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2話


雨は、いつの間にか止んでいた。事務所の窓に、朝の光が薄く差し込む。


少年はまだ壁際に座ったまま、僕を見ていた。

警戒は解けていない。ただ、昨夜よりは幾分か、肩の力が抜けている気がした。


「……なぜ助けたんですか。対価は、何だったんですか」


僕はカップを置いた。


「対価は僕が払った。君たちが払うものじゃない」

「質問に答えていません」


鋭い。やっぱり、耳がいい。


「理由が知りたい?選んだから、としか言えないねぇ」


少年の眉が寄る。納得していない顔だった。それでも、それ以上は追及してこなかった。


沈黙が落ちる。気まずさとは少し違う、様子見の間だった。


僕は先に名乗ることにした。


「マスターだ」

「……は?」

「名前。マスターでいい」


少年が僕を見た。銀色の長い髪を一つに結んだまま、青い瞳だけがこちらを値踏みしていた。本名かどうかを疑っている。


――正解だ。


少年は、それ以上は聞いてこなかった。少しの間があって、ぽつりと返ってきた。


「……シエルです」


それだけだった。苗字も、年齢も、何も付け加えない。必要最低限。渡していい情報の線引きを、自分でしている顔だった。


「よろしく、シエル」


返事はなかった。ただ、視線だけが少しだけ和らいだ気がした。


少女が名乗ったのは、その二日後だった。体力が戻り始めて、台所を覗きに来るようになった頃。


「……あの」


おずおずと、声がかかる。


「何?」

「まだ、名前……聞いてなかったので」


シエルの時とは、温度が違った。警戒より先に、遠慮が滲んでいる。


「マスターだよ」

「……ファニー、です」


小さな声で、それだけ言った。言い終えた後、金髪のツインテールが揺れるくらい俯く。ピンクの瞳が、僕を見ないようにしていた。


名乗ることに慣れていないのか、それとも、名乗ることそのものが久しぶりなのか。どちらなのか、僕にはまだ分からなかった。


「よろしく、ファニー」


こくり、と小さく頷く。シエルのぶっきらぼうな一言とは違う、素直な名乗りだった。


警戒の強さも、示し方も、二人はまるで違う。それでも、どちらも同じだけ、簡単には踏み込ませない何かを抱えている。


名前を交換しただけだった。それだけのことなのに、事務所の空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。



