3話
■ファニー視点
コーヒーの匂いが、まだ部屋に残っていた。
私はソファーに座り、膝の上でクッションを抱えていた。その手には、カフェオレの入ったマグカップ。
「砂糖を入れすぎです」
さっき、シエルに呆れた顔で言われた。でも、甘いほうが美味しい。私はこっそりもう一口飲む。……やっぱり美味しい。
隣ではシエルが、事務所に残されていた過去の案件ファイルをめくっている。紙が擦れる音。ページをめくる音。その合間に、私がカフェオレを啜る音。
デスクでは、マスターが書類仕事の休憩にコーヒーを飲んでいた。
そんな、いつもの午後だった。
コン、コン。
玄関から、礼儀正しいノックが響いた。
びくりと肩が揺れた。クッションを抱く腕に、思わず力が入る。
マスターの手が、カップから離れた。
その横顔を見た瞬間、空気が変わった気がした。エメラルドの瞳が、わずかに細められる。そして、何も言わずに立ち上がった。
玄関へ向かう背中を、私は慌てて追った。その背中を見ているうちに、ふと気づく。肩も、歩き方も、いつもと変わらない。
なのに。
なぜか、背中に力が入っているように見えた。
シエルもファイルを閉じて後ろからついてくる。 通路に出ていた椅子を、何気ない仕草で端へ寄せた。
その動きに、胸の奥がざわつく。
……二人とも、警戒してる。
気づけば、私はシエルの服の裾をつまんでいた。そのまま彼の肩越しに、玄関の方をそっと覗く。
マスターが、扉の前で立ち止まった。一瞬だけ、こちらを振り返る。
「……大丈夫だよ」
そう言って、扉に手をかける。
開いた扉の向こうに、ひどく整った男が立っていた。
漆黒の髪をオールバックにまとめている。黒色のコート。無駄のない姿勢。そして、鋭い琥珀の瞳。
その目が、まっすぐこちらへ向いた。
目が合った瞬間、身体が竦んだ。息をすることさえ忘れそうになる。
それから、男の視線が隣へ滑った。シエルを見て、もう一度、私を見る。
まるで、逃げた人数を確かめるように。
「……居たな」
低い声。
その一言が、胸の奥へ冷たく沈んだ。
――連れて行かれる。
そう思った。
シエルの背中が、私の前を塞ぐ。その直後、マスターの背中も、ほんの少しだけ私たちの側へ寄った。
「彼女らは我々の管理下にある。逸脱は修正する」
あいつの言葉は淡々としていた。なのに、私には刃物みたいに聞こえた。
――私たちを、連れ戻しに来たんだ。
クロードが、一歩近づく。
その瞬間だった。
「もし二人に危害を加えるなら」
マスターの指が、軽く鳴った。床を淡い光が走る。私の足元をかすめるように伸びた光が、クロードとの間で止まった。
「……定義」
マスターの声が、低くなる。
「暴力は、不許可」
空気が変わった。ぞくりと、肌が粟立つ。何かが、そこにある。見えない壁。でも、ただの壁じゃない。
クロードが足を止めた。
「……空間じゃないな」
琥珀の瞳が、床の光へ落ちる。
「概念で囲ったか」
マスターは答えない。ただ、私たちの前に立っている。
「まだその力を使う気か」
クロードの声に、マスターがわずかに目を細める。
「相変わらずだな。三年前の地下区画、忘れたか」
マスターの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
「……ああ」
「命令拒否。全員排除を無効化した」
私は息を呑んだ。三年前。その言葉だけで、何かとても重いものがこの二人の間にあるのだと分かった。
「機関にどれだけの損害が出たか、覚えているか」
「覚えてるよ」
「……あの件の再現をするつもりか」
「違うよ。僕は戦争をしたいわけじゃない」
マスターが、ほんの少しだけ振り返る。その視線が私たちに向いた。
「ただ、守るだけ」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
クロードが小さく息を吐く。
「――話を聞け」
「なにを」
「上の承認は、下りている」
僅かな沈黙。マスターの眉が寄る。
「……何の話?」
「二人の滞在についてだ」
「……」
「保護対象を返せ、という話ではない」
初めて、クロードの表情が崩れた。呆れたような。それでいて、ほんの少し気まずそうな。
