1話
僕はいつものように窓辺に立ち、何かを見ているようで何も見ていない時間を過ごしていた。
すべては計算通りだ。
あの二人が追手を撒き、ギリギリのタイミングでここに滑り込むよう、ルートも時間も裏から手を回してある。感情を排除し、最適解だけを導き出した計画。失敗するはずがない。
――なのに、胃の奥が、じりじりと焼けるように熱かった。
人間関係に疲れ果て、いつからか感情のスイッチは切ってしまったはずだった。それなのに、すり減って薄くなった心の隙間から、「もしも」という最悪のノイズが這い上がってくる。
僕は小さく息を吐き、冷たい窓ガラスに額を押し当てた。
熱を持った思考を、強引に冷ますように。
そこへ、二つの影が近づいてくるのが見えた。
少女と少年。背後には追う気配がある。
「……間に合うかな」
呟いた直後、扉が開いた。
二人が転がり込んでくる。
冷たい雨に濡れた身体が、事務所の乾いた空気に包まれた。
少女の肩から、ふっと力が抜けた。呼吸が乱れたまま、何かを言おうと唇が動く。けれど、声にはならない。そのまま、床へ崩れ落ちた。
少年は違った。最後まで僕を睨んでいる。荒い呼吸の合間にも、出口と僕を交互に見ていた。逃げ道を探している。まだ終わっていないと思っているらしい。
僕は少し笑った。
「待っていたよ」
少年の目が眼鏡の奥で細くなる。
「……頑張ったね」
その言葉を聞いた瞬間、少年の顔が歪んだ。悔しそうに唇を噛む。
「……図ったな……」
それだけ言って、少年も崩れ落ちた。
僕は二人を抱き上げた。軽すぎる。
毛布をかけ、火を起こす。台所には、米と塩を用意してある。まともに食べていない身体に、いきなり肉や油ものを入れるのは重い。今は胃を驚かせない方がいい。
まずは米と塩。柔らかく煮て、少しずつ。
空腹では、未来は選べない。
二人が眠っている間に、できるだけ温かいものを作っておこう。
計画通りだ。
僕が用意した道を通って、二人はここへ来た。
そして、予定通り生きている。
それなのに、胸の奥に妙な熱が残っていた。
そのとき、机の上に置いていた無線機から声が漏れた。
『対象F-07、C-03、ロスト』
番号呼びは、昔から好きじゃない。
僕は無線機に指を触れた。
「この通信を、辿れるものとして定義する」
ノイズの向こうに、一本の線が伸びた。
追う。
街の向こうへ。
「……やっぱり機関か」
外にはまだ追手がいる。その先には機関がいる。ここへ逃げ込んできた時点で、僕ももう無関係じゃない。
なら、こちらから話をつける。
僕はスマホを取り出し、表示された番号へ発信した。
三コール。
「やあ、久しぶり。拾ったよ」
窓の外で稲光が走る。
「引き渡す気はない。代わりに取引をしよう」
僕の要求は単純だった。
干渉されないこと。
相手が渋る気配に、僕は笑った。
「拒否?それも、定義できるよ」
言葉を置いた瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。同時に、電話の向こうから息を呑む音が聞こえる。
『――っ、何を』
低い声が途切れた。
僕は意識を伸ばす。目の前の相手が持つ「僕たちを回収する」という認識に触れる。そこへ別の定義を重ねる。回収する必要はない。
一瞬だけ、相手の思考が揺らいだ。
『待て、これは』
荒い呼吸。喉を鳴らす音。
僕の鼻の奥にも、嫌な熱が広がった。ぬるいものが唇まで流れてくる。
血だ。
まだ押し込める。もう少しだけ踏み込めば、相手の認識そのものを塗り替えられる。
けれど、僕は手を止めた。
「冗談さ。まだね」
定義を解く。電話の向こうで、激しく息を吐く音がした。
『はぁっ……はぁ……』
しばらく、言葉が返ってこない。沈黙が、さっきまでの威圧よりも雄弁だった。
僕は鼻血を指で拭った。
「だから、取引にしよう」
今度は向こうも、素直に聞く気になったらしい。
それで話はまとまった。これで僕は完全に外側だ。学園でも機関でも逃亡者でもない、第三勢力となった。
通話を切り、僕はそのまま椅子に腰を下ろした。ティッシュを一枚取り、鼻を押さえる。まだ少し血が出る。
「……使いすぎたかな」
独り言をこぼしてティッシュを丸め、机の上のコーヒーを手に取り、一口飲む。苦い。いつもの味だった。
そのとき、静寂を破ってぐう、と情けない音が響いた。自身の胃が上げた悲鳴に促されるように、少年の瞼が動く。
目が開いた瞬間、視線が走った。出口、窓、僕との距離、武器になりそうなもの。一瞬で確認していく。
……なるほど。その動きだけで、どういう場所で生きてきたのかが分かる。
それから少年は僕を見た。椅子に座ってコーヒーを飲んでいる、無防備な男を。
僕はカップを置いた。
「おはよう。死んでないね」
「……取引、したな」
耳がいい。
少年は僕から視線を外さないまま、部屋の中を見回した。それから、隣で倒れたままの少女。
少年が少女の肩を揺する。
「おい。起きろ」
少女が小さく呻いた。何度か瞬きをして、ようやく目を開ける。
「……ここ……?」
「立てるか」
「……うん……」
返事とは裏腹に、身体にはほとんど力が入っていない。
少年が少女の腕を肩に回す。少女も少年に身体を預け、二人で支え合うようにして、なんとか立ち上がった。
それでも少年は僕を睨んでいる。
「俺たちを、売ったのか」
「売ってない」
僕はカップを置いた。
「ただ、“触らせない”約束をさせた」