三日が経った。

距離は二メートルのまま。


ファニーは僕の渡した毛布を、洗って乾かしても抱え直す。無理もない。知らない男の家で寝ろと言われれば、僕だって同じことをする。


「ここにいる間のルールを決めようか」


指を三本立てる。


「外に出るなら僕に言う。無理をしない。僕の部屋には入らない」

「監視、ですか」


シエルが睨む。


「保護だよ」

「……管理と、何が違うんですか」


その一言が、妙に重かった。


「君たちが出ていくなら、止めないよ」


選ぶのは僕じゃない。それだけは最初から決めていた。


二人は出ていかなかった。体力も戻っていない、追手も怖い。きっとそれだけだ。



七日目。

距離は一メートルになっていた。


ファニーが台所を覗きに来る。シエルは書棚の背表紙を、指でなぞるようになった。まだ、どちらも笑わない。


夜、シエルが聞いた。


「なぜ、匿うんですか」

「選んだから」

「見返りは」

「今のところ、ないよ」


嘘ではない。全部を話していないだけだ。

ファニーが小さく聞いてきたのは、その少し後だった。


「……信じてもいい?」


少し考えて、答えた。


「信じなくていい。疑いながら、ここにいればいい」


信用は、急いで作るものじゃない。


その夜の食事、いつもは離れた場所に座る二人が、気づけばテーブルを挟んで向かい合っていた。


二メートルあったはずの距離が、一メートルほどに縮まっている。誰も、そのことには触れなかった。


それが、最初の変化だった。



一週間ほどで、食料がほとんど底を尽きた。


二人とも、驚くほどよく食べるようになっていた。

回復してきた証拠だと思えば、悪くない兆候だった。


買い出しに行くと告げると、シエルが「俺も」と言いかけた。


「留守番、頼めるかな」


シエルの眉が寄る。


「……なぜですか」

「二人とも家を空けるのは、まだ怖い」


一瞬の間があって、シエルは頷いた。納得はしていない顔だったが、それ以上は食い下がらなかった。代わりに、ファニーが手を挙げた。


「私、行く」

「一人にはさせないよ」

「一人じゃなくて、一緒に行くの」


ファニーが胸を張る。


「私、走るの得意だし! もし機関が来ても捕まらないよ!」


その自信がどこから来るのか分からなかったが、悪い提案ではなかった。荷物運びの人手にもなる。


「じゃあ、一緒に」


外は、久しぶりに晴れていた。


買い出しは、思ったより時間がかかった。米、卵、野菜。ファニーが一つずつ選ぶのを、僕は少し離れたところで見ていた。迷う顔も、悪くないと思った。


帰り道、路地に差し掛かったところで、足が止まった。


気配が濃い。


「……マスター?」

「下がって」


声を落とす。

角の向こうから、複数の足音。


「保護対象を渡せ」


機関の現場部隊。数は五。


――まだ、現場には話が通っていないらしい。


上との合意と、末端の動きの間には、いつも時間差がある。


「断るよ」


短い沈黙。それから、包囲の輪が狭まってくる。

荷物を持ったまま、僕は考えを巡らせた。


「この路地は、三十秒だけ盲点になる」


定義を口にした瞬間、頭の奥が軋んだ。僕たちの輪郭が曖昧になる。


「ファニー、僕の後ろに――」


言い終わる前に、ファニーが動いた。


「私が引きつける!」

「待――」


制止の声が、間に合わなかった。

ファニーが荷物を放り出し、包囲の反対側へ駆け出す。


「こっちだよ!」


盲点の効果が、二方向に割れた。数人の視線が、ファニーへ流れる。


「――っ、しまった」


定義は、僕とファニーの両方をまとめて隠せるほど広くない。ファニーの姿を追って、包囲の一部が崩れる。残った視線が、僕に向く。


まずい。


「くそっ」


僕は舌打ちして、ファニーが消えた方向へ走った。角を曲がると、ファニーが行き止まりで足を止めていた。囲まれている。機関の制服が、じりじりと距離を詰めていた。


ファニーの顔から、血の気が引いている。それでも、逃げ道を探して目だけが動いていた。


「マスター……!」

「今行く!」


僕は息を切らして駆け込んだ。


「この場の敵意は、五秒だけ空振る」


定義を重ねた瞬間、内臓が締め付けられるような痛みが走った。喉の奥に、鉄の味がこみ上げる。彼らの視線が、一瞬だけ、僕たちを通り抜けた。


「走って!」


ファニーの腕を引く。包囲の隙間を、二人ですり抜けた。誰も、こちらを見ていない。


