ACT 7 : 500個のグラス
[作成]
「旅は、いつも一つの別れから始まる。」
「誰かが去りたいと思ったからではない……」
「……ただ、それぞれの歩みが、異なる方向へと呼ばれているからだ。」
「そこに残ることを選ぶ者もいる。」
「歩き続けることを選ぶ者もいる。」
「そのどちらも、間違いではない。」
「なぜなら、誰もが……」
「……自分が辿り着きたい地平線を持っているからだ。」
「別れは、しばしば痛みを伴う。」
「まるで何かを失ってしまったかのように。」
「だが……」
「……本当に失われたのは、毎日顔を合わせる機会だけなのだ。」
「思い出は残る。」
「祈りは寄り添い続ける。」
「そして希望は……」
「……勇気を持って歩き出した者たちと、いつまでも共に歩いていく。」
「もしかすると……」
「……いつの日か。」
「彼らが想像したこともない場所で。」
「かつて別れたすべての歩みが……」
「……再び交わるのかもしれない。」
「同じ空の下で。」
【カルボン時代 | 283年 | 9月16日 | 04:14】
バスは雲海の上を静かに走っていた。
エンジンが低く唸っている。
ブゥゥゥゥゥゥン……
車内では……
数人の乗客が本を読んでいる。
コーヒーを楽しんでいる者もいる。
夜通し働いたあとで眠っている者もいた。
最後尾の席には……
黒いローブを纏った二つの人影が、背もたれに寄りかかって座っていた。
フードが顔全体を覆っている。
二人とも深い眠りについていた。
穏やかな空気が漂っている。
しかし……
雲の向こうから。
ブロロロロロロロロッ!!
三台の黒い飛行車が猛スピードで接近してきた。
バスの運転手が目を見開く。
「正体不明の車両です!」
バキィィィン!!
一台の車がバスの側面へ激突した。
窓ガラスが一斉に砕け散る。
十数人の覆面姿の男たちが飛び込んできた。
「全員伏せろ!」
「貴重品を出せ!」
「頭を上げるな!」
車内に悲鳴が響き渡る。
数人の警備員が即座に武器を抜いた。
「奴らを止めろ!」
バン!
バン!
バン!
たちまち銃撃戦が始まった。
弾丸が飛び交う。
反乱者たちは座席の陰へ身を隠す。
一人の警備員が二人を倒すことに成功した。
しかし……
反乱者のリーダーは、まだ眠っているローブ姿の一人を引きずり出した。
ズッ!
額に銃口を押し当てる。
「動くな!」
「こいつを殺すぞ!」
警備員たちは一斉に動きを止めた。
空気が凍りつく。
反乱者のリーダーは満足そうに笑った。
「さて……」
「これでどう……」
言葉を言い終えるより先に……
ローブ姿の人影が、ゆっくりと目を開いた。
「……ん?」
そして……
ドガッ!!
片膝が、その股間を正確に直撃した。
「ングゥゥゥゥアアアアアア!!」
反乱者のリーダーはその場に膝をついた。
銃が手から滑り落ちる。
ローブ姿の人物は、見向きもせずに銃を掴んだ。
パシッ!
そして銃把で顔面を殴りつける。
バキィ!!
リーダーはその場に倒れた。
一方……
もう一人のローブ姿も目を開いた。
小さくあくびをする。
「……うるさい。」
一人の反乱者が背後から襲いかかる。
ヒュッ!!
彼女は僅かに頭を傾けた。
蛮刀が空を切る。
振り向くことすらせず……
左肘が敵の腹部へ叩き込まれる。
ドゴッ!!
まだ終わらない。
身体を回転させる。
ブンッ!!
踵が顎を打ち抜く。
敵は三つの座席を飛び越えて吹き飛んだ。
反乱者たちがパニックに陥り始める。
「クソッ!」
「こいつら何者だ?!」
最初のローブ姿が敵のライフルを拾い上げる。
カチャッ!
「ドン。」
バン!
ライフルが天井へ向けて発砲された。
荷物を固定していたベルトが切れる。
数十個のスーツケースが落下する。
ドサッ!
ガシャッ!
数人の反乱者がスーツケースの下敷きになる。
「痛ぇ!」
「このスーツケース、中身は石かよ?!」
二人目のローブ姿が、開いたバスの扉へ向かって走り出す。
風がローブを激しくはためかせる。
彼女は外へ飛び出した。
「おい!」
全員が驚愕する。
「自殺する気か?!」
しかし……
彼女は飛行車の屋根へ着地した。
ドン!
運転手が目を見開く。
「えっ?!」
ローブ姿がフロントガラスを殴りつける。
バキィィィン!!
そして運転手を車外へ引きずり出した。
「ああああああああ!!」
運転手の身体が空中へ放り出される。
飛行車が制御を失う。
バスの中では……
最初のローブ姿も飛び出した。
二台目の車へ着地する。
ズゥン!!
二人の反乱者が同時に襲いかかる。
シュッ!
彼女は身をかわす。
一人の腕を掴む。
ミシッ!
そしてプロペラへ向かって投げ飛ばす。
ブブブブブブッ!!
プロペラが一瞬で破壊される。
飛行車が激しく回転し始める。
「まずい!」
「まずい!」
「引っ張れ!」
操縦士は制御を失った。
一台目の車が二台目へ激突する。
ドォォォォォォン!!
爆発が空を揺らす。
金属片が四方八方へ飛び散る。
最後の一台が逃げようとする。
しかし二人目のローブ姿が、そのボンネットへ飛び乗った。
一撃の蹴りをエンジンへ叩き込む。
ボォォン!!
黒煙が噴き上がる。
エンジンが完全に停止する。
飛行車は雲を突き抜けながら落下していく。
乗員たちが恐怖の叫び声を上げる。
「ああああああああ!!」
遠くでは……
その車が地面へ激突した。
ドォォォォォォォォン!!
