ACT 5:失われた道
「生と死……それは常に寄り添いながら歩み続ける、二つのものだ。」
「誕生は希望を与える。死は終わりを与える。」
「その二つは、変えることのできない自然の法則だと考える者もいる。」
「しかし……必ず誰かが問いかける。」
「なぜ生命には終わりがあるのか?」
「そして、もし死が終わりではないのなら……」
「人には一体、何が残るのか?」
「肉体?」
「記憶?」
「それとも……人間の理性では説明することすらできない何かなのか?」
「その問いへの答えを求め、多くの者が発明家となった。」
「英雄になった者もいる。」
「そして、怪物になった者もいる。」
「そして今日……」
「誰かが、生命と死を隔てる境界へ向かって、もう一歩踏み出そうとしている。」
【カルボン時代|283年|9月15日|09:32】
朝の光がICUのカーテンを透過していた。
ピッ……ピッ……ピッ……
モニターの音が静かに響いている。
レイヴンの指が動いた。
まぶたがゆっくりと開く。
「……」
白い天井を見つめる。
静寂。
医師はいない。
看護師もいない。
誰もいない。
レイヴンはゆっくりと身体を起こした。
左右を見回す。
そして視線が壁にあるデジタルカレンダーへ向けられた。
四か月が経過していた。
「……」
レイヴンはただ瞬きをした。
何も言わず、点滴を引き抜く。
ブチッ。
胸のセンサー。
ペタッ。
酸素チューブ。
シュッ。
部屋中に警報が鳴り響く。
ピーーーーーーーーッ!!
しかし、レイヴンは振り向きもしない。
立ち上がる。
まだ足元はふらついている。
それでも歩き続ける。
病院の廊下。
何人かの学生が立ち止まった。
「……レイヴン?」
「えっ!?」
「レイヴンが目を覚ました!?」
「レイヴン!」
しかし……
レイヴンはカラスのように首を傾げるだけだった。
数秒間、彼らを見つめる。
そして……
「……カァ。」
全員が黙り込む。
「……え?」
レイヴンはそのまま歩き続けた。
時折、頭を素早く右へ動かす。
そして左へ。
廊下にある光沢のある物体を目で追っている。
一人の学生が金属製のスプーンを落とした。
レイヴンは即座に拾い上げる。
「……」
手の中でくるくる回す。
「いい。」
そしてポケットへ入れる。
学生は呆然とする。
「それ……」
「それ、僕のスプーンなんだけど……」
建物の端まで到着すると……
レイヴンは出口のゲートを見つめた。
小さく笑う。
「外。」
歩く速度を上げる。
しかし……
まだ脚には力が戻っていない。
ドンッ!
「え?」
身体のバランスを崩す。
そのまま柵を越える。
「えっ?」
ザッパァァァン!!
研究所のプールへ真っ逆さまに落ちた。
水しぶきがあちこちへ飛び散る。
学生たちが一斉に振り返る。
「……」
「……」
「レイヴン、プールに落ちた。」
何人かが慌てて浮き輪を取りに走る。
しかし数秒後……
バシャッ!
レイヴンが何事もなかったかのように浮上した。
髪はびしょ濡れ。
表情は無表情。
水を滴らせながらプールから上がる。
「……寒い。」
そして何事もなかったかのように、また歩き始めた。
数分後。
レイヴンの腹が鳴った。
グルルルル……
足が止まる。
目が一瞬で輝いた。
「……腹減った。」
鼻をひくつかせる。
頭が右へ動く。
そして左へ。
まるで餌を探すカラスのように。
そして……
食堂を見つけた。
目が大きく開く。
「……」
「食べ物。」
次の瞬間……
シュッ!!
レイヴンはすでにテーブルに座っていた。
職員が何か言うより早く……
何枚もの皿を手に取る。
パッ!
パッ!
パッ!
ご飯。
鶏肉。
魚。
果物。
パン。
すべてを一切の間を置かず口へ運んでいく。
次の食べ物を取るたびに、時折首を傾げる。
獲物の山を見つけたカラスそのものだった。
周囲の学生たちは、ただ見つめるしかない。
「……」
「食事してるのか、それとも競技でもしてるの?」
「揚げた鶏肉を見つけるたびに『カァ』って言いながら食べる人、初めて見た……」
誰かが光沢のあるスプーンをテーブルへ置いた。
その瞬間……
レイヴンは無意識にそれも取った。
「それ、僕の!」
レイヴンは持ち主を見る。
「……今は僕の。」
数分後。
テーブルの上は完全に空になった。
レイヴンは背もたれに身体を預ける。
「……満腹。」
そして……
光沢のあるキーホルダーを持った学生が目に入る。
目が輝く。
「おお……」
ゆっくり歩いていく。
キーホルダーを奪う。
そして逃げる。
「えっ!」
「レイヴン!」
別の学生たちも追いかける。
レイヴンは小さく笑いながら走り、さらに光る物を拾っていく。
ペン。
コイン。
バッジ。
ボルト。
さらには、まだ取り付けられていなかった予備のドアノブまで。
「カァ!」
「返せ!」
ブライソーン研究所の廊下が追いかけっこへと変わった。
やがて数人の警備員が前方から立ちはだかる。
「そこまでだ、レイヴン!」
レイヴンは曲がろうとする。
しかし別の警備員がすでに待ち構えていた。
「捕まえた。」
二人の警備員が両腕を掴む。
レイヴンは抵抗しない。
ただ首を傾げる。
「……カァ。」
一人の警備員がため息をついた。
「管理者ヤリスがお待ちだ。」
「我々と来い。」
レイヴンは素直に従った。
しかし密かに……
管理者のオフィスへ連れて行かれる途中、光る金属製のボタンを一つポケットへ入れた。
管理者室の扉が開く。
ギィィ……
二人の警備員がリオンを連れて入ってくる。
リオンはなおも左右へ首を傾げながら、部屋にある光る物を一つ一つ観察している。
「どうぞ。」
一人の警備員がため息をつく。
「……身体検査。」
もう一人の警備員がリオンのポケットを調べ始める。
ポトッ。
金貨一枚。
パサッ。
ペン二本。
チャリン。
金属製スプーン三本。
ドサッ。
研究所のバッジ。
ポトッ。
ボルト四本。
チャリン。
キーホルダー。
次々と物が落ちていき、床に小さな山ができていく。
リオンは残念そうな顔でそれを見つめるだけだった。
「……」
警備員が眉を上げる。
「ずいぶん多いな……」
リオンはコインを一枚取り戻そうとする。
警備員がすぐにその手を叩く。
「ダメだ。」
リオンは小さく鼻を鳴らす。
「……カァ。」
「座れ。」
リオンはようやく座った。
大きな机の向こう側。
一脚の椅子がゆっくりと回転する。
ギギギ……
ヤリスが姿を現した。
表情は穏やか。
怒ってもいない。
笑ってもいない。
ただリオンを見つめている。
数秒間……
部屋が静まり返る。
ヤリスが口を開く。
「……リオン。」
リオンが顔を上げる。
「ん?」
「まだ理性は残っているか?」
リオンはかなり長い間考えた。
そして無邪気に答える。
「……少し。」
ヤリスは一瞬目を閉じた。
「……難しいな。」
再び尋ねる。
「最後の任務でお前が持っていった物。」
「どこにある?」
リオンは首を傾げる。
「……カァ。」
「カァ?」
「……カァ。」
ヤリスは長く息を吐いた。
「非常に参考になる回答だ。」
椅子から立ち上がる。
大きな窓へ歩いていく。
ブライソーン研究所の人工の空を見つめる。
「……」
そして振り返らずに言った。
「空を変えろ。」
警備員たちはすぐに頷く。
「はい、管理者。」
ブズズズッ……
天井のホログラフィックパネルが動き始める。
昼の光がゆっくり消えていく。
夜空へと変わる。
無数の星が部屋を満たす。
人工の月がゆっくりと現れる。
その空を見た瞬間……
リオンの身体が硬直した。
呼吸が変わる。
「……」
「……カァ……」
ゆっくり立ち上がる。
目を大きく見開く。
動きが次第に荒々しくなる。
床を引っ掻き始める。
空気の匂いを嗅ぐ。
手がゆっくり胸へ伸びる。
まるで何かを取り出そうとしているように。
「押さえろ!」
二人の警備員が飛びかかる。
しかし……
ドガァァン!!