「二人がここに滞在することは、暫定的に承認された。それを伝えに来た」
部屋の空気が、一気に抜けた。
マスターが小さく息を吐く。その指先が、わずかに動いた。すると、床に走っていた淡い光が音もなく消えていく。さっきまでそこにあった見えない境界が、ゆっくりとほどけていくようだった。
私も、ようやく息を吐いた。隣ではシエルが、あからさまに肩の力を抜いている。マスターはそのまま片手で顔を覆った。
「……それを、最初に言ってよ」
「お前が聞かなかった」
「君が言わなかったんだよ」
「言った」
「どこで?」
「今だ」
「今じゃん!」
思わず、シエルと顔を見合わせる。さっきまでの緊張は、どこへ行ったんだろう。クロードは、何事もなかったようにコートの襟を整えた。
「今後は定期的に俺が来る」
「……は?」
マスターの顔が引きつる。
「監察担当は俺だ」
「いや、待って」
「何だ」
「それって、監視じゃない?」
「違う」
「何が違うの?」
「監察だ」
「だから!」
シエルが、小さく息を吐いた。
「……この人も、マスターと同じくらい頑固ですね」
「失礼だなぁ。僕は話し合いができるよ」
「できているか?」
「今してるところだよ」
「そうか。では、話は終わりだ」
「終わってないよ」
二人のやり取りを見ているうちに、さっきまでの恐怖が少しずつ薄れていった。この二人。もしかして昔から、こんな感じなのだろうか。
「監察は定期的に行う。二人の自由意思は尊重する。君への直接的な干渉も行わない」
「それなら、まあ……」
マスターが少しだけ考える。
「でも、君が来るの?」
「俺が担当だ」
「よりによって?」
「不満か」
「大いに」
「却下する」
「君に却下権ないでしょ」
「ないな」
私は、少しだけ笑ってしまった。さっきまで、あんなに怖かったのに。
「では、承認されたことは伝わったな」
「うん。今、ようやく」
「なら、失礼する」
背を向ける。そのまま帰るのかと思った。けれど、扉に手をかけたところで、クロードが足を止めた。振り返らないまま、言う。
「線は、越えさせない」
その声だけは、今までと少し違っていた。低く、静かで。でも、不思議と冷たくなかった。
扉が静かに閉まった。私は、詰めていた息をようやく吐きだした。
「……なに、今の」
シエルが腕を組む。
「言葉が足りなすぎる」
「だよね」
マスターは、まだ額を押さえていた。
「……昔から、そうなんだ。あの人」
「三年前も、あんな感じだったんですか?」
私が聞くと、マスターは少し考えた。
「もっと酷かったよ」
「……」
「威嚇して」
「威嚇されて?」
「両方」
マスターが目を逸らす。
「……僕も若かったから」
「今も十分やってましたよね?」
「……否定はしない」
私は、閉じた扉を見る。クロード。怖い人だと思った。でも最後に残した言葉だけは、なぜか、少しだけ安心できた。
線は、越えさせない。
その言葉が、私たちを守る側のものだったと、今度はちゃんと分かった。
■マスター視点
扉が閉まる音を聞きながら、僕は小さく息を吐いた。
「……相変わらず、疲れる人だ」
「三年前の話、まだ聞いてないけど」
ファニーが、好奇心できらめく瞳をこちらへ向けている。
「今度でいいかな」
「今度っていつ?」
「今度は今度だよ」
はぐらかすと、シエルが呆れたように目を細めた。
「逃げましたね」
「……まあ、いいじゃないか」
それ以上は追及されなかった。
まだ、そこまでの信頼はお互いにない。
僕は二人へ向き直った。
「さて」
ファニーがクッションを抱え直す。
シエルは背筋を伸ばし、静かにこちらを見た。
「とりあえず、安全は確保されたわけだね」
二人が黙ってこちらを見る。
「君たちは、どうする?もう少しここにいるかい?」
ファニーの視線が、事務所の中を巡る。
ソファー、書棚、台所、そして自分たちが使っている部屋。しばらく迷ったあと、ファニーが小さく口を開いた。
「……ここにいたい」
その言葉と一緒に、抱えていたクッションを少しだけ緩める。シエルも頷いた。
「俺も、ここにいます」
「そう」
僕は笑った。
「分かった」
ファニーは、もう一度だけ事務所を見回した。