巨大な爆発が空へ立ち上った。
バスの中……
すべての乗客が沈黙していた。
誰一人として声を発しない。
ただ、二人のローブ姿が元の席へ戻って座るのを見つめていた。
そのうち一人がフードを少し持ち上げる。
「……もう寝ていい?」
もう一人が短く頷く。
「……いい。」
二人は再び頭を背もたれへ預けた。
まるで先ほどの戦闘など……
旅の途中に起きた、ほんの小さな邪魔に過ぎなかったかのように。
バスはゆっくりと速度を落としていく。
ブゥゥゥゥン……
窓の外では……
雲海の向こうから、巨大な空中ターミナルが姿を現し始めた。
「天空ターミナルへようこそ。」
アナウンスの声が響く。
「乗客の皆様は、お手荷物のご確認をお願いいたします。」
バスはついに停止した。
プシュー……
扉がゆっくりと開く。
乗客たちが一人ずつ降りていく。
しかし……
ほとんど全員が、先ほどの二人のローブ姿へ振り返った。
「あの二人だ……」
「さっき反乱者を倒した人たち。」
「すげぇな。」
「どう見てもベテランだ。」
何人かの子供たちは、二人へ手を振っている。
ローブ姿の一人は、ただ静かに頷いた。
やがて……
二人はターミナルの公衆トイレへ向かって歩いていった。
カチッ。
扉が閉まる。
空気が一気に静まり返った。
最初の人物がフードを脱ぐ。
乱れた黒髪が露わになる。
Rionが長く息を吐いた。
「ふぅ……」
「意外と暑いな。」
Boss 429もフードを脱いだ。
「さっきは寒いと言っていただろ。」
「うん。」
「外は寒い。」
「でもバスの中は蒸し暑い。」
Boss 429は小さく首を振った。
二人は洗面台の前に立つ。
シャー……
水が流れ始める。
Rionは何度も顔を洗った。
バシャッ……
「さっぱりした。」
Boss 429も顔を洗う。
冷たい水で、目が一気に見開かれる。
「少なくとも、これで眠くはない。」
Rionは鏡を見る。
髪を適当に整える。
「ふむ……」
「まあまあかな。」
Boss 429は服の襟を直した。
「まだ襟が乱れている。」
「わざとだよ。」
「忙しそうに見えるから。」
「……それはそういうものじゃない。」
Rionは小さく笑った。
やがて……
彼女はスーツケースを開いた。
パンを二袋と、牛乳を一本取り出す。
Boss 429が怪訝そうに見る。
「……本気か?」
Rionが頷く。
「お腹空いた。」
「ここ、トイレだぞ。」
「うん。」
「それで?」
Boss 429は数秒間沈黙した。
「……」
「……まあ、筋は通ってる。」
ついには彼女も自分の弁当を取り出した。
二人は洗面台の前に立ったまま朝食を始めた。
トイレへ入ってきた何人かの人々が、その場で立ち止まる。
「……」
「……」
そのうちの一人が小声で呟いた。
「トイレでピクニックしてる人、初めて見た。」
Rionはパンを咥えたまま振り返る。
「一緒に食べる?」
その人物は即座に首を横へ振った。
「いえ、結構です。」
そして、そのまま外へ出ていった。
Boss 429が無表情でRionを見る。
「朝食に誘っただけで人を追い出したな。」
Rionは肩をすくめる。
「じゃあ、食べ物は安全だ。」
Boss 429は小さく笑った。
「変な理屈だ。」
「でも効果はある。」
二人は穏やかな雰囲気の中で朝食を食べ終えた。
Rionがスーツケースを閉じる。
「準備できた?」
Boss 429が頷く。
「できた。」
二人は再び厚手のコートを身につける。
そしてトイレから出ていった。
次の旅へ向けて。
天空ターミナルをゆっくりと後にする。
RionとBoss 429は並んでSite 4 Aceの雑踏を歩いていた。
人々が行き交う。
車両が絶え間なく走り抜ける。
街の至る所をホログラムスクリーンが埋め尽くしている。
Rionは興味深そうに辺りを見回した。
「それで……」
「どうすればIron Boroughに入れる?」
Boss 429は振り返らず歩き続ける。
「コネがある。」
「そのメンバーの一人だ。」
「昔からの友人でもある。」
Rionはゆっくり頷いた。
「じゃあ簡単?」
Boss 429は首を横に振る。
「むしろ逆だ。」
「Site 4 Aceは、最も監視が厳しい地域の一つだ。」
「そして……」
「Iron Boroughは、この街に本拠地を置いている。」
Rionが眉を上げる。
「監視の厳しい街に?」
「だからこそだ。」
「こんな場所に隠れているなんて、誰も思わない。」
二人は歩き続ける。
Boss 429が突然歩調を落とした。
「よく聞け。」
「ここからは……」
「何度も振り返るな。」
「急に立ち止まるな。」
「戸惑っているように見せるな。」
「ただ通り過ぎている見知らぬ人間のように振る舞え。」
「自分が普通であればあるほど……」
「……誰かに疑われる可能性は低くなる。」
Rionが頷く。
「了解。」
数分後……
Boss 429が短く囁いた。
「着いた。」
Rionはすぐに振り返らない。
ただ静かに答える。
「……分かった。」
何も言わずに……
二人は細い路地へ曲がった。
路地の奥には……
いくつもの大きなゴミ箱が置かれていた。
Boss 429はその一つを開ける。
Rionが瞬きをする。
「……入るの?」
「ああ。」
「質問するな。」
Rionは長く息を吸った。
「……分かった。」
二人は中へ入る。
カチッ。
Boss 429がゴミ箱の底にある何かを押す。
ゴゴゴゴゴ……
床がゆっくりと動く。
二人の足元に秘密の通路が現れた。
Rionが小さく笑う。
「……だんだん分かってきた。」
Boss 429はそのまま中へ進む。
通路は、外から見れば何の変哲もない古い建物へと続いていた。
Boss 429が扉を開く。
カチャッ。
「入れ。」
Rionが中へ入る。
そして、すぐに黙り込んだ。
「……」
部屋は本当に散らかっていた。
箱があちこちに転がっている。
机の上には道具が所狭しと並んでいる。
服が無造作に吊るされている。
いつから洗っていないのか分からないグラスまでいくつかある。
Rionが四方を見回す。
「……あなたの家?」
Boss 429が平然と頷く。
「ああ。」
「評価するな。」
「寝ることはできる。」
Rionがソファの上に積まれた物を指差す。
「ソファが見えるだけでも難しいけど。」
Boss 429は肩をすくめる。
「細かいことだ。」
彼女は奥の扉へ歩いていく。
「ここで待ってろ。」
「あいつを呼んでくる。」
「何にも触るな。」
Rionはすぐに両手をポケットへ入れた。
「安心して。」
「何にも触らない。」
Boss 429は数秒間彼女を見つめた。
「……それはそれで、余計に心配になる。」
彼女は扉の向こうへ消えた。
部屋が再び静かになる。
しばらくして……
足音が近づいてくる。
コツ……コツ……コツ……
一人の男が通路の向こうから現れた。
Boss 429がその隣に立っている。
彼はRionを見る。
「紹介する。」
「名前は……」
「GT500。」
男はRionを頭の先から足元まで観察する。
そして薄く笑った。
「それで……」
「この人がIron Boroughに入りたいという人物か?」
男は扉の前で背筋を伸ばして立っていた。
表情は穏やか。
しかし目つきは鋭い。
余計な笑みもない。
無駄な動きもない。
Boss 429が頷いた。
「久しぶりだな、GT500。」
GT500は短く頷き返した。
「久しぶり。」
その視線がRionへ移る。
「それで……」
「こいつがお前の連れてきた人物か?」
Boss 429が頷く。
「名前はRion。」
GT500は数秒間Rionを見つめた。
「……ようこそ。」
「この家の状態は許してくれ。」
Rionが答えようとした。
しかしGT500はすでに部屋の隅にあった箒を手に取っていた。
シュッ!