二人はリオンの身体が一度動いただけで壁まで吹き飛ばされた。
ヤリスがゆっくり振り返る。
「……仕方ない。」
コートの中へ手を入れる。
一枚のディスケットを取り出す。
ペン。
素早く数本の線を描く。
そして……
ディスケットを空中へ投げる。
ヒュイィィン……
リオンが飛びかかるより先に……
ディスケットが戻ってくる。
バキィィッ!!
ヤリスの頭部へ正確に突き刺さる。
ヤリスが目を開く。
「Lathe of Heaven。」
床に大きな時計のような円環が現れる。
針がゆっくり回転する。
チク……
チク……
そして停止する。
ちょうどリオンへ向けられた位置で。
ヤリスが片手を上げる。
その声が部屋中へ響き渡る。
「O dormite, creaturae inermes.」
白い薄い霧が時計の円環から現れる。
ゆっくりと部屋全体を満たしていく。
リオンが一歩踏み出そうとする。
しかし……
まぶたが次第に重くなる。
「……」
「……カァ……」
身体がふらつく。
そして……
ドサッ。
床に倒れ、眠りについた。
部屋は再び静寂に包まれた。
どれほど時間が経ったのか……
リオンはゆっくりと目を開いた。
視界はまだぼやけている。
やがて視界が戻ると……
部屋の奥にある玉座へ座る人物が見えた。
ヤリス。
静かに座り、何も言わずリオンを見つめている。
「……おかえり、リオン。」
白い霧が世界全体を満たしていく。
リオンはゆっくり目を開いた。
「……」
目の前には、果てのない夜空が広がっていた。
星の海が地平線を埋め尽くしている。
静寂の中……
ヤリスはなおも玉座に座っている。
リオンがゆっくり立ち上がる。
視線が再び荒々しくなる。
そのまま突進する。
シュッ!!
しかし身体はその場で止まった。
まるで空間そのものに拒絶されたかのように。
ヤリスが静かに息を吐く。
「……忘れていた。」
「説明がまだだったな。」
両腕を組む。
「リオン。」
「今、お前が見ているものは……」
「……お前の夢だ。」
リオンは低く唸るだけだった。
「……カァ……」
ヤリスは続ける。
「Lathe of Heavenは一人にしか使用できない。」
「持続時間は一分。」
「その後……」
「再び使用するには十二時間待つ必要がある。」
玉座から立ち上がる。
足音がゆっくり響く。
「その一分間だけ……」
「……私は客人だ。」
「だが夢の中では……」
「……客人こそが王だ。」
その言葉が響き渡る。
夜空が震える。
玉座。
星々。
大地。
すべてがゆっくりとヤリスへひれ伏していく。
その比喩は……
現実となった。
ヤリスは、何一つ彼を妨げるもののない場所を歩く。
リオンが再び攻撃を試みる。
ドガァン!!
周囲の空間が光の鎖へ変化する。
リオンの全身を拘束する。
「……カァァ!!」
ヤリスはリオンの目の前で立ち止まる。
小さなナイフを取り出す。
「心配するな。」
「お前を殺すものではない。」
ザクッ!
ナイフがリオンの胸へ突き刺さる。
血は出ない。
傷もない。
その代わり……
リオンの全身が空中を舞う歴史のページへと変わっていく。
ヤリスはそれを読み始めた。
「リオン……」
「救われ……」
「育てられ……」
「学び……」
「講師となり……」
次々とページをめくっていく。
そして一枚のページを見つける。
【野性的性質】
「……これか。」
ヤリスが手を上げる。
「この歴史を……」
「……消す。」
そこへ触れる。
しかし……
文字は微動だにしない。
「……?」
もう一度試す。
光が手を満たす。
それでもページは変化しない。
「ありえない。」
「私が失敗したことなどない。」
さらに力を込める。
それでも文字は変わらない。
数秒後……
ヤリスは手を下ろした。
目を細める。
「……なるほど。」
「Observerか。」
「Observerが生まれ持った性質は……」
「……変えることができない。」
彼は歴史の本をゆっくり閉じる。
「ならば……」
「……消しはしない。」
「だが……」
「……封じることはできる。」
ヤリスが片手を上げる。
リオンの足元に黒い扉が現れる。
「休め。」
「夢の底で。」
光の鎖が野性的性質を黒い扉の中へ引きずり込む。
ギギギギ……
扉がゆっくり閉じていく。
ヤリスはもう一度リオンの歴史のページを見る。
そこには空白ができていた。
ペンを取り出す。
新しい歴史を書き始める。
「……ユーモラス。」
文字がゆっくりとページ全体へ溶け込んでいく。
リオンの歴史が変化する。
しかし……
閉ざされた黒い扉の向こうから……
小さなノックの音が聞こえた。
コン。
コン。
ヤリスは一瞬だけ視線を向ける。
「……願わくば。」
「……二度と出てこないでくれ。」
突然……
鐘の音が空いっぱいに響き渡る。
チク。
チク。
巨大な時計の針が動き始める。
五十九。
六十。
時間切れ。
ヤリスは玉座へ振り返る。
身体が徐々に消えていく。
「……終わりだ。」
夢の世界が崩壊する直前……
ヤリスの歴史を記した一枚のページが、身体からゆっくりと剥がれ落ちる。
彼はそれをしばらく見つめる。
そして薄く笑った。
「……これは。」
「……それほど必要ではない。」
そのページは灰へと変わる。
永遠に消える。
次の瞬間……
夢の世界全体が白い光へと崩壊した。
ゆっくり……
リオンが目を開く。
「……」
夜空は消えていた。
白い霧も消えている。
彼は再び管理者室に戻っていた。
ヤリスはまだ仕事机の前に立っている。
数人の警備員が安堵の息を吐く。
「目を覚ました。」
リオンは何度か瞬きをする。
右手を見る。
そして左手。
「……僕……」
「……まだ生きてる?」
ヤリスはゆっくり頷く。
「まあな。」
「死んでいたら、この会話はずっと難しくなる。」
リオンは小さく笑う。
「へへへ……」
ヤリスはすぐに尋ねた。
「リオン。」
「最後の任務の前。」
「お前は何かを探していた。」
「何だったか覚えているか?」
リオンは勢いよく頷く。
「ああ! もちろん!」
ヤリスは待つ。
リオンが人差し指を上げる。
「それは……」
「……」
「とにかく物。」
「形は……」
「……えっと……」
「……丸?」
「でも時々、丸くない。」
「色は……」
「……色付き。」
ヤリスが瞬きをする。
リオンは真剣に考え続ける。
「それから……」
「その物は今、僕の身体の中にある。」
「それで……」
「……僕を……」
「……一人の……」
リオンが止まる。
頭を掻く。
「忘れた。」
