気持ちなのだから、どれほど剣を振るっても倒せるはずがない。
「だったら、もう戦わなくていいんだな」
「何?」
「お前を倒す必要がないってことだよ」
勇人は左右の世界を見た。
ガイラスたちと旅を続けたい。その気持ちは今でも変わらない。しかし、スマイルマートへ戻りたいとも思っている。店の短縮営業が成功するのか見届けたいし、玲央と考えていた早朝の商品補充も改善したい。黒田店長から任された仕事も、美咲に聞きたいことも残っている。
どちらかが本物で、どちらかが偽物なのではない。
ようやく、そのことに気づいた。
「俺は佐伯勇人として生きる」
ノアが頷いた。
「なら勇者ユートは捨てるんだな」
「捨てないよ」
「何?」
「勇者ユートも俺なんだろ? だったら、どっちかを捨てる必要なんかない」
勇人は笑った。
「向こうが夢だったとしても、そこで経験したことまで無意味になるわけじゃない。俺は向こうで、強いだけじゃ解決できないことがあるって知ったし、失敗しても終わりじゃないって知った。それで現実の俺も少し変われたんだから、それで十分だよ」
ノアの頭上に浮かんでいた『Lv.150』という数字が、ゆっくり薄くなっていく。
「俺は、もう必要ないのか」
ノアが呟いた。
「違うだろ」
勇人は首を振った。
「お前も俺なら、一緒に帰ればいい」
ノアはしばらく勇人を見つめた後、初めて穏やかに笑った。
「最後の魔王まで助けるのか。変な勇者だな」
「倒すより楽だろ」
その言葉と同時に、ノアのレベル表示が完全に消えた。
◇
白い世界が崩れ始める。
勇人は最後に異世界を振り返った。
ガイラスが剣を掲げ、バルガが大きく手を振り、リリシアは何かを叫びながら笑っている。ゼルディアは何度も「師匠!」と呼び、セレスだけは静かな表情でこちらを見ていた。
別れたくはなかった。
だから勇人は、別れの言葉を使わなかった。
「またな!」
仲間たちへ向かって叫ぶ。
その時、セレスが笑った。
『いってらっしゃい、勇人さん』
勇人が驚いて聞き返そうとした瞬間、世界は白い光に包まれた。
◇
「佐伯さん、起きてください」
目を開けると、スマイルマートの休憩室だった。
目の前には美咲がいる。
「小川さん」
「はい?」
「セレスって知ってる?」
美咲は一瞬驚いたものの、すぐに笑った。
「知ってますよ」
「やっぱり小川さんがセレスなの?」
「少し違います。私も佐伯さんと同じように、夢の中でセレスだったんです」
美咲も同じ世界の夢を何度も見ていたという。最初は普通の夢だと思っていたが、やがて勇者ユートが現実の勇人と重なっていることに気づき、玲央や安久那にも同じような現象が起きていることを知ったらしい。
「じゃあ、あの世界は本当にあるの?」
勇人が尋ねると、美咲は首を傾げた。
「分かりません。みんなで同じ夢を見ているのか、本当に別の世界へ行っているのか、それとも両方とも現実なのかもしれません」
「そこは分からないんだ」
「分からない方が、また会える気がしませんか?」
勇人は少し考えた後、笑った。
「それもそうだな」
◇
それから一か月後。
スマイルマートの短縮営業は続いており、勇人たちが発注や品出しを調整したことで、店舗の赤字も少しずつ縮小していた。
勇人の時給は相変わらず1300円である。
世界最強でもなければ、仕事で失敗しなくなったわけでもない。
その日も鮭おにぎりを二十個発注するところを二百個と入力し、黒田店長から盛大に怒られた。
ただし、以前の勇人とは一つだけ違った。
「店長、すみません。値引きだけじゃ厳しいので、お茶とのセット販売を本部に確認します。それと近くの工事現場にもまとめ買いできないか聞いてみます」
失敗したことは消せない。
それでも、その後どうするかは自分で考えられる。
勇人はようやく、それを覚えていた。
◇
ある朝、勇人がレジへ入ると、美咲が隣から声をかけてきた。
「佐伯さん、昨日夢を見ました?」
「いや、覚えてない。小川さんは?」
美咲は少し考えるような顔をした後、意味ありげに笑った。
「私もよく覚えてないんですけど、一つだけ気になることがあるんですよね」
「何?」
美咲は勇人の顔を見ながら、何でもないことのように尋ねた。
「佐伯さん……昨日、夢の中で勇者やってませんでした?」
勇人は一瞬だけ言葉を失ったが、やがて笑った。
夢だったのか、本当にどこかに存在する世界だったのか、その答えは今も分からない。
しかし、それでよかった。
勇者ユートとして過ごした時間も、コンビニで失敗を繰り返した時間も、どちらも自分の一部であることだけは、もう分かっている。
ちょうどその時、自動ドアが開いて客が入ってきた。
勇人は美咲との話をいったん終え、いつものようにレジへ向き直った。
「いらっしゃいませ」
今日も時給は1300円。
世界最強ではないし、明日も何かを間違えるかもしれない。
それでも佐伯勇人は、もう夢の中へ逃げるために眠る必要はなかった。
第十話 時給1300円の勇者 了




