幕間 侍女マリアの誓い
リリアの処刑が行われた日の午後。
公爵邸へ戻ったマリアは、いつもと変わらぬ手順でエレオノーラの紅茶を淹れた。茶葉を蒸らし、温めておいたカップへ注ぐ。砂糖は入れない。ミルクも添えない。
「お嬢様」
「なあに?」
「執行されたそうです」
窓辺で本を読んでいたエレオノーラは、頁から目を上げなかった。
「そう」
それだけだった。マリアも、それ以上は何も言わなかった。
死んだ少女について、主人が何を思っているのか。憐れんでいるのか。満足しているのか。それとも、本当に何も感じていないのか、マリアには分からない。分からなくてもよかった。
昔から、そうだった。エレオノーラのすべてを理解する必要などない。ただ彼女が望むものを、望む形で差し出せれば、それでいい。マリアがそう思うようになったのは、もう十年以上も前のことだった。
マリアがヴァレンシュタイン公爵家へ上がったのは、九歳のときだった。母も公爵家に仕える侍女だったため、その縁で侍女見習いとして屋敷へ入り、最初に任された仕事のひとつが、当時七歳だったエレオノーラの身の回りの世話だった。
もっとも、世話と言っても大したことはできない。髪を梳かすことすら満足にできず、リボンを結べば左右の長さが違った。ある日など、エレオノーラが王宮へ着ていく予定だったドレスへ紅茶をこぼした。
翌日は、王太子アルフレッドとの茶会だった。王太子の婚約者となったばかりのエレオノーラにとって、初めて二人だけで過ごす正式な茶会。そのために仕立てられた、新しいドレスだった。
「申し訳ございません!」
マリアは床へ膝をついた。
「申し訳ございません、お嬢様……!」
母に知られれば叱られる。侍女長にも叱られる。もしかしたら、屋敷から追い出されるかもしれない。怖くて涙が止まらなかった。ところが。
「マリア」
小さな手が、マリアの頬へ触れた。恐る恐る顔を上げる。エレオノーラは怒っていなかった。
「泣かなくてもいいわ」
「でも……ドレスが……」
「別のものを着ればいいでしょう?」
「でも、明日は殿下との……」
「アルフレッド様は、ドレスとお茶をなさるわけではないもの」
七歳の少女は、当然のことのように言った。
「それより、マリアがいなくなる方が嫌よ」
「……私、ですか?」
「だってマリアは、私の侍女でしょう?」
エレオノーラは不思議そうに首を傾げた。
「私の侍女なのに、どうしてほかの人が勝手に決めるの?」
マリアは目を瞬いた。
「侍女長が怒ったら、私が駄目だと言ってあげる。お父様が怒っても同じよ」
「でも……」
「あなたが困ったときは、私が守ってあげる」
そして、小指を差し出した。
「だからマリアも、私が困ったときは助けてね」
マリアは泣きながら、その小指へ自分の小指を絡めた。
「はい」
「約束よ」
「はい。必ず」
エレオノーラは満足そうに笑った。
「よかった。これでマリアは、ずっと私と一緒ね!」
子供同士の、他愛もない約束だった。少なくとも、傍から見れば。
翌日、エレオノーラは別のドレスで王宮へ行った。帰ってきた彼女は上機嫌だった。
アルフレッド様が笑ってくださった。
アルフレッド様が花をくださった。
アルフレッド様が次の茶会も楽しみだと仰った。
そればかりを話していた。ドレスのことなど、もう覚えてもいないようだった。おそらく、あの日の約束そのものも、エレオノーラはとうの昔に忘れている。けれど、マリアは忘れなかった。
それから十年。マリアは、誰より近くでエレオノーラを見てきた。
王太子妃になるために朝から晩まで勉強する姿を。熱があっても教師の前では背筋を伸ばす姿を。外国語がうまく発音できず、夜中まで一人で練習する姿を。アルフレッドから贈られた小さな花を、枯れても捨てられずに押し花にする姿を。
そして、王宮から血まみれで運び出された姿を。
寝台の上のエレオノーラは、まるで別人だった。血の気のない顔。閉じた瞼。包帯。医師たちが慌ただしく出入りする中、マリアは何もできず、ただ壁際に立っていた。
王太子が婚約解消を告げた。
別の女と結婚したいと言った。
その女は聖女を名乗っていた。
そして、お嬢様は死にかけた。それだけ聞けば十分だった。誰が悪いのか、マリアにとっては、最初から決まっていたのだ。