部屋が静まり返る。
警備員の一人は笑いをこらえるため口を覆った。
ヤリスはただ呆然とする。
「……」
「……何?」
リオンは力強く頷く。
「うん。」
「忘れた。」
ヤリスは長く息を吐く。
「お前の言葉を翻訳してみよう。」
ゆっくり歩き出す。
「もし私の推測が正しければ……」
「その物はお前の身体と融合した。」
「そしてお前を……」
「……Observerにした。」
リオンは首を傾げる。
「Observer?」
ヤリスは頷く。
「そう呼ばれている。」
「彼らは世界を異なる方法で見る。」
「他の人間にとって普通に見えるものが……」
「……Observerにとっては力の源になり得る。」
「金ではない。」
「権力でもない。」
「血統でもない。」
「それは……」
「……知識だ。」
リオンは数秒間、虚空を見つめる。
そして素早く頷く。
「うん。」
「うん。」
「うん。」
「わかった。」
ヤリスが無表情で見つめる。
「……本当に?」
リオンは満面の笑みを浮かべる。
「ううん。」
「また質問されるのが怖かっただけ。」
部屋全体が静まり返る。
警備員の一人が思わず顔を背け、笑いをこらえる。
ヤリスはこめかみを押さえる。
「……よし。」
「では、最初から始めよう。」
リオンがすぐに手を上げる。
「はい、管理者。」
「……試験はなしで。」
ヤリスは天井を見上げる。
なぜか……
四か月の昏睡では、リオンを普通にするには足りなかったような気がした。
ヤリスは管理者室を出ていく。
「ついてこい。」
リオンもその後ろについていく。
二人はブライソーン研究所の長い廊下を歩く。
彼らを見た学生や職員たちが立ち止まる。
「レイヴン……」
「戻ってきたんだ。」
しかし今回は……
ヤリスは何の影響も受けず歩き続ける。
リオンは小さく手を振る。
「やあ。」
何人かが驚く。
「挨拶した……」
「本当に変わった……」
ヤリスが一瞥する。
「彼らのことは忘れろ。」
「もっと重要な話がある。」
リオンが振り返る。
「何?」
ヤリスは大きな窓の前で立ち止まる。
外にはブライソーンの広大な次元が広がっている。
「ゼロニウム。」
リオンは黙る。
ヤリスは続ける。
「お前の身体に入った物。」
「今まで……」
「……誰一人として、本当の意味で理解できていない物質だ。」
彼は自分の手を見る。
「鉱物だと考える者もいる。」
「生物だと呼ぶ者もいる。」
「ゼロニウムとは、まだ説明できていない自然現象にすぎないと信じる者もいる。」
リオンは聞き続ける。
今度は冗談を言わない。
ヤリスは次元の空を見つめる。
「しかし、一つだけ必ず起きることがある。」
「誰かがゼロニウムを理解しようとするたび……」
「……ゼロニウムのほうが、その人間を理解しているように感じられる。」
廊下がさらに静かになる。
「まるで……」
「観察されているだけではない。」
「こちらを観察し返しているように。」
リオンは自分の手を見る。
「じゃあ……」
「ゼロニウムは僕を見ているの?」
ヤリスは小さく頷く。
「大体はな。」
「そしてゼロニウムが誰かを選んだ時……」
「……その人間の世界の見方は、二度と元には戻らない。」
ヤリスはリオンを見る。
「かつて単純に見えていた世界が……」
「……はるかに大きなものへ変わっていく。」
リオンは黙る。
ヤリスは続ける。
「それがお前に起きたことだ。」
「そして……」
「私にも起きた。」
リオンは興味深そうにヤリスを見る。
「じゃあ……」
「管理者も?」
ヤリスは再び歩き始める。
「そうだ。」
「違いは……」
「私はその変化と共に生きてきた時間が長い。」
リオンは前方の廊下を見る。
多くの扉。
多くの部屋。
まだ理解していない多くのもの。
ヤリスが静かに言う。
「本当の世界へようこそ、リオン。」
「これまでずっとお前の目の前にあった世界だ。」
「だが、お前には見ることができなかった。」
ヤリスは再びゆっくり歩く。
靴音が静まり返った廊下に響く。
振り返らずに言う。
「まだ一つ、知っておくべきことがある、リオン。」
リオンが顔を上げる。
「何?」
「お前は星空に非常に敏感だ。」
「特に、長時間見つめた時にな。」
リオンは黙る。
「それがお前の野性的性質を引き起こす。」
「常にではない。」
「だが、その可能性は常に存在する。」
リオンは無意識に窓の方を見る。
ヤリスは続ける。
「ひとまず……」
「……私はそれを封じた。」
「だから今は、星を見てもすぐに制御を失うことはない。」
「しかし……」
ヤリスが歩みを止める。
少しだけ振り返る。
「その封印がいつ開くのかは分からない。」
「数年後かもしれない。」
「あるいは……明日かもしれない。」
リオンは唾を飲み込む。
「どうして僕はこんな風になるの?」
ヤリスはゆっくり首を振る。
「それは私にも答えられない。」
「本当の理由を知っている者がいるとすれば……」
「……それは、お前自身だ。」
リオンは長い間黙っていた。
ヤリスが身体を反転させる。
「自分自身を怖がりすぎるな。」
「だが、自分を信用しすぎるな。」
再び歩き去っていく。
「ゆっくり休め、リオン。」
数歩進んだところで……
ヤリスの姿が廊下の向こうへ消えた。
リオンは目的もなく歩き続ける。
やがて庭園のベンチへ腰を下ろした。
夕方の風が静かに吹く。
木の葉が落ちていく。
一枚。
二枚。
三枚。
リオンは黙ってそれを見つめる。
「……」
「変だよな。」
「四か月も、あっという間に消えた。」
しばらくして……
誰かがやって来た。
何も言わず……
リオンの隣に座る。
二人は落ち続ける葉を眺める。
リオンがちらりと横を見る。
「……Boss 429。」
女性は小さく頷いた。
「そう。」
リオンが沈黙を破る。
「どうして……まだここにいるの?」
Boss 429は薄く笑う。
「私も最初は去ろうと思ってた。」
「でも……」
「……一つ話をする義理があると思ってね。」
リオンは彼女を見る。
Boss 429は静かに息を吐く。
「今まで……」
「私は自分の商売のことしか考えていなかった。」
「品物が希少であればあるほど……」
「……値段が上がる。」
「それが私の仕事。」
「それが収入源。」
小さく笑う。
「考えてみて。」
「苦労して売ろうとしていた商品を……」
「……突然、代金を払う前に持ち逃げされた。」
「当然、追いかける。」
リオンは頬を掻く。
「……考えてみれば……」
「……僕も悪かった。」
Boss 429は頷く。
