4話
その日の依頼は、商店街の水路から声がする、というものだった。
「夜中に、誰かが喋ってる」
依頼人の老婦人は、そう言って眉をひそめていた。
「空耳かと思ったけど、毎晩だから気味悪くて」
現地に着くと、商店街の裏手を流れる用水路へ向かった。
水面は妙に静かだった。僕が水路沿いを覗き込んでいると、背後から声が飛んできた。
「こんにちはー、先生」
振り返る。パン屋の倅だった。何度か店で顔を合わせたことがある。名前までは、覚えていない。
「やあ」
いつものように、笑顔を返す。男は満足そうに頷くと、そのまま歩いていった。
その背中を見送りながら、ファニーが僕の顔を覗き込む。
「……今の人、誰?」
「さあ?」
「さあって」
ファニーが眉を寄せた。
「マスター、いつもあんな笑い方してないよね?」
「そう?」
「なんか違う。もっと……胡散臭い」
「ひどいなぁ」
僕は笑う。
「でも、まあ。ああいう時は、あれでいいんだよ」
「どういうこと?」
「知らない人でも、向こうが親しげなら親しげに返す。わざわざ壁を作る必要もないからね」
シエルが水路を覗き込みながら口を挟んだ。
「つまり、相手に合わせているだけですか」
「うん。人付き合いなんて、そんなものだよ」
「信頼しているわけではない」
「もちろん」
僕は男の去っていった方向へ目を向ける。
「知らない人を、知っている顔で迎える。そのほうが、この街で暮らすのに角が立たないからね」
シエルが、わずかに眉をひそめた。
「……マスター」
低い声だった。
「なに?」
「今の考え方は、少し危険だと思います」
言い終わらないうちに、シエルの視線が、すっと横へ逸れた。用水路の方だった。風もないのに、水面がゆっくりと波打っていた。
次の瞬間。
排水溝から、黒い水が逆流した。水は地面を這い、盛り上がりながら人の形を取っていく。顔が浮かび上がる。さっきの男だった。
『こんにちは』
同じ声。
同じ調子。
『助かりました』
「これが、依頼の声か」
シエルが目を細める。
「特殊型です。このタイプの対処法は――」
「うるさい!」
ファニーが真っ先に飛び出した。赤に煌めく拳が黒い水を捉える。ドンッ!と水が弾け、黒いしぶきが飛び散った。
しかし、飛び散ったはずの水が地面を這って戻ってくる。崩れた輪郭が、何事もなかったように元へ戻った。
「安易に殴らないでください」
シエルが、額を押さえる。
「討伐するには条件があるはずです。力の経路を探ります」
足元に、青白い幾何学模様が広がった。光の線が、地面を這うように四方へ伸びていく。商店街の路地の奥まで、光が這い進んでいくのが見えた。
「……街全体に、薄く広がっています」
シエルの声が、低くなる。
僕は、その光の広がりを目で追った。遠くで商店街を行き交う人々。交わされる挨拶。名前も知らない相手との、ほんの一瞬のやり取り。薄く、浅く、数えきれないほど張り巡らされた繋がり。その全部が、黒い水へ吸い込まれている。
「なるほど」
口元が、わずかに緩む。
「街の関係性そのものが、餌になってるんだ」
「マスター?」
ファニーが、こちらを見る。
「じゃあ、そこを切ればいい」
――ちょっと範囲が広いけど、まあ大丈夫でしょ。
街全体の関係性を対象にするのは、今までよりずっと広い。それでも、これは僕にしかできない。二人に任せられることじゃない。
僕は指を鳴らした。
「定義」
淡い緑光が、足元から広がる。
「関係性は選択制」
一つ。また一つ。目には見えない糸が、静かに断ち切られていく。
「残すかどうかは、僕が決める」
黒い水が、大きく揺れた。ぐにゃりと人の顔を作っていた輪郭が崩れ、濁った水が地面へ落ちる。
「……え?」
ファニーの声が聞こえたその瞬間、僕の足の感覚がすっと消えた。
「あれ……」
立っているはずなのに、地面を踏んでいる実感がない。
気づけば、視界が変わっていた。
――空が、見える。
いつの間にか、仰向けに倒れていたらしい。覗き込む二人の顔が、視界の端に映った。ファニーの、泣きそうな顔。シエルの、強張った顔。
「マスター!」
「しっかりしてください!」
「手が……!」
「存在が揺らいでいます!とにかく固定を!」
二人の声は聞こえる。僕の周りに薄青い光が灯っている気がする。
けれど、何かが薄い膜を隔てているみたいだった。
何を考えていたのか。何をしようとしていたのか。
――そうだ、金庫。
ナンバーロックの番号を、紙に。
伝えなきゃ。
「……きん、こ」
声が、うまく形にならない。言葉が、途中で溶けていく。