エレオノーラが目を覚ましてからしばらくして、ある日の夕暮れ時。マリアと二人きりになった途端、それまでベッドの上で震えていたエレオノーラの身体から、張り詰めていた力がすっと抜けた。頬に残る涙を指先で拭うと、何事もなかったようにゆっくりと身体を起こした。
「マリア。紅茶をいただける?」
いつもの声だった。
マリアは一瞬だけ、主人を見つめた。
王家から使者が来れば吐き、青い服を見れば泣き、アルフレッドの名を聞いただけで呼吸を乱していた令嬢は、そこにはいなかった。
そしてマリアは「ああ」と、小さく息を吐いた。驚きより先に、妙な安堵があった。幼い頃には泣き疲れた翌朝には笑っていたし、王太子の婚約者となってからは、どれほど辛いことがあっても、ひとしきり涙を流したあとは「大丈夫よ」と顔を上げた。その少女が、十年かけて美しく、賢く、完璧な公爵令嬢になっただけなのだ。
「……紅茶ですね」
「ええ」
マリアは立ち上がった。
これがお嬢様だ。何もおかしくない。
「紅茶だけではお身体に障ります」
「もう大丈夫よ」
「そう仰るようになっただけでも安心いたしました。ですが、お身体は別です」
「ふふ。分かったわ」
「あとで胃に優しいものをお持ちいたしますので、少しでも召し上がってくださいませ」
そう答えて、用意された紅茶を飲む主人を見て、マリアはようやく心から安心した。
その夜。エレオノーラは一通の手紙をマリアへ渡した。
「マリア。お願いがあるの」
「何なりと」
「この手紙をアルフレッド様に届けてほしいのだけれど…」
「今の殿下へ、でございますか?」
マリアは手紙へ視線を落とした。事件の調査が続く現在、アルフレッドは王宮内の私室へ隔離され、外部との接触を厳しく制限されている。届いた手紙や荷物もすべて確認され、許可なく本人へ渡すことはできない。ましてエレオノーラからの私信など、今の状況でそのまま届けられるはずがなかった。
「正規の方法では難しいかと」
「ええ。だから、昔の方法で渡してほしいの」
エレオノーラは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「昔、アルフレッド様とやっていた遊びがあるの」
「遊び、ですか」
「ええ。お互いに手紙を隠して、見つけてもらうの。だから、これもそうしてほしいのよ」
エレオノーラは手紙をマリアへ差し出した。
「どうしても、アルフレッド様にお伝えしたいことがあるの。でも今は、普通にお手紙を出しても、きっとあの方のところまでは届かないでしょう?」
「おそらくは」
「だから、昔の遊びに見せかけて届けてほしいのよ」
封はされていた。差出人の名はない。
「私が殿下のお部屋へ入ることは、まず不可能です」
「あなたが入らなくてもいいの」
エレオノーラは微笑んだ。
「アルフレッド様のお洋服を扱う方にお願いできないかしら。洗濯した服の間に挟んで、そのままクローゼットの奥へしまってもらうの」
「奥へ?」
「ええ。すぐ見つかっては、遊びにならないでしょう?」
悪戯を思いついた少女のような笑顔だった。
「アルフレッド様も分かってくださるわ。昔からそうしていたもの」
マリアはしばらく考えてから頷いた。
「承知いたしました。洗濯係には私から事情を説明いたします」
マリアは少し考えてから続けた。
「故郷へ戻りたがっている友人がおります。危険を伴う頼みですし、万が一のこともございます。十分な報酬を用意して、仕事を終えたあとは故郷へ戻れるよう、私が手立ていたしましょう」
「さすがね、マリア。そこまで考えてくれるのね」
「お嬢様が、どうしても殿下へお伝えになりたいことなのでしょう?」
「ええ」
エレオノーラは手紙を胸元へ一度引き寄せ、大切そうに見つめた。
「どうしても、お伝えしたいの」
「でしたら、そのように」
マリアは静かに手紙を受け取った。
「ただし、無理はしないでね」
「お嬢様のご命令ですので」
「だからよ」
エレオノーラは少し困ったように笑った。
「あなたまでいなくなったら、私が困るもの」
マリアは一瞬、何も言えなかった。
十年以上前。
――あなたが困ったときは、私が守ってあげる。
――だからマリアも、私が困ったときは助けてね。
そして。
――よかった。これでマリアは、ずっと私と一緒ね!