シュッ!
シュッ!
その手が恐ろしい速さで動く。
埃が舞い上がる。
箱が次々と棚へ戻される。
散らばっていた服が瞬時に畳まれる。
汚れたグラスがテーブルから消える。
カーペットが真っ直ぐになる。
数秒後……
先ほどまで戦争跡地の倉庫のようだった家が、綺麗に片付いていた。
Rionはただ呆然としている。
「……」
「……息を吐く暇すらなかった。」
GT500は箒をしまう。
「散らかった家は客を迎える場所ではない。」
そしてBoss 429を見る。
「429。」
「何か作れ。」
「客を空腹のままにしておくな。」
Boss 429が短くため息をつく。
「分かった。」
そのままキッチンへ向かう。
やがてフライパンの音が聞こえ始める。
カン……カン……
GT500がRionの前に座る。
「Boss 429から目的は聞いている。」
「Iron Boroughに入りたいそうだな。」
Rionが力強く頷く。
「うん。」
GT500が両腕を組む。
「なら……」
「手順を説明しよう。」
「まず……」
「Iron Boroughのメンバーが立ち寄るバーを一つ探す。」
「そこで選抜が行われる。」
Rionが尋ねる。
「バーに入るだけ?」
GT500が頷く。
「それだけだ。」
「だが、次の段階を通過できる者は限られている。」
Rionが興味を示す。
「次の段階?」
GT500が淡々と答える。
「飲む。」
「……」
「……飲む?」
「ビールを五百杯。」
部屋が完全に静まり返る。
キッチンから戻ってきたBoss 429も足を止める。
「どれくらいだ?」
「二百三十六・五リットル。」
Rionがゆっくり瞬きをする。
「……」
「……それ、組織の入団試験……」
「……それともダムの貯水競技?」
Boss 429が同意するように頷く。
「普通の人間がそれだけ飲み終えたら……」
「……採用されるのは本人じゃなくて、その魂かもしれないな。」
GT500は初めて薄く笑った。
「それが目的だ。」
Rionが眉を寄せる。
「どういう意味?」
GT500が紅茶のカップを手に取る。
「五百杯は、誰かを酔わせるための条件ではない。」
「それは選別だ。」
「Iron Boroughは信じている……」
「普通の人間には、明確な限界がある。」
「だがObserverは……」
「……その限界を超えることができる。」
「試験を終える遥か前に倒れたなら……」
「……その人物はただの人間だと判断する。」
「しかし、その試験を最後まで乗り越えられたなら……」
「……Iron Boroughは、それ以上何も尋ねない。」
「すでに答えを得ているからだ。」
Rionはゆっくり頷いた。
「つまり……」
「この試験は、本当にObserverなのかを確かめるためのもの。」
「その通り。」
GT500が続ける。
「実は、別の方法もある。」
「Iron Boroughの注意を引くほど大きな犯罪を起こすことだ。」
「だが、その方法は遥かに危険だ。」
「小さなミス一つで、採用される前に追われることになる。」
再び部屋が静かになる。
RionがBoss 429を見る。
Boss 429も彼女を見る。
「……」
「……」
Rionが小さく笑った。
「たぶん……」
「……飲むほうが安全だ。」
Boss 429が頷く。
「少なくとも相手はビールだけだ。」
GT500が立ち上がる。
「なら……」
「明日の夜、最初のバーへ向かう。」
彼はコートを身につける。
「その時から……」
「自分を教授だと思うな。」
「英雄だと思うな。」
「客だとも思うな。」
「裏社会では……」
「人は一つのことしか見ない。」
「お前が十分に強いか……」
「……他の全員が倒れたあとも、立っていられるほどに。」
Site 4 Aceの空を、夜がゆっくりと覆っていく。
巨大な建物が何千もの光を放ち始める。
通りは光の海へと変わっていく。
街のあちこちから音楽が聞こえてくる。
昼間とは違い……
夜のSite 4 Aceには、少しだけ緩いルールが存在していた。
夜間外出禁止は解除される。
娯楽施設が営業を始める。
商取引はほとんど止まることなく続く。
それでも……
警備員はすべての交差点で警戒を続けている。
監視ドローンも空を巡回している。
カメラは街の隅々を追い続けている。
この街では……
夜だから自由というわけではない。
ただ……
人々に少しだけ息をする余地が与えられているだけだ。
GT500はガレージの前に立っていた。
小さなボタンを押す。
ピッ。
ガレージの扉がゆっくり開く。
中には様々な車両が並んでいる。
クラシックカー。
スポーツカー。
装甲SUV。
数台の実験車両。
すべてが工場から出たばかりのように輝いている。
Rionは一台ずつ観察する。
「……コレクター?」
GT500がゆっくり頷く。
「ただ物を大切にしているだけだ。」
Boss 429がくすりと笑う。
「車を買うことに依存している、と遠回しに言ってるだけだ。」
GT500は聞こえないふりをする。
彼は黒い高級車へ歩いていく。
屋根は開いている。
ボディが街の光を反射している。
エンジンはほとんど音を立てない。
Rionが後部座席へ座る。
「なんで地上車?」
「みんな飛行車に乗ってるのに。」
GT500がエンジンをかける。
ブゥゥゥン……
「飛行車のほうが確かに速い。」
「だが、車輪があるほうが旅をしている気分になる。」
Boss 429が小さく笑う。
「いつもそう言ってる。」
車はゆっくりと大通りへ出ていく。
夜のSite 4 Aceは、昼間とはまったく違う顔を見せていた。
カフェは客で溢れている。
バルコニーから生演奏が聞こえる。
屋台は夜遅くまで営業している。
ホログラムの光が空を埋め尽くしている。
その一方で……
パトロールカーは今も行き交っている。
時折、ドローンが群衆を照らす。
Rionはそのすべてを眺めていた。
「すごく賑やか。」
GT500が静かに答える。
「人は昼に働く。」
「人は夜に生きる。」
Boss 429が付け加える。
「そして犯罪組織は……」
「……だいたい同じ時間帯を仕事に選ぶ。」
Rionはただ静かに頷いた。
数十分後……
車は北側の地区へ入っていった。
この辺りの建物は大きく変わっている。
すべてがより豪華。
より高価。
より排他的。
人々はスーツ、ドレス、ロングコート、高価な宝飾品を身につけている。
粗末な服を着た者は一人も見当たらない。
GT500が車を停める。
トランクを開く。
中には用意された三着の服が入っていた。
Rionが首を傾げる。
「着替えるの?」
GT500が頷く。
「これから行くバーは……」
「……普通の人間が行く場所ではない。」
Boss 429が黒いスーツを着始める。
「そこでは外見が身分証になる。」
「貧乏に見えたら……」
「……中へ足を踏み入れることすら許されない。」