「マスター!消えないで!!」
ファニーが胸元のシャツを握りしめて揺らしている。
「……ばん、ごう」
それ以上、続かなかった。言おうとしていたことすら、自分の中でほどけていく。
二人の声が、少しずつ遠くなる。耳の奥で、水の中にいるみたいに音がくぐもっていく。視界の端が、白くぼやけていく。
――ああ、これか。最近、増えていた違和感。これが、その先か。
思考が薄れていく中で、それだけは妙に納得できた。
そのとき、視界の端に、白い猫が映り込んだ。すぐ近くで、金色の瞳が僕を覗き込んでいる。
不機嫌そうに細められたそれが、ぼんやりと輝いた。
「たわけ者め」
聞き慣れた声。シロだった。
前足が、僕の胸に、ぽん、と置かれる。瞬間、身体の奥へ何かが戻ってきた。
薄れていた輪郭が、引き戻される。指先に感覚が戻る。背中に、地面の硬さと冷たさを感じる。肺が、自分の意思で動いた。
「……っ」
大きく息を吸う。
「……シロ」
「固定化するのは、今回だけじゃ」
険しく釣り上がった目が、僕を睨みつけている。
「乱発して自身を削るとは、愚かだな」
「……ごめん」
「謝る相手が違う」
シロの視線が、二人へ向いた。ファニーとシエル。二人とも、青ざめた顔でこちらを見ている。
「……」
ファニーが、何も言わない。シエルも、ただ僕の腕を掴んでいる。その手に、わずかに力が入った。
「その考えを変えねば」
シロの声が、静かに響く。
「次は無いぞ」
胸の奥が、冷たくなった。
――何が、どうなっていたのか。自分の目で見たわけじゃない。
ただ、ファニーの「手が……!」という声と、あの、遠のいていく感覚だけが、頭から離れなかった。
「……分かった」
小さく呟く。本当に、分かったのか。自分でも、よく分からなかった。
しばらくして、シロが前足で僕の膝を軽く叩いた。
「立てるか」
「うん。もう大丈夫」
そう答えると、シロは僕の膝に頭を軽く擦りつけ、そのまま路地の奥へ歩いていく。
「……シロ?」
ファニーが呼び止めるように声を上げた。シロは振り返らなかった。
「マスター」
今度はシエルだった。
「……あの猫は、何なんですか」
「シロ?」
「はい」
「昔からいるよ」
「そういう意味ではなくて」
シエルの視線が、僕の手へ落ちる。
「あなたを戻した、あの力です」
「ああ」
僕は少し考える。
「僕にもよく分からないんだよね」
「分からない?」
「うん。でも、昔から何度か助けてもらってる」
ファニーが、シロの消えた路地を見る。
「……普通の猫じゃないよね」
「たぶんね」
「たぶん!?」
「僕にも分からないことはあるよ」
いつものように笑う。けれど、二人は笑わなかった。
そのまま、三人で事務所へ戻った。誰も、あまり口を利かなかった。歩いている間も、ファニーは時折、僕の手を見る。消えていない。そのことを確かめるように。
境界堂へ着いても、二人の様子は変わらなかった。
「……大丈夫だから」
努めて、いつもの声を出す。
返事はない。まあ、無理もないか。僕自身だって、まだ少し変な感じがする。
けれど、時間が経てば戻る。今までも、そうだった。
そう思っていた。
翌朝。
僕はいつものように、コーヒーを淹れた。ドリップの香りが、部屋に広がる。ひと口飲んで、首を傾げる。
「……薄いな」
もう一度、口に含む。やっぱり、薄い。
豆の量を、少し増やして淹れ直す。滴下も、いつもよりも時間をかけて。それでも、飲んでみると同じだった。
「……何でだろう」
「マスター、何やってるの?」
ファニーが台所を覗き込む。
「コーヒーが、薄い気がしてね」
「え、そんなことある?」
ファニーが、カップを取り上げて一口飲んだ。瞬間、顔が歪む。
「にっがぁっ!!」
「……そう?」
「めちゃくちゃ濃いよ! むしろ濃すぎ!」
ファニーが、涙目でカップを置く。
「マスター、味覚おかしくない?」
本当に分からない、という顔だった。
シエルが静かに言う。
「昨日、街の関係性を切断しました。代償は?」
「特に感じないよ」
二人が、何も言わずに顔を見合わせる。指先が透けていたこと。シロに助けられたこと。
全部、覚えている顔だった。
午後、日用品の買い出しに出た。
商店街を歩いていると、何かがおかしいと気づく。
「……なんか、静かだね」
ファニーが、周囲を見渡しながら呟く。
「昨日切ったからだよ」
思わず、そう答えていた。返す言葉が誰からもなかった。
歩いていると、道の先で困ったような声が聞こえた。
「……すみません、この辺で小さい男の子、見ませんでしたか」