それでも、油断はできない。五秒は、あっという間だ。


一つ目の角を折れる。まだ、足を止めない。

二つ目の角を折れたところで、背後がざわついた。


「……見失った!?」

「捜せ!」


定義が切れた合図だった。けれど、もう遅い。

路地の入り組んだ先、追手の声が遠ざかっていく。何本か角を折れて、ようやく足を止めた。


息が上がっている。隣で、ファニーも肩で息をしていた。顔が青白い。


「――何やってるんだ」


声が、思ったより低く出た。ファニーが、びくりと肩を震わせる。


「……引きつければ、二人とも逃げられると思って」

「僕の判断を待てって言っただろう」

「でも、あのままだと――」

「僕が決める」


語気が強くなったのが、自分でも分かった。

ファニーが、俯く。


「……ごめん」


小さな声だった。


僕は息を吐いて、少し落ち着かせた。


「怒ってるんじゃない」


本当は、少し怒っていた。それ以上に、怖かった。


「……次は、ちゃんと待って」


ファニーが、こくりと頷いた。それから、少しだけ笑った。


「でも、捕まらなかったでしょ」

「結果論だよ」


言った直後、喉の奥から込み上げるものがあった。咳き込む。口元を押さえた手のひらに、赤いものが広がった。


「――っ、マスター!?」


ファニーの声が裏返る。


手のひらを見て、それから、拳でぐいっと口元を拭った。赤が、袖に移る。


「大丈夫」


息を整えながら、なんとか言った。


「少し、使いすぎただけ」


ファニーの青白かった顔から、更に血の気が引いていく。


「……私のせいだ。私が勝手に走ったから」


今にも泣きそうな顔だった。


「違う」


できるだけ、いつもの声を出した。


「僕が、判断を誤っただけだよ」

「でも……」

「ほら」


軽く肩を叩く。


「歩けるかい。帰ろう」


ファニーは何度も涙をすすりながら、それでも僕の隣を歩き続けた。



事務所の扉を開けると、シエルがすぐに顔を上げた。本を読んでいたはずなのに、視線の動きが早すぎる。


待ち構えていたな。


「……遅いですね」


短い一言だった。それだけで、責められているのが分かった。手ぶらで帰ってきたことに、シエルはまだ気づいていないようだった。米も、卵も、路地に置いてきたままだ。


「買い出しに、時間がかかっただけだよ」

「嘘、ですよね」


シエルが立ち上がる。つかつかと歩み寄って、僕の顔を覗き込んだ。


「……血の匂いがします」


鼻がいい。耳がいいだけじゃなかったらしい。


「ちょっと、無理をしただけだよ」

「どこか怪我を?」

「怪我じゃない。中の話」

「……中、ですか」


声のトーンが、明らかに変わった。そこでようやく、シエルの視線が僕の手元に落ちた。


「……荷物は」

「路地に、置いてきた」


一瞬の沈黙。


「囲まれたんですか」


察しが早い。これ以上誤魔化すのは、無理そうだった。


「路地で、機関に囲まれた」


シエルの目つきが変わる。


「詳しく、聞かせてもらえますか」


仕方なく、路地での顛末を話した。話すうちに、シエルの表情がどんどん険しくなっていく。話し終える頃には、腕を組んで、ファニーを見ていた。


「……あなたは」

「ご、ごめん」


ファニーが、身を縮める。


「一人で突っ込むのは、やめてください。前にも言ったはずです」

「言ってない」

「いいえ、言いました」


それでも、ファニーは言い返さなかった。シエルの声に、怒りより焦りが滲んでいたからだと思う。


シエルが、今度は僕へ向き直った。


「なぜ、止めなかったんですか」

「止めようとしたよ。間に合わなかった」


「間に合わせてください」

「善処するよ」


「本気で言っていますか」

「半分くらいは」


シエルが、大きく息を吐いた。苛立ちを飲み下すみたいに。


「……次からは、俺も同行します」

「危険が増えるだけだよ」

「一人より、三人の方がまだマシです」


妙な理屈だった。それでも、間違ってはいない気もした。


「考えとくよ」

「即答してください」

「即答は苦手なんだ」


シエルが、小さく息を吐いた。それ以上は、言葉にしなかった。ただ、僕の顔をもう一度じっと見た。視線が、口元で止まる。


「……血の跡が、残っています」


拭ったつもりだったのに、まだ残っていたらしい。指でこすると、乾きかけた感触があった。吐血自体は、もう止まっている。けれど、内臓の奥にはまだ鈍い痛みが居座っていた。