Rionも用意された服を着る。
白いシャツに黒いスーツ。
光沢のある革靴。
シンプルなネクタイ。
車のガラスに映った自分を見る。
「……給料をもらったばかりの教授みたい。」
Boss 429が笑いを堪える。
「少なくとも今なら、水一杯くらいは買えそうだ。」
GT500は自分の襟を整える。
「背筋を伸ばせ。」
「緊張しているように見せるな。」
「金持ちは床を見ながら歩かない。」
「そして、本当に危険な人間は……」
「……滅多に先に口を開かない。」
Rionが静かに息を吸う。
「分かった。」
三人は歩道を進んでいく。
通りの先には……
黄金色の光に照らされた豪華な建物が立っている。
ジャズとパーティーの重低音が外まで響いている。
高級車が何台も並んで駐車されている。
きちんとした服装の男が、一人一人の客のために扉を開いている。
入口の上には、大きな金色の文字が掲げられている。
その日はどうやら、そのバーの年次記念祭が行われていた。
笑い声、グラスの音、音楽が一つに混ざっている。
GT500が入口の前で立ち止まる。
RionとBoss 429を見る。
「覚えておけ。」
「今夜……」
「遊びに来たわけではない。」
「お前たちは……」
「……一度でも過ちを犯した者を決して許さない世界へ入るために来た。」
三人はそのままバーの中へ足を踏み入れた。
巨大な音楽の波が彼らを迎える。
天井から吊るされたクリスタルライトが、無数の光を放ち、大理石の床を照らしている。
部屋の中央では、数十人がクラシック音楽と現代的なリズムを融合させた音楽に合わせて踊っている。
酒を楽しみながら話す者もいる。
円卓で大声を上げて笑う者もいる。
ウェイターたちが、煌めくグラスを載せたトレイを運んでいる。
Rionは周囲を見回す。
「……バーというより貴族のパーティーみたい。」
GT500が短く答える。
「場所が高価であればあるほど……」
「……騒ぎを起こそうとする者は少なくなる。」
Boss 429が小さく笑う。
「それは真夜中になる前までだ。」
GT500がゆっくり頷く。
「行くぞ。」
三人はバーテンダーのいるカウンターへ向かう。
年老いたバーテンダーが、静かにグラスを磨いている。
GT500を見ると、顔を上げた。
「久しぶりだな。」
GT500が椅子を引く。
「久しぶり。」
三人は並んで座った。
バーテンダーが布巾を置く。
「いつものか?」
GT500は首を横に振る。
「いや。」
「今日は二人の候補者を連れてきた。」
バーテンダーがRionとBoss 429を見る。
その視線は、何かを測るように鋭い。
数秒が過ぎ……
彼は薄く笑った。
「分かった。」
GT500が両腕をテーブルへ置く。
「用意してくれ。」
「一人五百杯。」
店内が突然静まり返る。
一人の客がフォークを落とした。
「チン!」
音楽はまだ続いている。
しかし、ほとんどすべての人間がバーテンダーの前へ視線を向けていた。
「……五百?」
「……一人につき?」
「……千杯?」
ワインを飲んでいた女性がむせる。
「人間なの? それとも歩くタンク?」
バーテンダー自身もグラスを磨く手を止めた。
しばらくGT500を見る。
「そんな注文を聞くのは久しぶりだ。」
GT500は平然としている。
「彼らは試験を受けに来た。」
バーテンダーがゆっくり頷く。
「なら……」
「……費用はすべて本人たちの負担だ。」
Boss 429が即座にGT500を見る。
「ちょっと待て。」
「金を払うなんて聞いてないぞ。」
GT500は表情を変えずに答える。
「まだ言う時間がなかった。」
Boss 429は額を軽く叩く。
「ここへ来たことを後悔し始めた。」
一方Rionは、テーブルの上に並び始めた空のグラスを眺めていた。
「……」
「……今夜は長くなりそう。」
数分も経たないうちに……
バーテンダーのテーブルはグラスの海へと変わった。
Boss 429の前には五百杯。
Rionの前にも五百杯。
照明が反射し、テーブル全体が煌めいている。
バーの音楽が徐々に小さくなる。
すべての視線が二人へ集まり始めた。
一人の男が友人へ囁く。
「……五百杯?」
「こんな挑戦をする奴は久しぶりだ。」
「あいつら正気か?」
別の男が首を横に振る。
「違う。」
「きっとObserverだ。」
「Observerのための試験だ。」
「普通の人間が挑戦したら……」
「……百杯にも届かないうちに倒れるだろう。」
「そうだ。」
「無理に続けたら……」
「……帰るのは本人じゃない。」
小さな笑い声が起こる。
バーテンダーが最後のグラスを並べる。
「準備完了だ。」
GT500が金属製のタイマーを取り出す。
テーブルの上へ置く。
「ルールは分かっているな。」
「より速いほうが……」
「……チームリーダーだ。」
Boss 429が袖を締める。
「負けても文句を言うなよ。」
Rionが気楽に笑う。
「勝ったら泣かないでね。」
GT500が手を上げる。
「三……」
「二……」
「一。」
「開始。」
カチッ。
一瞬で……
二人の手がほぼ同時に動いた。
ゴクッ。
ゴクッ。
ゴクッ。
一杯目が空になる。
続いて二杯目。
三杯目。
四杯目。
歓声が徐々に店内を満たしていく。
「速く!」
「行け!」
「止まるな!」
Boss 429はすぐに自分のリズムを見つけた。
手の動きは安定している。
速すぎない。
遅すぎない。
一つ一つの動作が無駄なく行われている。
一方Rionは……
別の方法を選んだ。
グラスを一直線に並べ、腕を交差させなくても済むようにする。
一杯飲み終えるたび……
手がすぐ次のグラスへ移る。
「頭いいな。」
「いや……」
「一秒にも満たない時間を節約してる。」
Boss 429が一瞬だけ横目で見る。
「……悪くない。」
そして自分のグラスの配置も変えた。
直線ではなく……
腕を振る動きに合わせた曲線状に。
手の移動距離がさらに短くなる。
Rionがそれを見る。
「……ずるい。」
Boss 429が薄く笑う。
「経験ってやつだ。」
四分が過ぎた。
二人はまだ互角。
五分。
Boss 429が一杯分だけリードする。
「Bossがリード!」
「いや!」
「Rionが追ってる!」
Rionがペースを上げる。
数秒後……
その差が消える。
今度はRionがリードした。
バー全体が沸き立つ。
「追い抜いた!」
Boss 429は焦らない。
一定のペースを維持する。
Rionがさらに加速し始めた時……
その手が僅かにぶれた。
ビールが少しこぼれる。
ほんの数滴。
しかし……
Boss 429はその僅かな隙を利用した。
再び追いつく。
七分が過ぎた。
二人の差は、たった一杯。
時にはBoss 429が前。
次の瞬間には……
Rionが追い抜く。
そしてBoss 429が再びリード。