「そうね。」
「少し。」
「少し?」
「かなり。」
二人は小さく笑う。
再び静寂が訪れる。
Boss 429は紙袋から何かを取り出す。
温かいハンバーガー。
リオンへ差し出す。
「食べて。」
リオンが瞬きをする。
「僕に?」
Boss 429は頷く。
「謝罪の印。」
「私のせいで……」
「……かなり酷い目に遭わせたから。」
リオンはゆっくりハンバーガーを受け取る。
数秒見つめる。
そして薄く笑った。
「ありがとう。」
Boss 429は再び落ちる葉を見る。
「これくらい……」
「……ほんの少しの賠償だと思って。」
リオンは包装を開く。
ゆっくり一口かじる。
「ん……」
「美味しい。」
Boss 429は薄く笑う。
「それならよかった。」
リオンはもう一度かじる。
数秒が過ぎる。
そして沈黙を破る。
「……Boss。」
「ん?」
「実は……」
「ゼロニウムをどうやって手に入れたの?」
Boss 429はすぐには答えなかった。
ベンチの隣に落ちた葉を拾う。
指の間でゆっくり回す。
「売買を通して。」
リオンが首を傾げる。
「誰から?」
Boss 429は肩をすくめる。
「ある会社。」
「名前は……」
「Y, Cooper, and Sealion 7。」
リオンは眉をひそめる。
「聞いたことない。」
「私も。」
リオンは困惑する。
「え?」
Boss 429は小さく笑う。
「彼らが実際に何者なのか、私は知らない。」
「ほとんど何も話さない。」
「商品の出所も説明しない。」
「協力も求めない。」
「金さえ持っていれば……」
「……売る。」
「それだけ。」
「考えてみれば……」
「私よりも金を重視している。」
リオンは小さく笑う。
「それはかなり酷いね。」
「そうね。」
Boss 429は続ける。
「私はゼロニウムを二つ購入した。」
「値段は、財布が泣き出すほど高かった。」
「最初は……」
「……片方を研究できると思っていた。」
「だが……」
「研究している最中……」
「……それが突然、私の身体に入った。」
リオンが振り向く。
「もう一つが……」
「……僕の身体に入った。」
リオンは黙る。
Boss 429がため息をつく。
「一つ残った。」
「だから、売ったほうがいいと思った。」
「できるだけ高く値段をつける。」
「売れれば……」
「……利益は莫大。」
リオンは自分の手を見る。
「……そういうことか。」
風が再び吹く。
葉が落ち続ける。
しばらく沈黙した後……
リオンが小さく呟く。
「……たぶん……」
「……僕、密輸屋になる。」
Boss 429がすぐに振り向く。
「……何?」
リオンは独り言のように話す。
「もし彼らのネットワークに入れたら……」
「……あの会社に役立つ人間だと思われるかもしれない。」
「それで……」
「……彼らの一員になれる。」
Boss 429は眉をひそめる。
「何のために?」
リオンは夕空を見る。
「ゼロニウムの中心が……」
「……どこにあるのか知りたい。」
「こんな物が取引され続ければ……」
「……いつか、僕たちと同じ運命になる人がもっと増える。」
Boss 429はしばらくリオンを見つめる。
そして静かに尋ねた。
「どうして?」
リオンが振り返る。
「どうしてそこまでする?」
「潜入するつもり?」
「命まで懸けるの?」
「他人のためだけに?」
リオンは薄く笑う。
幸せそうには見えない笑顔。
「もし本当に見つけられたら……」
「……多くの人を救えるかもしれない。」
「それなら……」
「……僕が犠牲になればいい。」
Boss 429は黙った。
リオンは続ける。
「正直……」
「……僕自身も分からない。」
「どこへ行けばいいのか分からない。」
「人生の目的も分からない。」
「ただ一つの道を選んで……」
「……歩き続けているだけ。」
ほとんど食べ終わったハンバーガーを見る。
「変だよな?」
「僕には友達がたくさんいる。」
「いい人たち。」
「帰る場所もある。」
「でも……」
「……それでも一人ぼっちに感じる。」
Boss 429は口を挟まない。
リオンは再び笑う。
今度はもっと静かに。
「時々思うんだ……」
「僕の幸せって、本当は自分の内側から生まれたものじゃないのかもしれない。」
「まるで皆が笑っているから……」
「……自分も一緒に笑っているだけみたいに。」
再び庭園が静寂に包まれる。
Boss 429はリオンの顔を見る。
初めて……
彼女には、彼が自分の商品を盗んだ間抜けな少年には見えなかった。
そこにいたのは……
……歩き続ける理由を探している一人の人間だった。
そしてなぜか……
その光景が、彼女の胸を少し締めつけた。
リオンとBoss 429はまだ庭園に座っていた。
夕方の風が木々の間を通り抜ける。
葉が二人の間にゆっくり落ちる。
しばらく、二人はただ黙っていた。
やがてリオンが口を開く。
「Boss。」
「ん?」
「ゼロニウムをどこから手に入れたの?」
Boss 429は空を見上げる。
「ゼロニウム?」
「うん。」
「正直に言うと……」
「買った。」
リオンが振り向く。
「買った?」
Boss 429は頷く。
「ある会社から。」
「名前は……」
「Y, Cooper, and Sealion 7。」
リオンは眉をひそめる。
「長い名前。」
「高級料理を出すレストランみたい。」
Boss 429が彼を見る。
「会社だ。」
「あ。」
リオンは少し黙る。
「……それでもレストランみたい。」
Boss 429は無視した。
「非常に謎の多い会社。」
「私が知っていることは一つだけ。」
「とても金持ち。」
「そして金にしか興味がない。」
リオンは手に持ったハンバーガーを見る。
「じゃあBossと似てる?」
Boss 429は黙る。
「……」
「そうね。」
「違いは、私のほうが正直。」
リオンが眉を上げる。
「変な物を売ってることを正直に言う?」
「そう。」
「それも変だよ。」
Boss 429はため息をつく。
「ゼロニウムを二つ、非常に高い値段で買った。」
「計画は……」
「一つを研究する。」
「もう一つを、さらに高い値段で売る。」
「それで?」
Boss 429はリオンを見る。
「一つは私の身体に入った。」
「そしてもう一つは……」
リオンが自分を指差す。
「……僕の身体に入った。」
「その通り。」
二人は黙る。
リオンは自分の手を見る。
「つまり……」
「僕は逃げた商品だったの?」
Boss 429は頷く。
「大体そんなところ。」