さっきまで離そうとしなかったクッションを、今度はソファーへ戻す。
「じゃあ、君たちにも働いてもらおうか」
「……働く?」
「そう。ここは探偵事務所だからね」
「探偵……」
「正確には、民間専門の怪異事件解決事務所」
その言葉を聞いた途端、ファニーの目が輝いた。分かりやすいなぁ。
「怪異事件?」
「うん」
僕は玄関とは反対側へ歩き出した。
「僕一人でやっていたんだけど、君たち二人が加わった。当然、食費も増えた」
背後で、ファニーの気配が止まった。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。食べられるようになったのは、良いことだから」
シエルが、なんとも言えない顔で視線を逸らす。まあ、そこは気にしなくていい。
「ただ」
僕は地下へ続く扉を開けた。
「働いてもらえるなら、助かる」
扉の向こうから、冷たい空気が流れてくる。
「……ここ、何?」
ファニーが扉の中を覗き込む。
「訓練所」
「えっ」
声が弾んだ。
「こんなところあったんだ!」
やっぱり、こういうものには興味があるらしい。その横で、シエルは階段の先をじっと見ている。
「地下まであるとは思いませんでした」
階段の幅、照明、壁の材質、それから視線がいくつかの場所を行き来する。逃げ道まで確認しているのだろう。慎重な性格だ。
「危険な場所じゃないよ」
「あなたが言うと、逆に怪しいですね」
「ひどいなぁ」
ファニーが先に階段を下りていく。
「わあ……!」
声が地下へ響く。シエルも、その後を追った。
僕は二人の背中を見ながら、ゆっくりと階段へ足をかけた。
階段を一段、下りる。二段。三段目に足を掛けたところで、
――あれ?
一瞬だけ、何かが抜け落ちた。
どこまで下りた?
今、何を考えていた?
足が止まる。ほんの一瞬だった。けれど、その一瞬だけ、頭の中にあったはずの記憶が霧をかぶったように掠れた。
「……?」
瞬きをする。前を見る。ファニーの背中。その少し後ろを歩くシエル。地下へ続く階段。
……そうだ。二人に仕事をしてもらう。そのために、訓練所へ案内している。
思い出す。
「マスター?」
ファニーが階下から顔を覗かせていた。
「どうしたの?」
「いや」
僕は意識して笑う。
「ちょっと考え事をしていただけ」
「早く来てよ!」
「はいはい」
階段を下りる。
もう、さっきの違和感は消えていた。
ただ、指先だけがわずかに冷たい。さっき使った定義の反動が、まだ残っているらしい。僕は何も言わず、二人の後を追った。
地下室の扉を開ける。
簡素な床。壁際に並んだトレーニング器具。その向こうには、いくつもの標的が並んでいる。
「すごい!」
ファニーが目を輝かせた。その隣で、シエルは黙ったまま室内を見渡している。器具の配置や標的の位置を、一つずつ確認しているようだった。
「……ここで、何をするんですか?」
「訓練だよ」
そう答えてから、僕は二人を見る。ここへ来た以上、いつまでも保護される側というわけにもいかない。
機関から逃げてきた二人。なら、まずは自分たちが何をできるのか、知っておいたほうがいい。
「君たちの異能を確認させてもらおうかな」
二人の表情が、わずかに変わった。
ファニーは興味深そうに僕を見る。シエルは、静かに頷いた。
「異能を持っているんだよね?」
「うん!」
「俺も」
「そう」
僕は訓練場の中央へ歩き、白線の上で足を止めた。二人も続いてくる。
三人が横並びに立つ。正面には、訓練用の的がいくつも並んでいた。
「じゃあ、まずはファニーから」
「はい!」
ファニーが勢いよく一歩前へ出る。
「私の異能は、感情増幅系!」
胸を張る姿に、思わず笑みが浮かんだ。
「感情が強くなればなるほど、身体能力も上がるの。楽しいとか、嬉しいとか、テンションが上がってる時は特に強いよ!」
「不安定とも言う」
隣から、シエルが即座に突っ込んだ。
「むぅ」
ファニーが頬を膨らませる。
「ちゃんと強いもん!」
ファニーが的へ向き直り、拳を握った。
「じゃあ、いくよ!」
次の瞬間。
「……え?」
ファニーの姿が、視界から消えた。赤い光が弾ける。床に紋様が走ったと思った瞬間、轟音が地下室に響いた。
ドゴォン!