胸の奥に残り続けている声が蘇った。
「……承知いたしました」
深く頭を下げた。
「それから、もう一つお願いがあるの」
「はい」
「お父様に、事情聴取を受けると伝えてちょうだい」
マリアは僅かに眉を寄せた。
「もう少しお身体が回復してからでもまだ……」
「大丈夫よ。覚えていることだけでも、早くお話ししなければならないでしょう?」
「……承知いたしました」
エレオノーラは穏やかに微笑んだ。
「以前、落ち着かない時にいただいた鎮静薬が残っていたでしょう? あれを用意しておいてくれる?」
「承知いたしました。ですが、先生も飲みすぎればお身体に障ると仰っておりました」
「ええ。分かっているわ。勝手には飲まないから安心して」
「でしたら、念のため先生にも確認しておきます」
「お願いね」
月明かりに照らされたエレオノーラの横顔はひどく静かで、けれどマリアには、何かを決めた者の顔に見えた。
翌日、マリアは王宮へ出入りする使用人を通じて、顔見知りの洗濯係を呼び出した。
久しぶりに会った彼女は、マリアを見るなりエレオノーラの容体を尋ねた。王宮の使用人たちの間でも、公爵令嬢が心を病んだという話は広まっている。
「少しずつですが」
マリアはそれだけ答えた。
そして、小さな包みを差し出した。
「少しお願いがあります」
「何でしょう?」
「お嬢様から、アルフレッド殿下へのお手紙です」
洗濯係の女が驚いた顔をした。
「ですが、今は……」
「ええ。ですから、直接お渡しするものではありません」
マリアは、主人から聞いた話をそのまま伝えた。
「お二人が昔なさっていた、秘密の遊びのようなものだそうです。手紙をどこかへ隠して、相手に見つけてもらうのだとか」
「あら……」
女の表情が僅かに緩んだ。心を壊したと噂される公爵令嬢が、それでも元婚約者へ手紙を書いた。幼い頃の思い出をなぞるように。そう聞けば、むしろ微笑ましい話に思えた。
「洗濯した殿下のお洋服の間へ挟んでいただけますか。そのまま、クローゼットの奥へ」
「そんなことでよろしいのですか?」
「はい。殿下もご存じの遊びだそうですから」
女は報酬の件も含めて少し迷った末、引き受けた。エレオノーラに同情していたこともある。故郷に帰れる機会も得た。何よりマリアとは、長年顔を合わせてきた仲だった。
手紙は洗濯物の中へ紛れ込んだ。そこから先は、いつもの仕事だった。洗濯済みの衣類はアルフレッドの私室へ運ばれ、クローゼットへ収められる。誰も、衣類の間に一通の手紙が紛れていることなど知らなかった。
洗濯係の女でさえ、それをただの恋文だと思っていた。まして、その手紙がアルフレッドに読ませるためのものではないことなど知るはずもなかった。
数日後、王太子アルフレッドの私室から、一通の未開封の手紙が発見された。リリアが書いたとされる手紙だった。
――エレオノーラ様さえいなくなれば、私たちは一緒になれるのでしょうか。
――殿下は優しすぎます。
――私が何とかいたしますから、殿下は何も知らなかったことにしてください。
アルフレッドは知らないと言った。当然だった。一度も読んでいないのだから。リリアも書いていないと言った。それもまた、当然だった。
けれど、未開封であったことが、かえってアルフレッドを救った。リリアが独断で何かを企て、その意思だけをアルフレッドへ伝えようとしていた。しかしアルフレッドは、手紙を読んですらいなかった。そのように解釈された。
殺人未遂への関与を疑われていたアルフレッドは、次第に「聖女に騙されていた愚かな王太子」と見なされるようになっていった。
王にはなれない。けれど、死罪にもならない。
マリアはその結果を聞いたとき、ようやく理解した。主人は自らを捨てた男を死罪から遠ざけながら、その男が選んだ女だけを死罪へ追いやった。
マリアの背筋に、ぞくりと震えが走った。
けれど同時に、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
幼い頃から見守ってきた花が、いつの間にか、自分の知らないところで咲いていた。
触れようとする者を傷つけるほど鋭い棘を持ち、奪おうとする者には容赦なく毒を流し込む。それでもなお、自分が愛したものだけは決して手放さない。
なんて残酷で。
なんて狡猾で。
そして、なんて美しいのだろう。
「……お嬢様」
誰にも聞こえないほど小さく呟いて、マリアはもう一度震えた。
そして今日、リリアは死んだ。