リオンは考えた。
長い。
ものすごく長い。
Boss 429が怪訝そうに尋ねる。
「何を考えてるの?」
リオンは真剣に彼女を見る。
「密輸屋になるべきだと思う。」
Boss 429はすぐに振り向く。
「……何?」
「もし僕があの世界に入れたら……」
「あの会社が僕を認めるかもしれない。」
「ゼロニウムの中心について情報を探せる。」
「そして答えを見つける。」
Boss 429は信じられないものを見るような顔をした。
「お前……」
「人生の方向を失ったことに気づいた直後に……」
「……最初に選んだのが密輸屋なの?」
リオンは頷く。
「考えてみれば……」
「面白そうな仕事だよ。」
「そんなことを嬉しそうな顔で言わないで。」
リオンは小さく笑う。
「でも新しいことだ。」
Boss 429は首を振る。
「本当に変な子ね。」
リオンは落ちる葉を見る。
「うん。」
「たぶん。」
少し黙る。
「それに……」
「僕は英雄になりたいからやるわけじゃない。」
Boss 429が彼を見る。
「じゃあ、なぜ?」
リオンは俯く。
「家族を探したい。」
空気が静かになる。
「僕は、自分の家族が本当は誰なのかすら知らない。」
「これまでずっと、状況に流されながら歩いてきた。」
「周りにはたくさんの人がいる。」
「友達。」
「僕を気にかけてくれる人たち。」
「でも……」
リオンはハンバーガーの包み紙を握る。
「それでも、僕は一人ぼっちに感じる。」
Boss 429は何も言わない。
「まるで……」
「みんなが僕の笑顔を見たいから、笑っているだけみたいに。」
「本当に幸せだから笑っているんじゃない。」
リオンは小さく笑う。
「たぶん僕は、本当に自分のものだと言える何かを見つけたいんだ。」
Boss 429は黙った。
初めて……
彼女はリオンを、問題ばかり起こす変な少年として見なかった。
そこにいるのは……
歩き続ける理由を探している一人の人間だった。
数秒後……
リオンが振り向く。
「それで……」
「闇市場に入るの、手伝ってくれる?」
Boss 429はすぐに我に返る。
「さっき感動的な話をした直後に、そこを選ぶの?」
リオンは頷く。
「うん。」
「……」
「雰囲気をわざと気まずくしてるんじゃないかと思えてきた。」
リオンは小さく笑う。
「かもね。」
Boss 429はため息をつく。
「一つ、組織を知ってる。」
「名前はThe Iron Borough。」
リオンがすぐに反応する。
「彼らは闇の世界では大きな組織。」
「国境を越えた麻薬取引。」
「それに、Y, Cooper, and Sealion 7とも関係があった。」
リオンは薄く笑う。
「面白い。」
Boss 429が彼を見る。
「本当に興味があるの?」
「少し。」
「その答えは安心できない。」
リオンは立ち上がる。
「でも……」
「僕にはまだ講師としての仕事がある。」
Boss 429が眉を上げる。
「密輸屋になりながら教えるつもり?」
リオンは考える。
「……忙しそう。」
「そして疲れそう。」
「いいじゃない。」
Boss 429は困惑する。
「いい?」
「忙しければ、あまり考えすぎなくて済む。」
Boss 429は黙った。
そしてため息をつく。
「本当に理解しづらい子ね。」
リオンは笑う。
「ありがとう。」
「褒めてない。」
「あ。」
「じゃあ……」
「それでもありがとう。」
Boss 429は小さく笑わずにはいられなかった。
「分かった。」
「いつか本当にThe Iron Boroughへ入りたいと思ったら……」
「手伝ってあげる。」
リオンは彼女を見る。
「パートナーとして?」
Boss 429は頷く。
「パートナーとして。」
しばらくして……
リオンは自分の道がまだ混沌としていると感じていた。
それでも少なくとも……
一人では歩いていない。
夕暮れがブライソーン研究所を包み始める。
講師室。
リオンはいくつかの引き出しを開ける。
「本……」
「入れる。」
ポトッ。
「懐中電灯……」
「入れる。」
ポトッ。
「服……」
「入れる。」
リオンはバッグの中を見る。
「うん……」
「十分。」
手が古いペンの前で止まる。
机の隅に置かれていた。
リオンはゆっくり手に取る。
「……」
薄く笑う。
「君のこと、忘れかけてた。」
そのペンをバッグの内側のポケットへ入れる。
コンコン。
扉がノックされる。
「どうぞ。」
カローラが二つの弁当箱を持って扉を開ける。
「まだ食べてないと思って。」
机の上へ置く。
リオンが笑う。
「ありがとう。」
カローラはリオンの隣にある大きなバッグを見る。
「出かけるの?」
リオンは頷く。
「私用。」
「重要?」
「うん。」
「どれくらい?」
リオンは肩をすくめる。
「僕にも分からない。」
「すぐかもしれない。」
「長くなるかもしれない。」
「でも……」
「戻ってくるよ。」
カローラは小さく笑う。
「じゃあ、他の講師に授業を代わってもらうよう頼んでおく。」
リオンは頷く。
「ありがとう。」
バッグを持ち上げる。
「じゃあ……」
「行ってくる。」
扉を開けようとした時……
リオンの目に何かが入った。
本棚の近く……
小さなトカゲの人形がある。
くすんだ緑色。
目は黒いボタン。
身体は雑に縫われている。
「……」
リオンが首を傾げる。
「かわいい。」
カローラがすぐに振り返る。
顔色が変わる。
「リオン。」
「ダメ。」
リオンはすでにしゃがんでいる。
「学生の人形かもしれないよ。」
カローラが急いで近づく。
「触るな!」
しかし……
遅かった。
トカゲの人形が突然、頭を持ち上げる。
目が赤く光る。
カチッ。
口が大きく開く。
ズバァッ!!
「ぎゃああああ!!」
リオンが叫ぶ。
左腕が一噛みで切断された。
血が床へ飛び散る。
「痛い! 痛い! 痛い!」
リオンは肩を押さえながら回転する。
「僕の腕!」
「僕の腕どこ!?」
カローラがすぐに飛びかかる。
しかし人形のほうが速い。
切断されたリオンの腕を抱きしめる。
身体が蠢き始める。
ギシ……ギシ……
肉の塊。
骨。
皮膚。
指。
すべてが重なり合う。
小さなリオンそっくりの人形を形成する。
おぞましい姿。
人形が目を開く。
「……」
そして笑う。
「へへへ。」
まだ顔をしかめているリオンが見つめる。
「……」
「僕?」
小さな人形が手を振る。
「結構似てる。」
「えっ!?」
トカゲの人形がそのコピーを抱える。
そして……
シュッ!!