バーの雰囲気は、まるでレース会場のようになっていた。
「前に出た!」
「違う! 今度はあっちだ!」
「追え!」
「抜かせるな!」
Rionはとうとう自分で笑い始めた。
「へへへ……」
「これ、結構面白い……」
Boss 429が横目で見る。
「……酔い始めたな。」
その通りだった。
Rionの頬が赤くなる。
視線も少しぼんやりしている。
しかし奇妙なことに……
速度はむしろ上がっていた。
「は?」
「速くなってるぞ!」
「Observerって本当に怪物だな……」
Boss 429が短く息を吐く。
「なら……」
「……私も遠慮しない。」
手の動きがさらに効率的になる。
一つたりとも無駄な動きがない。
八分。
残りは十数杯。
Rionが突然再びリードする。
バー全体が立ち上がる。
「行け!」
「あと少し!」
Boss 429は煽られない。
そのままペースを維持する。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
ゆっくりと……
距離を縮めていく。
一杯差。
半杯。
そして……
追い抜く。
「抜いた!」
「Bossが前だ!」
「違う!」
「Rionがまた追ってる!」
Rionが次のグラスへ手を伸ばす。
しかし今回は手が少し外れた。
「へへへ……」
「ん……」
「グラスが三つある……」
Boss 429はその隙を利用する。
そのまま進み続ける。
さらに近づく。
さらに近づく。
Rionをどんどん引き離していく。
Rionも追おうとする。
しかし前へ進むたび……
Boss 429はさらに遠くへ行っている。
加速すればするほど……
その距離は遠く感じられる。
ゴクッ。
ゴクッ。
ゴクッ。
Boss 429の最後のグラスが空になる。
GT500が即座にタイマーを止める。
「八分三秒。」
店内が静まり返る。
数秒後……
Rionが最後のグラスを飲み干した。
カチッ。
GT500がもう一度タイマーを見る。
「八分十二秒。」
静寂が大歓声へと変わった。
「新記録だ!」
「八分三秒!」
「こんな速さ、初めて見た!」
「怪物……」
「違う。」
「Observerだ。」
Boss 429が長く息を吐く。
「やっと……」
Rionは目の前の空のグラスを見る。
「へへへ……」
「負けた……」
「なんで照明が全部揺れてるんだ……」
そしてグラスの一つを抱きしめる。
「……いい友達だ。」
バー全体が爆笑する。
GT500が椅子から立ち上がる。
「勝者は……」
「……Boss 429。」
そして二人を見る。
「二人とも合格だ。」
「今夜から……」
「……Iron Boroughは、お前たちの名を知ることになる。」
再び歓声が店内を揺らす。
Rionはただ、吊り下げられた照明へ手を振っていた。
彼女には照明まで拍手しているように見えているらしい。
勝利の歓声は、まだバー中に響き渡っていた。
グラス同士がぶつかる。
音楽が再び演奏される。
誰が先に採用されるか賭け始める者までいる。
しかし……
コツ。
コツ。
コツ。
ゆっくりとした足音が、騒音を切り裂いた。
音楽が突然止まる。
客たちが一斉に入口へ振り返る。
誰かが小さく囁いた。
「……来た。」
「Road Runnerだ。」
ワインを飲んでいた女性がすぐに立ち上がる。
「The Brown Ladyのメンバー……」
「……なぜここに?」
隣の男が唾を飲み込む。
「The Brown Ladyの人間が直接来るってことは……」
「……あの二人の候補、本当に面白いらしい。」
部屋の中央に道が自然と開く。
数人の黒いスーツ姿の男たちが先に歩いてくる。
その後ろから……
濃い茶色の髪をした男が、静かに歩いてくる。
表情は平坦。
目つきは鋭い。
余計な動きは一つもない。
GT500がすぐに立ち上がる。
Boss 429も立ち上がる。
Rionはまだ少しふらつきながら、慌てて姿勢を正す。
Road Runnerが三人の目の前で止まる。
GT500が口を開く。
「こんばんは、Road Runnerさん。」
Road Runnerが短く頷く。
「久しぶりだ。」
彼はRionとBoss 429を見る。
「今夜、騒ぎを起こしたのはお前たち二人か?」
Boss 429が薄く笑う。
「飲み比べを騒ぎと呼ぶなら……」
「……そうかもしれない。」
何人かが笑う。
Road Runnerは無表情のまま。
「報告は受けている。」
「五百杯。」
「新記録。」
バーテンダーが頷く。
「八分三秒。」
Road RunnerはBoss 429を見る。
「勝ったのはお前だな。」
そしてRionを見る。
「そしてお前は、わずか九秒差で負けた。」
Rionが肩をすくめる。
「バーテンダーが三人に見え始めてた。」
バー全体が再び笑いに包まれる。
Road Runnerは静かなまま。
しかし口元がほんの少しだけ上がった。
「次の報告のほうが興味深い。」
腕を組む。
「どうやら……」
「……お前たち二人はObserverらしいな。」
再び空気が静まり返る。
Iron Boroughのメンバーの一人が囁く。
「いきなりそこを聞くのか……」
「本気だな。」
Road Runnerが続ける。
「この十年間……」
「……武器庫を見つけることのほうが、Observerを見つけることより多かった。」
「それなのに今夜は……」
「……二人も目の前にいる。」
二人を交互に見る。
「確認したい。」
「Horizonを見せろ。」
客の一人が思わず声を上げる。
「ここで?」
Road Runnerは振り返りもせず答える。
「ここはIron Boroughの領域だ。」
「この部屋にいる誰一人として、見たものを漏らすことはない。」
数人のメンバーが頷く。
「その通り。」
「もし漏らしたら……」
「……The Brown Lady自身が動く。」
部屋がさらに静まり返る。
RionがBoss 429を見る。
「じゃあ、やろう。」
Boss 429が頷く。
「分かった。」
二人が部屋の中央へ歩いていく。
全員が自然に後退する。
大きな円を作る。
Road Runnerは瞬き一つせず見つめる。
「見せろ。」
Boss 429が胸へ手を上げる。
ゆっくりと……
身体の中から一枚のディスクが現れる。
Rionも同じようにする。
二枚のディスクが完全に姿を現した瞬間……
部屋全体が息を止めたかのようになった。
「あれは……」
「Beyond……」
「本当にあんな形なのか……」
「初めて見た……」
Road Runnerが注意深く観察する。
「取り出し方が自然だ。」
「異物感がない。」
「つまりBeyondは完全に融合している。」
二人はディスクの表面へ文字を書き始める。
最後の文字を書き終える。
二人はそれを空中へ投げた。
ディスクが高く回転する。
そして急降下する。
カッ!