二人の瞳が揺れる。
「……取引、したんだな」
「そうだよ」
「代償は」
「僕が外側に立つこと」
少年の表情が変わった。
「……あなた一人が、標的になる」
「慣れてる」
軽く答えすぎたと思った。
その直後だった。
『こちらは機関の執行部隊だ!』
外から拡声器の声が響く。
『中にいることは分かっている!対象を引き渡せ!』
窓ガラスがびり、と震えた。
『匿うなら、建物ごと制圧する!』
少女の身体が強張る。少年も反射的に少女を庇うように前へ出た。
僕は立ち上がった。
「来るのが早いね」
玄関へ向かう。
「何をする」
「約束を守る」
玄関ドアの前で足を止める。扉に手をかざした。
「定義」
指先から、見えない何かが広がっていく。
「この事務所は、彼らにとって“不可侵領域”である」
言葉が現実に食い込んだ。
窓ガラスの細かな振動が止まる。扉の向こうから押し寄せていた気配が、そこで途切れた。外と内。その境目に、ひとつの規則が生まれる。
ここから先には、入れない。
『何をした!』
拡声器越しの声が響く。僕は扉を見つめたまま答えた。
「君たちの上には、もう話を通してある」
一拍。
「その二人には手を出さない。僕にも干渉しない」
「だから、退け」
自分でも驚くほど低い声が出た。いつもの僕なら、もっと穏便な言葉を選ぶ。
でも今は違う。この二人を引き渡す気はない。それを、向こうにも理解させる必要がある。
「次にここへ来るなら、今度は“警告”では済まさないよ」
言い終えた瞬間、また鼻の奥に嫌な熱が集まった。
今度は、それだけでは済まなかった。視界が滲む。目尻にぬるい感触が走った。頬を伝ったものを指で拭う。
赤い。血か。
返事はない。代わりに、小声で何かを確認し合う声が聞こえた。
「上から話が通っていると言っていた」
「だが、あの定義は」
「分かっている」
短い沈黙のあと、震えた声が響いた。
「撤収する」
足音が遠ざかっていく。一人、二人。やがて、気配そのものが路地の向こうへ消えた。
僕は頬を伝う血を親指で拭った。
「……今日は、よく出るな」
背後を見る。少女はまだ少年に支えられている。少年は僕を見ていた。さっきまでとは違う目で。
恐怖。警戒だけではない。目の前にいる人間が、自分たちを追ってきた連中よりも危険かもしれないと理解した目。
「……なに、今の」
少女が小さく呟いた。
「軽い固定だよ」
僕は笑う。
少年の視線が、僕の目尻に残った赤へ移る。
「上限があるけどね」
「超えれば?」
「帳尻が来る」
それ以上は言わなかった。言葉にする必要もない。その瞬間、視界が真っ白になった。
「……っ」
身体が傾く。壁に手をついた。指先に力を込めて、どうにか立っている。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
「軽い貧血」
半分だけ本当だ。
少女と少年は何も言わない。ただ、僕を見ている。まだ信用されていない。
それでいい。信用なんて、急いで得るものじゃない。ましてや、こんな姿を見せた直後ならなおさらだ。
僕は壁から手を離した。
「さて」
できるだけ、いつもの声を出す。
「雑炊、冷めるよ」
二人はすぐには動かなかった。少女は少年に身体を預けたまま、僕を見る。少年は僕と雑炊を交互に見ていた。
「毒は入ってないよ」
「……信用できると思うか」
「思わない」
即答すると、少年が少しだけ眉を寄せた。
「だから、信じなくていい」
僕は二つの器をテーブルに置いた。
「食べるかどうかは、君たちが決めればいい」
それだけ言って、僕は椅子に戻った。
少女が少年を見た。答えを求めるように。
少年は、雑炊と僕を交互に見ていたが、やがて小さく頷いた。
毒味の許可、というつもりらしい。
しばらくして、少女の手が器へ伸びた。両手で包むように持ち上げる。湯気が顔にかかる。
一口。
熱かったのか、少女がほんの少し目を細めた。それから、ぽろりと涙が落ちた。
「……あったかい」
その声は、ひどく小さかった。
少年はまだ動かない。器を見て、僕を見る。また器を見る。
五分。十分。
ようやく匙を手に取った。ほんの一口だけ口に運ぶ。噛む必要もないほど柔らかく煮た米が、喉を通っていく。少年の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
僕は見ないふりをした。コーヒーを傾ける。とっくに冷めていたが、いつもより飲みやすい気がした。
器が空になる頃には、二人ともうとうとし始めていた。極度の疲労と安堵が重なったのだろう。糸が切れたように、瞼が落ちていく。
ファニーは器を持ったまま船を漕ぎ、シエルも壁にもたれて、そのまま寝息を立て始めた。まるで、気絶するような眠り方だった。
僕は空になった器を片付け、二人に毛布をかけ直した。
窓の外では、まだ雨が降っている。二人はまだ、僕を信用していない。僕も、二人のことを何も知らない。名前すら知らなかった。
知っていたのは、二人が追われているという事実だけだった。素性も、事情も、後から知ればいい。
追われている人間を、放っておけなかっただけだ。
それでよかった。
少なくとも、あの日の僕には。
今なら分かる。あの日、僕が渡したのは雑炊だけじゃなかった。二人が自分で選べる場所を、ほんの少しだけ作ったのだ。
……たぶん。
あの頃の僕は、そこまで考えていなかったけれど。