金属製の標的が、壁まで吹き飛んでいる。その手前に、ファニーが立っていた。拳を突き出したまま、こちらを振り返る。
「どう?」
「……なるほど」
思った以上だ。単純な身体強化系かと思っていたけれど、速度まで乗るらしい。しかも、あの一瞬の加速。
「すごいでしょ!」
「確かに」
僕が頷くと、ファニーは嬉しそうに笑った。
「だから、感情に左右されすぎるんです」
シエルが呆れたように言う。
「いいじゃん!」
「良くありません」
いつもの調子だ。
シエルが一歩前へ出た。
「次は俺です」
足元に、青白い幾何学模様が浮かび上がる。
「構築系。演算式を組んで、理解した現象を再現します」
「炎とか、衝撃とか?」
「ええ。ただし、構築には時間がかかります」
言葉と同時に、空中へ幾何学模様が展開した。いくつもの線が重なり、複雑な立体構造を形作っていく。
「構築」
青白い光が収束した。
シュンッ!
霊弾が飛び、標的を撃ち抜く。続けて、シエルが手を払った。青白い膜が広がり、僕たちの前に結界が現れる。
「攻撃だけじゃないんだね」
「状況に応じて組み替えられます」
ファニーが興味津々で結界へ近づいた。
「硬い?」
指先で軽く触れる。次の瞬間、ファニーの目がきらりと輝いた。
「えいっ」
拳が結界に当たる。
パァン!
乾いた音が響いた。
「……っ」
同時に、シエルの身体がわずかに揺れた。
「シエル?」
「……問題ありません」
そう言いながら、シエルは眉間を押さえている。なるほど。結界への衝撃が、術者にも返るのか。
ファニーはそんなことには気づかず、もう一度拳を構えようとしている。
「もう一回――」
「やめてください」
シエルが、じろりとファニーを睨んだ。
「あっ、ごめん」
ファニーは一瞬だけ目を丸くすると、素直に拳を下ろした。どうやら、今度は本気で怒られると分かったらしい。
僕は二人を見比べる。
赤と青。速度と火力。構築と対応力。方向性はまるで違う。でも、どちらも使い方次第では十分に戦える力だ。
さて、最後は僕の番か。僕は二人を見てから、自分を指差した。
「僕は定義」
二人の視線が、こちらへ向く。
「限定的な書き換えだよ。対象や範囲を指定して、そこに別のルールを設定する」
「前に見たやつですね」
「そう」
「実際に見せてくれないの?」
ファニーが期待した顔で僕を見る。僕は少しだけ苦笑した。
「最近使いすぎだから、今はやらないよ」
「えー」
ファニーが露骨に残念そうな顔をする。
「それに、さっきクロードとのやり取りで一回使ったばかりだしね」
肩をすくめる。
「連発すると、体に悪いんだ」
「それは、使いすぎで鼻血や吐血になっている、ということですか」
「……まあ、そういうとこ」
「回復するには、どうするのですか」
「時間を空ければね」
「……そうですか」
短い返事だった。あの顔は、納得していない。実際のところ、この異能を使い続ければどうなるのか、僕にも正確なことは分からない。
ただ、最近は少し違う。
意識が途切れる。吐血も増えた。それから、一度だけ鏡に映らなかった。
……ちょっと、まずいよねぇ。
「でも、すぐにどうこうなる話じゃないよ」
僕は肩をすくめる。
「ちゃんと休めば戻るし、今のところ問題ない」
「……本当に?」
ファニーが不安そうに聞く。
「うん」
笑って答える。
「たぶんね」
「たぶん、ですか」
シエルの眉が寄った。
「まあ、僕にも分からないことはあるよ」
僕は軽く笑った。本当のところ。いつか消えるのかもしれない。
それなら、それでいい。
ただ、今すぐ消えるのは困る。二人が来たばかりだし、突然僕がいなくなれば、二人はきっと困るだろう。
生活費くらいは残しておいたほうがいいかな。金庫に現金を入れて、ナンバーロックの番号を紙に書いておく。家賃や光熱費の支払い方法も、まとめておこう。
うん。そのくらいは、準備しておいてもいいかもしれない。
「……何?」
気づけば、二人がこちらを見ていた。
「いや」
シエルが額を押さえる。