女性が、周りの通行人に声をかけている。誰も、足を止めなかった。
「あの、すみません」
また声をかける。また、素通りされる。ファニーが、真っ先に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
女性が、はっと顔を上げる。
「息子が、いなくなって……」
目に涙が浮かんでいた。
「みんなに聞いてるんですけど、誰も……この辺の人、今日はよそよそしくて。尋ねても『知らない』ってことしか返ってこなくて……」
ファニーが、すぐに女性の手を取った。
「一緒に捜します!」
シエルも頷く。
「特徴を教えてください」
僕は、二人の後ろで、商店街を見渡した。確かに、昨日より人の距離が遠い。目が合っても、すぐに逸らされる。挨拶も少ない。僕が切ったものが、こういう形で誰かを追い詰めている。
「……マスター?」
ファニーの声で、我に返る。
「ああ、捜そう。手分けした方が早い」
三人で、手分けして商店街を回った。
男の子は、裏路地の資材置き場の陰で、しゃがみ込んでいた。野良猫を追いかけているうちに、迷い込んだらしい。
「――いた!」
ファニーの声に、女性が駆け寄る。
「よかった……!本当に、ありがとうございます」
何度も頭を下げる女性に、ファニーが笑いかける。
「見つかってよかったです」
女性が息子の手を引いて帰っていく背中を見ながら、僕は、さっきの言葉を思い出していた。
――尋ねても「知らない」ってことしか返ってこなくて。
街の人たちは、無関心になったわけじゃない。関わる糸そのものを、僕が断ってしまっただけだ。
母子の背中が見えなくなったところで、ファニーが振り返った。
「そのやり方で守られても、嬉しくない」
静かな声だった。
「怪異は倒せたよ。でもさ、街まで切る必要、あった?」
「でも、ああしないと怪異は倒せなかった」
「一度撤退するという選択肢もありました」
シエルが、静かに続ける。
「あなたは最適解を選ぶ。ですが、最適が最善とは限りません」
「……最善策だったよ?」
「でも消えかけたじゃん!!おかしいでしょ!!」
ファニーの声が、震えていた。
返す言葉が、見つからなかった。
夕日が、商店街のアーケードを橙色に染めていた。歩いていると、パン屋の前に差し掛かった。
店先のお買得商品の棚に、パンが山ほど残っている。店主が腕を組んだまま、それを見下ろしていた。
「……どうして」
ぽつりと、こぼれる声が聞こえた。
「今日に限って、こんなに……」
僕は、足を止めた。これも、僕が切ったものの一つだ。声をかけようとした、その時。ファニーが先に動いていた。
「こんにちはー!すみません、パン、まだ買えますか?」
店主が驚いた顔で顔を上げる。
「え、あ、はい。どうぞ……」
ファニーは、棚を見渡して、目を輝かせた。
「わあ、どれも美味しそう!これと、これと……」
両手いっぱいにパンを抱える。
「ね、シエルも見て!このクリームパン、すっごく美味しそうじゃない?」
シエルが、少し戸惑いながらも隣に立った。
「……確かに、良さそうですね」
ファニーの声が、通りにまで響いていた。それに釣られたのか、通りがかりの人が、一人、また一人と足を止める。
「あら、美味しそうね」
「今日、まだこんなにあるんですか?」
店先に、少しずつ人だかりができていく。ファニーが、集まった人々に向かって笑いかけた。
「ここのパン、本当に美味しいですよ!みなさん、買ってください!」
半分、押し売りだった。それでも、店主の表情が、少しずつ緩んでいく。
「ありがとうございます……」
店主が、店の奥へ向かって声を張った。
「おい、お前も手伝え!」
出てきたのは、あの青年だった。店主の息子。昨日、僕に「こんにちはー、先生」と声をかけてきた相手。
「え、あ、はい」
戸惑いながらも、彼はレジに立った。袋詰め、会計、呼び込み。慌ただしく手を動かしているうちに、その顔から、よそよそしさが少しずつ抜けていくのが分かった。
一時間もしないうちに、棚はほとんど空になっていた。店主が、額の汗を拭いながら、深く頭を下げる。
「本当に、助かりました」
それから、ふと、僕の方を見た。
「あんたも、いつも来てくれてるお客さんだよな」
「……はい」
「今日はどうも、静かだったから」
店主が、少しだけ笑った。ぎこちない、けれど確かな笑顔だった。隣で、倅も僕の方を見た。
「先生、また今度」
昨日と同じ、けれど少しだけ照れくさそうな声だった。