――思ったより、長引いてる。


使いすぎたぶん、戻りが遅くなっている。それを、顔には出さないようにした。


「少し、遅いな」


独りごちる。


「何がですか」

「なんでもないよ」


軽く笑って誤魔化した。


本当は、もう遅れが出ている。それだけは、言わなかった。




■シエル視点・深夜


ガタッ。

ごとり。


物音で目が覚めた。隣の部屋からだ。何かが倒れる音。


ファニーも同時に起きたらしく、暗がりの中で目が合った。無言のまま、二人でマスターの部屋の前まで駆けつける。


「マスター?」


ノックするが、返事がない。


「おかしい」

「……行こう」


一瞬の逡巡のあと、扉に手をかけて押し開けた。


床に、マスターが倒れていた。デスク灯の下向きの光だけが、その姿を照らしている。ピクリとも動かない。


「マスター!」


倒れた椅子を退かし、散らばった書類を踏まないよう避けながら、二人で駆け寄った。


意識が、無い。


「担ぐぞ」

「うん!」


二人で両脇を抱えて、ベッドへ運ぶ。成人男性一人分の重さがのしかかる。体は焼けるように熱く感じた。息は浅く、速い。繰り返される荒い呼吸がやけに耳についた。


何とかベッドまで運んで横たえた。


「……死なないよね」


ファニーの声が震えていた。


「死なせない」


考えるより先に、口が動いていた。


「濡れタオル、持ってくる」


ファニーが部屋を飛び出していく。足音が、廊下を遠ざかっていく。


薄目を開けたマスターが、俺を見て小さく呟いた。


「……ルール違反だよ」

「……うるさい」


初めて、対等に喋った気がした。


水を含んだ音が、廊下から近づいてくる。ファニーが戻ってきた。洗面器から絞ったタオルを、マスターの額にそっと乗せる。


その間、俺は床に散らばった書類を拾おうとして、手が止まった。


一枚だけ、様子が違う。


几帳面な記録の羅列じゃなく、殴り書きだった。

日記、というより、自分への注意書きに近い。


《最近連発してるから、意識の途切れる頻度が上がっている。減らさないと》

《吐血、増えた。前より早い段階で出る。慣れてきたわけじゃなくて、多分逆》

《今日、鏡に一瞬映らなくなってた。数秒だけ。誰にも言ってない》


そして、最後の一行。


《自分に関する定義は禁止》


「……なぜですか」


問い詰めると、マスターは息を整えてから、笑おうとした。


「それ……面白くないよ」


声が、掠れている。


「自分を固定すると……未来が、詰むってだけ」

「どこまで削る気ですか」

「必要な、分だけ」


言葉の合間に、浅い呼吸が挟まる。


「鏡に映らなくなっている、と書いてありました」


一瞬、間があった。


「……ああ」


息を吸う。


「あれ、ね」


軽い口調を作ろうとしているのが、余計に痛々しかった。目だけが、少し逸れる。


「分かって、るんだけどね」


それだけ言うのに、何秒もかかった。説明も、言い訳もない。分かっているのに、止めていない。その事実が、記録よりずっと重く響いた。


それを聞いたファニーが、次のタオルを握ったまま声を荒らげた。


「じゃあ必要なくす!」


怒っていた。怖がっていた。このまま黙って見ていたら、いつかこの男は勝手に消える。それを、ファニーは分かっていた。


俺も、同じことを思っていた。

だから聞いた。


「……なんで守るんですか」

「なんでかな」


少し間があった。息を整えるための間だった。


「似てると、思った」

「どこがですか」

「追われ方」


一拍、置く。


「悪くないのに……危険ってラベルを貼られて、管理される感じ」

「……あなたも、そうだったんですか」

「昔ね」


それ以上は、話さなかった。


「所有される側の、顔は分かる。あと……雑炊を食べたときの、顔もね」

「見てたの!?」

「同情ですか」


俺が聞くと、首を振った。弱々しく、それでもはっきりと。


「違う。選択」


守ると決めた、と言った。

理由は後から考えればいい、とも。


そこまで言い切って、マスターは目を閉じ意識を手放したようだった。無理をして喋っていたのだろう。


俺とファニーは、ベッドの脇に座り込んだまま、しばらくその顔を見ていた。


何度か、タオルを替えた。

何度か、額に触れて熱を確かめた。


少しずつ、呼吸が落ち着いていく。熱も、引き始めている気がした。それを確認して、ようやく肩の力が抜けた。


気づけば、窓の外が薄明るくなっていた。そのまま、いつの間にか眠っていたらしい。目を覚ますと、肩に毛布がかかっていた。隣で丸くなっているファニーにも、同じように毛布がかけられている。