二体は換気口を通って逃げていった。
「待て!」
カローラが全速力で追いかける。
跳ぶ。
走る。
廊下を駆け抜ける。
しかし……
換気口の端へ到着した時には……
二体とも消えていた。
カローラは拳を握る。
「……くそ。」
彼女は部屋へ戻る。
リオンは床に座り、現在は応急医療装置で肩を包帯固定されている。
「まだ痛む?」
「少し。」
「さっき世界が終わるみたいな叫び方をしてた。」
「……反射的に。」
カローラはため息をつく。
「あれは普通の異常存在じゃない。」
「あれは……」
「……Horizon。」
リオンが顔を上げる。
「Horizon?」
カローラはゆっくり頷く。
「問題は……」
彼女は考え始める。
「ブライソーンのデータベースによれば……」
「確認されているObserverは……」
「ヤリス。」
「86。」
「スープラ。」
「スプートニク。」
「Boss 429。」
「……君。」
「そして私。」
カローラは今は静かな換気口を見る。
「もしあの人形が本当にHorizonを使っていたなら……」
「……もう一人のObserverがいる。」
「しかも誰にも気づかれず……」
「……ブライソーンへ侵入している。」
部屋が静まり返る。
リオンは床に落ちた血を見る。
初めて……
彼はこれから始めようとしている旅が……
すでに知らない誰かによって監視されているのかもしれないと感じた。
カローラはすぐにリオンの肩を応急処置用の包帯で固定する。
「動かないで。」
「動き続けると出血が止まりにくくなる。」
リオンは弱々しく頷く。
「……変だな。」
カローラが見る。
「何が?」
「力が……」
「……ずっと奪われているような感じがする。」
リオンが拳を握ろうとする。
しかし指が震える。
頭を上げることさえ辛そうだ。
カローラは眉をひそめる。
「それは失血じゃない。」
「どちらかというと……」
「……エネルギーが消耗している。」
リオンは長く息を吐く。
「さっきのトカゲ人形の効果?」
「かもしれない。」
カローラはリオンの肩に残る噛み跡を見る。
「Horizonは腕だけを奪ったんじゃない。」
「どうやらお前のエネルギーの一部まで奪っている。」
リオンは小さく笑う。
「すごいな……」
「まだ休暇にも行ってないのに……」
「……もうローバッテリーだ。」
カローラはゆっくり首を振る。
「まだ冗談が言える。」
「致命的な状態ではない証拠ね。」
リオンは息を吐く。
「僕にはまだ一つ方法がある。」
残った力で……
一枚のディスケットを取り出す。
ペン。
素早く線を描く。
ディスケットを空中へ投げる。
ヒュイィィン……
ディスケットが戻り、頭部を貫く。
リオンが顔を上げる。
「Gates of Fire!」
ドォォォン……
二体の姿が背後に現れる。
戦闘用の鎧を身につけた人型の象。
そしてスパルタン風の服を着た人型の鹿。
二体は直立し……
命令を待つ。
リオンが静かに言う。
「カローラ……」
「実は……」
「Gates of Fireは……」
「……約三百人の兵士を召喚できる。」
カローラが眉を上げる。
「三百人?」
リオンは頷く。
「最初に出てくるのは……」
「……彼らの指揮官。」
象と鹿が武器を床へ叩きつける。
ドン!
次の瞬間……
兵士たちの影が廊下中に現れ始めた。
一人。
十人。
五十人。
百人。
そしてついに……
三百人の兵士が研究所の一帯を埋め尽くした。
カローラがすぐに命令する。
「Quaerite! Invenite! Capturate!」
全軍が足を踏み鳴らす。
ドォン!
そして四方へ散開した。
トカゲの人形……
そしてそれを操るObserverを探すために。
カローラがリオンを見る。
「今、一番重要なのは……」
「君。」
彼女はリオンを背負い上げる。
「え。」
「僕、まだ歩ける……」
「ダメ。」
「転ぶ。」
「確かに。」
カローラはリオンを背負ったまま部屋を飛び出す。
しかし……
数歩進んだところで……
彼女が突然止まる。
「……」
リオンも振り向く。
「……」
目の前の廊下は……
トカゲの人形で埋め尽くされていた。
数十体。
そして数百体。
すべてが静かに立っている。
同時に振り返る。
ギギギ……
首が百八十度回転する。
カローラとリオンを見る。
その背後では……
何人もの講師と学生が床に力なく座り込んでいる。
「うっ……」
「力が……」
「どうしてなくなる……」
トカゲの人形はさらに増えていく。
リオンは唾を飲む。
「……」
「なんか……」
「……大学の噂話より速く増えてない?」
カローラはすぐに身体を反転させる。
「走れ。」
「え?」
「走れ!」
ギャアアアッ!!
数百体のトカゲの人形が一斉に叫び、二人を追い始めた。
カローラは全速力で走る。
廊下は大混乱になる。
「左!」
リオンが指差す。
カローラはすぐに曲がる。
ドカッ!
しかし清掃用カートへ突っ込んだ。
バケツ。
ほうき。
モップ。
すべてが宙を舞う。
「ごめんなさい!」
清掃員へ叫びながら止まらない。
トカゲの人形たちは逆に滑って転ぶ。
ベチャッ!
ザブン!
数体が互いに衝突する。
しかし……
残りは追い続ける。
「カローラ!」
「今度は何!?」
「まだ後ろにいる!」
「分かってる!」
「どうして分かるの?」
「音が聞こえる!」
リオンが後ろを見る。
「……」
「さらに近づいてる。」
カローラは速度を上げる。
突然……
一体のトカゲ人形が跳んできた。
リオンは反射的に蹴る。
ポン!
人形が別の人形へ跳ね返る。
まるでドミノのように。
トン! トン! トン! トン!
数十体が一斉に倒れる。
リオンが瞬きをする。
「……」
「ゴール。」
「勝利宣言してる場合じゃない!」
カローラはリオンを背負ったまま走り続ける。
背後では……
数百体のトカゲ人形が疲れを知らず追いかけ続ける。
小さな足音がブライソーン研究所全体に響き渡る。
本来なら不気味であるはずの光景が……
研究所史上もっとも混沌とした追跡劇へ変わっていった。
カローラは振り返らずに走る。
「こっち!」
廊下の端に狭いサービス通路が見える。
カローラはすぐに曲がる。
シュッ!
数百体のトカゲ人形も追って曲がる。
「まだ後ろにいる!?」
リオンは半分眠ったような状態で呟く。
「……多い……」
カローラはため息をつく。
「それは見れば分かる。」
通路はさらに狭くなる。
その先にはゴミ袋の山。
出口はない。
「……行き止まり。」
トカゲ人形がどんどん近づいてくる。
カローラは右を見る。
左を見る。
そして……
「……ごめん。」
リオンを抱えたまま、大きなゴミ箱の中へ飛び込む。
ガサッ!