カッ!
二枚とも、それぞれの持ち主の頭へ正確に命中した。
次の瞬間……
Rionの身体が蠢く肉に覆われ始めた。
赤い繊維が四方八方へ伸びていく。
彼女の背後に、恐ろしい姿が形成される。
一方……
Boss 429の周囲には金属が出現し始める。
歯車、ピストン、鋼鉄が互いに融合していく。
機械的な轟音が部屋を満たす。
カチッ。
ミシッ。
二つの異なる姿が、堂々と立っていた。
一つは絶えず蠢く肉の怪物。
もう一つは頑強な機械の巨人。
誰も言葉を発しない。
やがてRoad Runnerが静かに息を吐く。
「Doctor Moreau……」
「……そしてTime Machine。」
彼は二つのHorizonをしばらく見つめる。
「素晴らしい。」
そしてIron Boroughの全員へ振り返る。
「よく聞け。」
「The Brown Ladyのメンバーとしての権限に基づき……」
「……そしてSite 4 AceにおけるIron Borough上層部として……」
「……私は二人をIron Boroughの正式メンバーとして受け入れる。」
バー全体が歓声に包まれる。
「ようこそ!」
「新たなObserver二人だ!」
「今夜は長く語り継がれるぞ!」
その一方で、Rionは頭を掻きながら小さく呟いた。
「……だんだん分かってきた。」
「たぶん、さっきのビール……飲みすぎた。」
バーの歓声はまだ響いていた。
何人もの人がグラスを掲げる。
その一方で、RionとBoss 429の周囲には祝福の言葉をかけようと人々が集まり始めていた。
Road Runnerは二人の前に静かに立っている。
「Iron Boroughへようこそ。」
一歩、踏み出す。
コツ。
しかし……
次の一歩が……
消えた。
「……!」
一瞬でRoad Runnerの身体が、足を動かすことすらなく数メートル前方へ吹き飛んだ。
バキィ!!
バーテンダーのテーブルへ激突し、粉々に砕いた。
店内全体が凍りつく。
「何……?」
「今の……」
「……テレポート?」
Road Runner自身も驚いている。
「違う……」
「俺は身体を動かしていない。」
立ち上がろうとする。
しかし……
身体が再び勝手に動いた。
ヒュン!
今度は何か見えないものに引っ張られたかのように横へ滑る。
バキッ!
椅子が吹き飛ぶ。
「何かがおかしい!」
GT500がすぐに立ち上がる。
「人間の動きじゃない!」
Road Runnerは身体を押さえようとする。
しかし自分を制御しようとすればするほど……
身体はさらに激しく動いた。
手が震え始める。
顔つきが徐々に変化する。
皺が少しずつ増えていく。
髪が白くなる。
皮膚がたるむ。
「なぜ……」
「……俺の身体が……」
Iron Boroughのメンバーが数歩後退する。
「老いている!」
「年齢が増えている!」
「近づくな!」
Road Runnerが再び前方へ押し出される。
わずか数秒前とは比べものにならないほど老いた姿になっていた。
Boss 429が目を細める。
「……Road Runnerじゃない。」
彼女は拳銃を構える。
GT500が素早く振り返る。
「Boss!」
バン!
弾丸がRoad Runnerの顔へ一直線に飛ぶ。
血が出る代わりに……
巨大な亀裂が全身へ広がった。
ミシ……
ミシミシッ……
Road Runnerの顔がガラスのように砕ける。
そして……
亀裂の向こうから、奇妙で歪んだ絵画風のRoad Runnerの顔を描いた板が現れた。
その絵は、不自然な笑顔を浮かべている。
「……なんだ、あれ?!」
Boss 429がもう一度撃つ。
バン!
絵が粉々に砕ける。
「Road Runner」の身体全体も同時に崩れ落ちた。
薄い破片へ変わり、床へ散らばる。
静寂。
誰も動かない。
GT500が近づいていく。
残された破片を調べるためにしゃがみ込む。
数秒後……
再び立ち上がる。
「Road Runnerじゃない。」
全員が彼を見る。
GT500は真剣な声で続ける。
「Road RunnerはObserverではない。」
「あんな能力を持っているはずがない。」
床の絵の破片を見る。
「なら……」
「……今見たものは……」
「……誰かのHorizonである可能性が高い。」
囁き声が一斉に広がる。
「敵のHorizon?」
「いつからだ?」
「ということは……」
「……ここに別のObserverがいる?」
先ほどまで笑いに満ちていたバーが、たちまちパニックに変わる。
「すべての扉を閉めろ!」
「隅々まで調べろ!」
「誰も外へ出すな!」
Iron Boroughのメンバー数人がすぐに武器を抜く。
他の者たちは裏口へ走る。
バーテンダーまで手からグラスを落とした。
RionとBoss 429が互いに顔を見合わせる。
Rionが頭を掻く。
「……たぶん……」
「……今夜はまだ終わってない。」
Boss 429が拳銃をしまう。
「違う。」
「問題は……」
「……今始まったばかりだ。」
バーの中はまだ落ち着きを取り戻していない。
割れたガラスが床に散らばっている。
全員がHorizonの出所を探している。
その時……
ヒュッ!