「あなたは、もう少し自分の心配をしたほうがいいと思います」
「してるよ」
「今の話を聞く限り、まったくしていません」
「してるって」
僕は笑う。
「二人が困らないように考えてるんだから」
「それは自分の心配とは言いません」
「そうかなぁ」
ファニーが、困ったように僕を見る。
「……消えないでよ?」
その言葉に、少しだけ胸が詰まった。
「大丈夫」
僕はいつものように笑った。
「まだ、消える予定はないから」
ファニーは何か言いたそうにしていたけれど、結局何も言わなかった。シエルも、それ以上は追及しなかった。
代わりに、三人でもう一度正面の的を見る。赤い光を纏ったファニー。 青白い術式を展開するシエル。 そして、何も見せていない僕。同じ異能者でも、力の形はまるで違う。
ファニーは感情で前へ進む。シエルは理屈で形を作る。僕は、そこにあるものの意味を書き換える。
まだ、この二人のことはよく知らない。どういう人間なのか。どこまで一緒にやれるのか。これから何が起こるのか。分からないことばかりだ。
それでも、今、僕たちは同じ場所に立っている。三人分の力が、同じ空間にある。
……良いかもね。
僕は二人を眺めながら、そんなことを思った。
「今は休む時間だからね」
そう言って、僕は二人に笑いかけた。
一階に戻ると、壁に立てかけられた看板が目に入る。以前から変わらない、あの文字。
――境界堂。
看板に目をやってから、僕は二人を見た。
「では、改めて」
ファニーとシエルが、こちらを向く。
「二人とも、境界堂へようこそ」
ファニーが看板を見上げる。
「境界堂……」
「前から、この名前だったんですか?」
シエルが尋ねる。
「うん。僕がここを始めた時からね」
「なんか強そう!」
ファニーが嬉しそうに言う。シエルも、看板を眺めながら頷いた。
「概念的にも正しいですね。俺たちの立ち位置そのものです」
「そうだね」
僕は小さく笑った。ずっと一人だった場所に、二人がいる。それだけで、同じ看板なのに少し違って見えた。
「……そういえば」
ふと思い出して、二人を見る。
「君たちって、成人してる、よね?」
「十八歳だよ!」
ファニーが即答した。
「同じく」
シエルも頷く。
「良かった」
僕はほっと息を吐いた。
「未成年かもしれないって、一瞬思ったんだ」
「……え?」
ファニーの顔が固まる。
「それ、私がおこさまに見えるってこと!?」
「いや、そういう意味じゃ」
「じゃあ、どういう意味!?」
「……俺もですか」
シエルまで眉を寄せる。
「いや、君は……」
言いかけて、やめる。二人の視線が痛い。
「……さーて」
僕は露骨に視線を逸らした。
「今ある依頼、何だったかなぁ」
「話を逸らした!」
「逸らしましたね」
「してないよ」
「してる!」
「してます」
二人の声が重なった。僕は聞こえないふりをして、机の上の依頼書を探し始めた。
境界堂としての日々は、思ったよりすぐに動き出した。
翌日には、最初の依頼が舞い込んだ。近所の空き家に出る小さな地縛霊。
「初仕事!」
ファニーが張り切って、結局は感情が高ぶりすぎて壁に穴を開けた。
「弁償だね」
「えぇ……」
三日後には、公園のベンチにまとわりつく小さな怪異。
シエルが慎重に構築で対処し、ファニーが横から茶々を入れ、僕は依頼人への説明を担当した。
役割は、自然と分かれていった。
一週間もすると、事務所の空気はすっかり馴染んでいた。
ファニーが台所を仕切るようになり、シエルは依頼書を几帳面に整理するようになった。
僕は、というと。二人の様子を眺めている時間が、少しだけ増えた気がする。
「最近、平和だね」
ファニーが伸びをしながら言う。
「怪異は途切れないよ」
「そういう意味じゃなくて」
彼女は窓の外を見た。
「なんか、落ち着いてきたなって」
その言葉に、シエルが小さく頷いた。
「異論はありません」
僕も頷いた。平穏というものが、こんなに簡単に手に入るとは思っていなかった。
――それが、まだ続くと思っていた。