蓋をゆっくり閉める。
外では……
トン……トン……トン……
数百の小さな足音が止まる。
静寂。
トカゲ人形たちは空気を嗅ぐ。
一体ずつゴミ箱の横を通り過ぎる。
カローラは息を止める。
一体の人形がゴミ箱の蓋の上へ乗る。
ギシ……
カローラは自分の口を押さえる。
人形が首を傾げる。
静止。
そして……
再び降りる。
群れ全体がようやく去っていった。
「……」
カローラは安堵の息を吐く。
「危なかった。」
突然……
耳元から声が聞こえる。
「……司令官。」
カローラは目を閉じる。
自分のHorizonからの声だ。
「全隊員は中央バンカーへ移動せよ。」
「敵が研究所全体へ拡散している。」
カローラが目を開く。
「全員、バンカーに?」
声が消える。
カローラは顔を擦る。
「問題は……」
「どうやってそこへ行く?」
蓋を少し開ける。
廊下にはまだトカゲ人形が徘徊している。
「……」
「普通に行くのは無理。」
ゴミ箱の中を見る。
段ボール。
破れた布。
ビニール。
ボトル。
缶。
数分後……
カローラは笑った。
「いい考えがある。」
三十分後。
リオンはまだ熟睡している。
カローラは裁縫に没頭していた。
「どうして裁縫ができるのかは聞かないで。」
針が素早く動く。
糸を繋ぐ。
布を貼る。
ビニールを切る。
缶を目にする。
やがて……
二着のトカゲ人形の衣装が完成した。
完全に同じ。
あまりにも完璧。
カローラは完成品を見る。
「……」
「これは出来が良すぎる。」
まだ眠っているリオンに一着を着せる。
そして自分ももう一着を着る。
今や……
二人は完全にトカゲ人形に見えた。
カローラは眠るリオンの顔を見る。
小さく笑う。
「……ごめんね。」
「二人目の父親として……」
「どうやら私はまだ君を守るのが上手じゃないらしい。」
リオンは答えない。
静かに呼吸している。
カローラは彼を抱き上げる。
「よし。」
「帰ろう。」
潜入作戦が始まった。
カローラは通路へ出る。
ゆっくり。
非常にゆっくり。
一体のトカゲ人形が通り過ぎる。
カローラも同じように歩く。
小さな歩幅。
硬直した腕。
少しだけ首を揺らす。
「……」
人形が横目で見る。
カローラも首を傾げる。
人形がさらに首を傾げる。
カローラもさらに傾げる。
数秒後……
人形はそのまま去っていった。
カローラは安堵の息を吐く。
「成功。」
しかし……
前方には……
数体のトカゲ人形が円になって立っている。
何をしているのか分からない。
その一体が手を振る。
カローラは反射的に手を振り返す。
「こんにちは。」
トカゲ人形たちが突然動きを止める。
カローラも固まる。
「……」
「……」
数秒間という長い時間が流れる。
そして一体の人形が手を振り返した。
カローラは何事もなかったように歩き続ける。
背中では……
眠っているリオンが寝言を言う。
「……フライドチキン……」
カローラはすぐに彼の頭を軽く叩く。
「しーっ。」
「寝てる時まで腹減ってるのか。」
旅は続く。
次の交差点。
二体のトカゲ人形が互いを見つめたまま動かない。
カローラも止まる。
そして同じように彼らを見つめる。
一分。
二分。
カローラは困惑し始める。
「……本当にこういう動きなの?」
ようやく二体の人形が去っていく。
カローラも歩き出す。
「……私、よく我慢した。」
数本の廊下を進んだ先……
「中央バンカー →」
と書かれた看板があった。
カローラは安堵の笑みを浮かべる。
「もう少し。」
再び小さな歩幅で歩く。
非常にリアルなトカゲ人形の動きで。
その腕には……
「トカゲ人形」が一体。
実際には熟睡中のリオンだった。
誰一人として気づかなかった。
廊下でもっとも奇妙な二体の「人形」が……
実は、彼らが探している標的だということに。
バンカーの扉がゆっくり開く。
ブズッ……
カローラはまだ眠っているリオンを抱えて中へ入る。
二人を見た瞬間……
全員が振り向いた。
「カローラ!」
「姉さん!」
「二人とも無事だった!」
カローラはリオンを慎重に緊急ベッドへ下ろす。
それからトカゲ人形の衣装を脱ぐ。
86は笑いをこらえるため口を覆う。
「……カローラ姉さんがなんでそれを着てたのかは聞かない。」
スープラが静かに頷く。
「時には、聞かないほうがいい質問もある。」
カローラはため息をつく。
「信じて。」
「あなたたちも答えを知りたくない。」
ヤリスが腕を組む。
「状況は?」
カローラは首を振る。
「敵のObserverはまだ見つかっていない。」
「だが……」
「Gates of Fireが探している。」
ヤリスは小さく頷く。
「悪くない。」
カローラは部屋全体を見る。
「私が気になるのは……」
「どうして全員ここに集まってるの?」
「ここにいる五人はHorizonを持っている。」
「どうして戦わない?」
部屋が数秒静まり返る。
ヤリスが最初に手を上げた。
「私のHorizonは制限が多い。」
「一つの対象にしか使えない。」
「しかも今は再使用待機中だ。」
86が頭を掻く。
「……僕は……」
「最初の理由を忘れた。」
全員が彼を見る。
86も困惑する。
「……本当に。」
「完全に忘れた。」
スープラがため息をつく。
「私の場合は単純。」
「動物がいない。」
「動物なしでは……」
「ほとんど何もできない。」
スプートニクが肩をすくめる。
「Devil Wears Outfitsは防御には向いている。」
「でも無理に攻撃を続けると……」
「……ファッションショーみたいになる。」
Boss 429は壁に背を預ける。
「私の場合は……」
「……今、やる気がない。」
部屋全体が静まり返る。
カローラが見つめる。
「それが理由?」
Boss 429は気楽に頷く。
「そう。」
カローラはこめかみを押さえる。
「……分かった。」
突然……
Gates of Fireの人型の象が現れる。
カローラの前に跪く。
「司令官。」
「敵Observerを発見。」
カローラがすぐに振り向く。
「どこ?」
「監視カメラ室。」
「しかし……」
「自身のHorizonに守られている。」
全員の表情が一気に真剣になる。
その時、スプートニクが手を上げた。
「思い出した。」
「あの人形は布でできている。」
「布が濡れれば……」
「……動きは弱くなるはず。」
86が机を叩く。
「なるほど!」
スープラも頷く。
「なら……」
「研究所全体に水を撒けばいい。」
全員が彼を見る。
「……」
スープラが頭を掻く。
「……考えてる時は簡単に聞こえた。」
86が突然指を鳴らす。
「待て。」
「メインの給水タンクがある。」
「研究所全体の水はそこから供給されてる。」
スープラも思い出す。
「そうだ。」
「中央ユーティリティ室にある。」
ヤリスが顔を上げる。
「私……」
「……そんな巨大なタンクがあることを今知った。」
86が彼を見る。
「管理者……」
「時々、本当に自分のオフィスのことしか知らないよね。」
ヤリスはその言葉を無視する。
「そのタンクを破壊すれば……」
「主要区画全体が水浸しになる。」
「人形たちの優位性を失わせられる。」
立ち上がる。
「よし。」
「役割を分担する。」
ヤリスが一人ずつ指名する。
「86。」
「スープラ。」
「ユーティリティ室へ向かえ。」
「給水タンクを破壊しろ。」
二人が頷く。
「了解。」
ヤリスはスプートニクを見る。
「防御の準備を。」
スプートニクが笑う。
「船?」
「そうだ。」
「研究所が川になったら……」
「……少なくとも溺れずに済む。」
スプートニクが小さく敬礼する。
「了解。」
「カローラ。」
「スプートニクと同行しろ。」
「洪水が始まったら……」
「……そのまま監視カメラ室へ向かえ。」
カローラは力強く頷く。
「了解。」
ヤリスは眠っているリオンを見る。
「私はバンカーに残る。」
「リオンを守る。」
「いや。」
Boss 429の声が会話を遮った。
全員が振り向く。
「私が守る。」
ヤリスが目を細める。
「理由は?」
Boss 429は腕を組む。
「全員が出るなら……」
「前線にはもう一人必要。」
「私はまだ戦える。」
「それに……」
眠っているリオンを見る。
「……あの子はどこにも行かない。」
ヤリスは数秒間彼女を見つめる。
二人の視線がぶつかる。
部屋が静まり返る。
やがて……
ヤリスはゆっくり頷いた。
「……分かった。」
「だが、リオンに何かあったら。」
「……お前に責任を取ってもらう。」
Boss 429は薄く笑う。
「当然ね。」
ヤリスは全員へ向き直る。
「では……」
「作戦開始。」
全員が立ち上がる。
一人ずつ任務へ向かっていく。
バンカーの隅では……
リオンがまだ熟睡していた。
知らないまま……
自分を救うために大規模な作戦が始まっていることを。
「作戦開始。」
全員が一斉に動き出す。
ユーティリティ室
86とスープラが廊下を走る。
警報が鳴り続けている。
ユーティリティ室へ到着すると……
二人は顔を上げた。
巨大な給水タンクが天井から吊り下げられている。
86が小さな笛を吹く。
「うわ……」
「これ漏れたら、研究所がプールになる。」
スープラが工具箱を取り出す。
「だから大きすぎるなって。」
86がディスケットを取り出す。
ペンを素早く動かす。
ディスケットを空中へ投げる。
ヒュイィィン!!