何かが横切った。
速い。
あまりにも速く、風だけを残した。
カッ!
その影がRionの肩を打つ。
カッ!
もう一つがBoss 429の背中を打つ。
二人の女性がそのまま床へ吹き飛ばされた。
「Rion!」
「Boss!」
GT500が二人へ駆け寄る。
しかしRionへ手を伸ばした瞬間……
ヒュッ!
カッ!
影が再び横切り、彼の腕を打った。
「……!」
GT500が硬直する。
次の瞬間……
髪が白くなる。
顔中に皺が刻まれる。
身体が老人のように曲がる。
「え……?」
次の瞬間には……
皺がすべて消えた。
身体が若返る。
そして子供へ変わる。
数秒後には再び成人へ。
「何……だ、これは……」
一方、Rionも立ち上がろうとする。
しかし身体が突然小さくなった。
服がぶかぶかになる。
「え……?」
瞬きを一つした瞬間……
再び成人へ戻る。
そして老女へ変わる。
息が重くなる。
手が震える。
次の瞬間……
身体が再び赤ん坊になる。
そして子供。
少年少女の年齢。
そして成人。
変化は止まらない。
何度も何度も繰り返される。
Boss 429も同じだった。
一瞬、拳銃を持ち上げることすら難しいほどの少女の姿になる。
次には中年女性。
その後は老女。
そしてしばらくすると再び成人へ戻る。
彼女は歯を食いしばる。
「クソ……」
「身体が……」
「……無理やり変えられ続けている。」
ヒュッ!
影はまだ止まらない。
今度は部屋全体を跳ね回る。
カッ!
カッ!
カッ!
「うわっ!」
一人の男が叫ぶ。
髪が突然白くなる。
その隣では、一人の女性が子供の姿へ変わり、ドレスが長すぎてバランスを崩した。
「掴んで!」
助けを求める暇もなく……
彼女は再び成人へ戻る。
そしてまた高齢者へ。
「こんなの狂ってる!」
「立てない!」
トレイを運んでいたバーテンダーが突然赤ん坊へ変わった。
トレイが落下する。
グラスが床一面に砕け散る。
数秒後……
彼は再び成人へ戻った。
そして老人へ。
「俺……」
「……今、腰が痛かった気がする。」
愚痴を言い終える前に……
腰が再び正常へ戻る。
部屋の隅でバイオリンを弾いていた男が突然子供へ変わった。
バイオリンも落下する。
「え?」
五秒後、彼は再び成人へ戻った。
「……今日も給料は出るのか?」
その近くでは……
自慢の髭を見せていた男が赤ん坊へ変わった。
成人へ戻った時……
髭が消えている。
彼はすぐに上唇を触る。
「俺の髭!」
「俺の髭はどこだ?!」
友人がむしろ自分のほうを慌てている。
「そこが問題じゃない!」
「俺たちは攻撃されてるんだぞ!」
バー全体が完全な混乱に陥った。
走る者。
倒れる者。
突然小さくなり、また大きくなる者。
服がぶかぶかになる。
次にはきつくなる。
そしてまた元に戻る。
数分前まで笑いに満ちていた空間は、今や叫び声で満たされていた。
Rionは片膝をつきながら呼吸を整える。
年齢が変化するたびに、全身の力が絞り取られていく。
まるで心臓まで人生を最初からやり直すように強制され……
数秒で老い……
そして再び繰り返される。
Boss 429も力を失い始めていた。
武器を持ち上げようとする。
しかし腕が再び幼い少女のものへ変わる。
拳銃が床へ落ちた。
「このままじゃ……」
「……犯人を見つける前に倒れる。」
GT500は歯を食いしばる。
年齢が前後し続ける身体を無理やり立たせる。
「慌てるな!」
「固まれ!」
「一人で影を追うな!」
しかしその命令は混乱の中にほとんど消えてしまう。
影はまだ部屋を旋回し続けている。
見えない。
聞こえない。
ただ、犠牲者の年齢だけが次々と変化していく。
そして最も恐ろしいことに……
誰一人として知らない。
一体誰が……
そのHorizonを操っているのか。
バーは恐怖の海と化した。
叫び声が飛び交う。
赤ん坊になったばかりの男が、数秒後には再び老いた老人になる。
一人の女性は身体が膨張と縮小を繰り返し、バランスを崩して倒れる。
テーブルが倒れる。
グラスが飛び散る。
Rionは片膝で身体を支えながら荒い息を吐いていた。
「はぁ……はぁ……」
年齢が変化するたびに、全身の力が少しずつ奪われていく。
Boss 429も同じだった。
立ち上がろうとする。
しかし身体が高齢女性へ変わると、再び膝が崩れた。
「クソ……」
「このままじゃ……」
「……終わる。」
GT500が拳を握る。
その視線が部屋全体を走る。
先ほどまで自信に満ちていたIron Boroughのメンバーたちも、一人また一人と倒れていく。
敵が誰なのか分からない。
どこから攻撃が来ているのかも分からない。
聞こえるのは悲鳴だけ。
そして恐怖。
GT500が長く息を吸う。
「……もう十分だ。」
全員が彼を見る。
表情は依然として穏やか。
しかし、その目が変わっていた。
「俺が隠し続ければ……」
「……誰一人として、この場所から生きて出られない。」
Rionがゆっくり顔を上げる。
「どういう……?」
GT500は部屋全体を見渡す。
「今日……」
「……これまで隠してきた、人間としての一面を捨てる。」
空気が一瞬で静まり返る。
Iron Boroughのメンバー数人が目を見開く。
「待て……」
「まさか……」
GT500が右手を胸の中へ差し込む。
ゆっくりと……
身体の中から一枚のディスクが現れる。
全員が沈黙する。
「あれは……」
「Beyond……」
「GT500もObserverなのか?!」
彼は答えない。
指がディスクの表面へ素早く文字を書いていく。
書き終える。
そのディスクを高く空へ投げる。
ディスクが何度か回転する。
そして……
再び急降下する。
カッ!