「また、来てくださいね」
「はい」
それだけの、短いやり取りだった。けれど、確かに何かが戻った気がした。
事務所へ帰る道すがら、ファニーが得意げに言った。
「見た?完売だよ、完売!」
「うん。すごかったよ」
その笑顔を見ながら、僕は、さっきの光景を思い返していた。
僕が切り落としたものを、ファニーは、たった一時間で結び直してみせた。定義でもない。力でもない。ただ、声をかけて、笑って、人を集めただけだ。それだけのことが、僕にはできなかった。
僕のやり方は、たぶん、間違っていたわけじゃない。
けれど、正しいだけでは、足りないものがある。
「改善するよ」
僕がそう言うと、ファニーが振り返った。
「どうやって?」
「顔と名前を覚えるところから」
「低い!」
「僕にしては高いよ」
「基準が低すぎる!」
シエルが、小さく笑った。
「……まあ、第一歩としては妥当でしょう」
それから数日が経った、ある夜の夕食。
ファニーの箸が疾風のようにシエルの唐揚げを奪う。
「いっただきぃ!」
「ふん、甘いな」
シエルが即座にファニーのミニトマトを奪い返した。
「あ!私のミニトマト!等価交換になってない!」
「油分とビタミン。合理的だ」
その様子を見ていて、僕は、思わずくつりと笑ってしまった。
特に、意識したわけじゃない。境界堂の中では、こんな風に笑うことは、もう珍しくもなかった。
「あ、マスター!今笑った!」
「え?いつも笑ってるだろう?」
シエルが、箸を置いて僕を見た。
「胡散臭い笑顔とは、違いました」
「そう?」
「はい。角度ではない。計算もない」
唐揚げを二人の皿に一つずつ足す。
「覚えていない人に笑うのは、簡単なんだ。ほら、口角を3度、目じりを2度傾ける。……でも、目の前で奪い合ってるのを見るのは、想定外だった」
食事の手が止まる。ファニーとシエルが、顔を見合わせた。何か、目配せのようなものが交わされる。
先に、ファニーが箸を置いた。
「……マスター、聞いていい?」
「なに?」
少し、声のトーンが変わっていた。
「私たち、あなたが危うすぎると思う」
まっすぐな目だった。シエルも、静かに頷く。
「同意です。人として、欠けている」
「……手厳しいな」
「守ると決めたら全部切る。不要だと思えば躊躇しない。なのに、自分のことは削り続ける」
シエルが、淡々と続ける。
「あなたは、自分を勘定に入れていません」
図星だった。
「だから、私たちが守る」
「そうです。俺たちが守ります」
真正面から、そう言われた。
「……対等、ということ?」
「当たり前でしょ!」
「俺たちはチームです」
少し、抵抗してみる。
「大人は、子供を守るものだよ?」
「私たち成人してるから!」
「いつまでも保護対象にしないでください。むしろ、あなたの方が危なっかしいです」
言い返せなかった。
「では、時折、頼ってもいいのか」
「当たり前だろ!」
「俺たちはチームだ」
まっすぐな二人の瞳を見つめたまま、僕の思考は一瞬だけ、出会った頃に巻き戻った。
あの日は警戒した野良猫のように距離を取っていた二人が、今は目の前に立って、盾になろうとしている。
「……頼もしくなったもんだね」
声に出せば、掠れてしまいそうだった。
「守る」なんて、大人の傲慢な台詞だと思っていた。だけど、彼らが口にしたその言葉には、誰かを救いたいという本物の意志が宿っている。
守ってきたつもりの二人は、いつの間にか、「守るべき人間」から「共に並び立つ人間」へと、歩みを進めていたらしい。
胸の奥が熱くなって、僕は視界が滲むのを誤魔化すように、ふっと目を細めて前を向いた。
――守っているつもりだった。
それなのに、いつの間にか、僕の方が守られていたらしい。
何だか、くすぐったい。
くつくつと、笑いがこみ上げてきた。知らず、口元が上がっていく。
「それだよ、それー!」
「自然な笑顔です」
指摘されて、初めて気づいた。
「……僕、今笑ってた?」
途端に、羞恥が襲ってきた。顔が、少し熱い。
「唐揚げ、追加で揚げてくる」
逃げるように、台所へ向かった。背中で、二人の会話が聞こえる。
「……照れてる?」
「間違いなく」
油の跳ねる音に紛れて、僕は小さく息を吐いた。
気づけば、唐揚げの山が、いつもの倍近くできあがっていた。
境界堂に、少しだけ軽い空気が満ちていた。
そっと、窓から白い影が舞い降りる。誰にも聞こえないくらい小さく、シロが呟いた。
「……ようやく対等じゃな」
空に浮かぶ三日月のように、金の瞳がゆっくりと細められた。