階下から、物音がした。


包丁の音。

鍋の湯気の匂い。


階段を降りると、マスターが普段通りに立っていた。昨夜倒れていたのが嘘みたいに、いつもの朝食を作っている。


「……もう平気なんですか」

「うん。少し寝れば戻るよ」


振り返りもせずに答える。まるで、大したことじゃなかったみたいに。


危なっかしい生き方だと思った。

それでも、嫌いにはなれなかった。




■マスター視点


数日後、今度は三人で買い出しに出た。


「今日は俺も行きます」


シエルが、当然のように先を歩く。


「置いてかれるの、もう嫌だから」


ファニーも隣に並ぶ。

路地は避け、大通りだけを歩いた。商店街の途中、屋台の甘い匂いに、ファニーの足が止まった。


「……クレープ」


物欲しそうな目が、こちらを向く。


「一つだけね」

「やった!」


チョコクレープを三人で分けた。ファニーが半分以上を平らげ、残りをシエルと僕で半分こする。

甘さが、思ったより染みた。


「……甘いもの、久しぶりだ」


シエルがぽつりと呟く。珍しく、素直な感想だった。


米も、卵も、今度はちゃんと事務所まで持ち帰った。空っぽに近かった棚が、少しずつ埋まっていく。


それだけのことが、妙に嬉しかった。



少し落ち着いた午後に、封書が届いた。差出人を見た瞬間、指先が冷たくなった。機関からだった。


中身は、想像していたものとは少し違った。シエルとファニーが戻るなら、僕への追及は打ち切る、と書いてある。僕にではなく、あの二人に宛てて。


僕を人質のように使うつもりらしい。

二人が「マスターのために」と自分から出ていくよう、仕向けるつもりだったんだろう。


くだらない。


僕は紙を握り潰した。その物音に気づいたのか、ファニーが顔を出す。少し遅れて、シエルも書斎から出てきた。本を片手に持ったまま、様子を窺うような目をしている。


「……何、それ」

「機関から」

「……私たちに?」


握り潰した紙を見て、すぐに察したらしい。


「君たちが戻れば、僕への追及はやめる、って。君たちにだけ、宛ててきた」


ファニーの顔が強張る。シエルは何も言わず、少し距離を詰めてくる。


「……それ、私たちのせいで、あなたが狙われてるってこと?」


聞く声が、震えていた。


「そうなるね」

「――なら」

「決めるのは、君たちだ」


まだ言い終わっていないファニーを遮って、先に言った。これを僕が決めたら、意味がなくなる。

紙の皺を伸ばし、テーブルに置き直す。


二人が、顔を見合わせる。沈黙が落ちた。先に口を開いたのは、ファニーだった。


「……あなたは、戻ってほしいの?」

「思ってない」


それから、少し付け足す。


「僕のことで、君たちが自分を差し出す必要はない」


シエルが、本をテーブルに置いた。


「……あなたも、追われた側だ」

「昔のことだよ」


ファニーが一歩、近づいてくる。


「私たちを、道具にしない?」


まっすぐ、目を見て聞いてきた。


「しない」


少し早すぎたかもしれない。自分でも、そう思う返事だった。


ファニーが、少しだけ笑う。


「……もうちょいここにいる」


シエルも、腕を組んだまま頷いた。


「暫定滞在継続」


「光栄だ」


僕は笑った。

封書を更に小さく握り潰し、ゴミ箱に放る。


逃げる理由なら、二人にはまだいくらでも残っているはずだった。それも今度は、僕を人質にしてまで。


それでも、二人は動かなかった。


疑いながら、それでも、ここにいる。

その事実だけが、少しずつ僕の中に積もっていった。


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