頭へ命中する。
GT500が両目を開く。
「War World。」
爆発はない。
光もない。
轟音もない。
しかし……
バーの空気が変わった。
棚のガラス瓶が震え始める。
スプーン、フォーク、ナイフがひとりでに動く。
椅子が小さく軋む。
テーブルの上の花瓶が、誰にも触れられていないのにひび割れる。
部屋にあるすべての物が、一つの命令を待っているかのようだった。
GT500がゆっくり顔を上げる。
その視線が天井を貫く。
「……見つけた。」
Rionも顔を上げる。
「何を?」
「何も見えない。」
Boss 429が目を細める。
「天井しか……」
GT500が首を横に振る。
「隠れている。」
「だが戦場は……」
「……敵を隠すことなどできない。」
右手を上げる。
そして力強い声で一つの命令を下した。
「Strilyaty!」
次の瞬間……
ひび割れていた花瓶の形が変化した。
表面が伸びる。
破片が融合する。
花びらが銃身へ変わる。
一瞬で……
花瓶はライフルへと変わった。
バン!
弾丸が部屋の一角へ一直線に飛ぶ。
「……ぐっ!」
初めて誰かの声が聞こえた。
それまで隠れていた黒い影が吹き飛ばされる。
しかしまだ倒れない。
シャンデリアへ跳ね返る。
バキッ!
そして壁へ激突する。
それでも逃げようとする。
GT500が再び手を上げる。
「Strilyaty!」
今度は……
テーブルの上に置かれていた小さな像がライフルへ変化する。
バン!
二発目の弾丸がその人物の腹部を撃ち抜く。
「ぐあっ!」
身体がバランスを失う。
酒の棚へ激突する。
瓶が次々に落ちる。
ガシャァン!
そして複数のテーブルへ連続してぶつかる。
それでも這って逃げようとする。
GT500は瞬き一つせず見つめる。
「Strilyaty。」
壁に飾られていた写真立てが武器へ変化する。
バン!
三発目の弾丸が肩へ命中する。
その人物はついに前方へ吹き飛ばされる。
ドサッ!
GT500の目の前へ落下した。
バー全体が突然静まり返った。
誰も叫ばない。
誰も動かない。
GT500がゆっくりと、その人物へ近づく。
花瓶から変化した武器の銃口からは、まだ薄い煙が立ち上っている。
床に倒れた人物を見下ろす。
淡々とした声で言った。
「それで……」
「……今夜を滅茶苦茶にしたのは、お前か。」
倒れていた人物が小さく咳き込む。
「ゴホッ……」
口元から薄く血が流れる。
しかし……
その人物は笑った。
「へぇ……」
「大したものだ……」
「こんなに長い間……」
「……俺を見つけられた奴はいなかった。」
GT500はまっすぐ立っている。
Horizonによって生み出された武器の銃口は、老人の頭へ向けられたままだ。
「動くな。」
老人はゆっくりと両手を上げる。
「逃げるつもりはない。」
黒い影が身体を覆っていたものが、ゆっくりと消えていく。
少しずつ……
本来の姿が現れる。
長い白髪。
皺だらけの顔。
脆そうに見える痩せた身体。
しかし……
その目は、狩人のように鋭いままだった。
Rionが眉を寄せる。
「……おじいさん?」
Boss 429が目を細める。
「つまり、ずっと……」
「……お前が隠れていたのか。」
老人がゆっくり頷く。
「自己紹介を忘れていた。」
薄く笑う。
「俺の名は……」
「Su-57。」
再び空気が静まり返る。
Iron Boroughのメンバー数人が互いを見る。
「知ってる奴いるか?」
「聞いたことがない。」
「俺たちのメンバーじゃない。」
GT500は視線を逸らさない。
「Horizon。」
Su-57が小さく笑う。
「いきなり核心か?」
「いいだろう。」
部屋全体を見回す。
「俺のHorizonは……」
「……Picture of Hell。」
その名が空中に残る。
誰も話さない。
GT500が再び尋ねる。
「目的は。」
Su-57が彼を見る。
「そこまで単純か?」
GT500は迷わず答える。
「時間を無駄にするのが嫌いなんだ。」
Su-57が小さく笑う。
「へぇ……」
「面白い。」
「そう言う人間が……」
「……まさに今、時間と戦っているとはな。」
ゆっくりと顔を上げる。
その視線がBoss 429で止まる。
そしてRionへ移る。
笑みがゆっくりと消えていく。
「俺は来た……」
「……お前たち二人のために。」
「Iron Boroughのためじゃない。」
「The Brown Ladyのためでもない。」
「ましてや、この場所を破壊するためでもない。」
Rionが首を傾げる。
「じゃあ?」
Su-57が長く息を吐く。
「俺は来た……」
「……お前たち二人のために。」
部屋が再び沈黙する。
Boss 429が眉を上げる。
「私たち?」
Su-57が頷く。
「そうだ。」
Rionが自分を指差す。
「待って。」
「私はあなたに会ったことすらない。」
「そこが問題なんだ。」
Su-57の声がさらに低くなる。
「誰かの人生を壊した人間は……」
「……自分がそんなことをしたと気づかないことが多い。」
RionとBoss 429は互いを見る。
本当に何も分からない。
GT500が半歩前へ出る。
「誰かを責めたいなら……」
「……理由を言え。」
Su-57は一瞬だけ目を閉じる。
そして再び開いた時……
その瞳には、言葉では説明しがたい悲しみが宿っていた。
「俺には弟がいた。」
「俺にとって唯一の家族だった。」
「だが……」
「……お前たち二人のせいで……」
「……俺は弟を失った。」
Boss 429が即座に否定する。
「あり得ない。」
「私はお前を知らない。」
Rionも頷く。
「私も。」
Su-57は薄く笑う。
「構わない。」
「忘れていてもいい。」
「否定してもいい。」
「だが……」
「……俺はあの日を決して忘れない。」
ゆっくりと立ち上がる。
身体にはまだ傷が残っている。
それでも視線はRionとBoss 429から離れない。
「……俺はたった一つの目的のために生きている。」
「お前たちにも味わわせるためだ……」
「……同じ絶望を。」
バーの中が再び張り詰めた。
誰一人として口を挟まない。
Su-57の目を見れば……
誰もが分かった。
この老人の復讐は……
一夜のうちに生まれた。
【ACT 7 END】