「……1984。」
身体を覆うように数十個のスピーカーが現れる。
86がタンクを指差す。
「Silentium Ruina。」
すべてのスピーカーが低周波音を放つ。
ブゥゥゥゥゥゥン……
タンクが震え始める。
小さな亀裂が生まれる。
亀裂がさらに広がる。
ギギギギ!!
ドォォォォン!!
給水タンクが破裂する。
大量の水が研究所全体へ噴き出した。
スープラはすぐに走る。
バッグを開く。
工業用接着剤。
鉄板。
巨大なボルト。
溶接工具。
86が瞬きをする。
「それ持ってたの?」
「常に。」
スープラが飛び上がる。
ガン! ガン! ガン!
最大の穴を塞ぐ。
水はまだ流れ出ている。
しかし今では一部だけだ。
「これで十分。」
「研究所は沈まない。」
主要廊下
水が床全体を満たし始める。
トカゲ人形たちはバランスを失う。
ポトッ!
パシャッ!
一体ずつ倒れていく。
布が水を吸収する。
身体が柔らかくなる。
動きがどんどん遅くなる。
スプートニクが笑う。
「私の出番ね。」
ディスケットを取り出す。
「……Devil Wears Outfits。」
「Build the Ark!」
数百着の服が空中へ飛び上がる。
融合する。
回転する。
ジャケット。
コート。
研究用白衣。
学生服。
すべてが巨大な船へ変化していく。
カローラが瞬きをする。
「……聞かないことにする。」
スプートニクが船へ飛び乗る。
「乗って!」
ヤリスとカローラも乗り込む。
服でできた船が洪水の上を滑っていく。
シュォォォォ!!
道を塞ぐトカゲ人形を次々と弾き飛ばす。
バキッ!
一部が倒れる。
一部は濡れた布の塊へ変わる。
監視カメラ室付近
数十体のトカゲ人形がまだ残っている。
カローラが手を上げる。
「……Gates of Fire。」
「Circumdare! Expugnate!」
三百人の兵士が一斉に突撃する。
象たちが突進する。
鹿たちが槍を突き出す。
廊下が戦場へ変わる。
数分後……
すべての人形が破壊された。
「道は安全。」
カローラが扉を開く。
ギィ……
三人が中へ入る。
監視カメラ室は暗い。
数十台のモニターだけが光っている。
部屋の中央……
一人の男が背を向けて座っている。
ヤリスがすぐに銃を構える。
「動くな。」
「戦いは終わった。」
「降伏しろ。」
男は答えない。
ヤリスが近づく。
「……」
椅子を回す。
ギィィィ……
「……」
全員が黙る。
椅子に座っていたのは……
人間ではなかった。
トカゲ人形だった。
「!」
カローラが後ずさる。
「ありえない!」
その瞬間……
バキィィ!!
Gates of Fireの兵士たちが突然吹き飛ばされた。
一体ずつ、見えない何かによって破壊される。
ドォン!
バキッ!
ガシャァン!
数秒のうちに……
全軍が消滅した。
カローラが目を見開く。
「何!?」
突然……
床の下から無数の腕が現れる。
ヤリス。
カローラ。
スプートニク。
三人を抱きしめる。
どんどん強く。
どんどん締め付ける。
ヤリスは銃を持ち上げようとする。
しかし腕が完全に固定されている。
「くそ……」
部屋の右側。
ロッカーがゆっくり開く。
カチッ……
一人の青年が拍手しながら出てくる。
「いいね。」
「君たち、予想より速かった。」
長いコート。
余裕のある笑み。
「自己紹介しよう。」
「僕の名前は……」
「……Humvee。」
小さく頭を下げる。
「Horizon……」
「Living Dummy。」
ヤリスが鋭く睨む。
「なぜブライソーンを襲った?」
Humveeは肩をすくめる。
「簡単な話。」
「内通者がいる。」
「そいつが僕を雇った。」
「言われたのは……」
「この次元を好きなように壊していい。」
「ここを混乱させるなら……」
「それで十分だって。」
カローラが拳を握る。
「誰だ?」
Humveeは笑う。
「秘密。」
彼は三人の周囲をゆっくり歩く。
「最初は……」
「ただ仕事を終わらせるつもりだった。」
「でも、この場所を見て……」
「……考えが変わった。」
監視カメラ室を見回す。
「この研究所、結構居心地がいい。」
「壊すのはもったいない。」
「だから……」
「……いっそ僕がもらおうと思って。」
「それに、あの神聖な紙も欲しい。」
「ここに住むためにね。」
ヤリスが目を細める。
「登録用紙……」
Humveeは頷く。
「その通り。」
トカゲ人形を一体持ち上げる。
「Living Dummyの仕組みは単純。」
「この人形たちをばら撒く。」
「標的から何でも奪う。」
「エネルギー。」
「身体の一部。」
「それに……」
「……身分すら。」
「そして盗んだ物からコピーを作る。」
「盗めば盗むほど……」
「……標的は弱くなる。」
Humveeは満足そうに笑う。
「便利だろ?」
そして……
ミネラルウォーターのボトルを一本取り出す。
蓋を開ける。
カチッ。
ヤリスが眉をひそめる。
「何のつもりだ?」
Humveeは答えない。
ただ椅子に座っているトカゲ人形へ水をかける。
バシャッ。
人形は突然力を失う。
身体が木へ変わる。
ひびが入り……
パキッ……
木片へ崩れ落ちた。
Humveeは薄く笑う。
「Living Dummyの弱点は水。」
「だから……」
「……僕は一体の人形だけに頼らない。」
背後のモニターが一斉に点灯する。
画面いっぱいに、数百の赤い点が現れる。
Humveeは笑みを浮かべながら三人を見る。
「僕たちのゲームは……」
「……今、始まったばかりだ。」
【ACT 5 END】




