最終幕
アルフレッドについては、リリアからの未開封の手紙が発見された時点で、聖女を信じ込み『利用された側』という見方が強まっていた。
もちろん責任が消えたわけではない。
婚約解消を独断で進め、公爵令嬢の救護を怠った。医師を呼ばなかった。事件を隠そうとした。王位継承者としての判断能力には、致命的な問題がある。
国王は評議会で言った。
「優しい人間であることと、良い王であることは同義ではない」
誰も反論しなかった。
「人の気持ちを思いやることは美徳だ。しかし、すべての人間を傷つけまいとして決断を避け、結果として最も大きな傷を生む者に、国は任せられない」
アルフレッドは王太子の身分を失った。ただし殺人共謀については、リリアに騙されていた可能性が高いとして、罪には問われなかった。そして王都から遥か遠方、国境近くの離宮へ、事実上の永久追放となった。
王位継承権は剥奪。
王都への帰還は禁止。
政治への関与も認められない。
側近も最低限。
「……分かりました」
アルフレッドは判決を受け入れた。疲れ切っていた。リリアが処刑され、エレオノーラは心を壊した。王位も失った。何も残っていない。
王家はこれから、アルフレッドに代わって第二王子を新たな王太子に立て、その婚約者の選定や各家との調整に追われることになる。王太子の廃嫡によって生じた混乱を収めるため、王宮には慌ただしい日々が待っている。
彼は自分の愚かさがすべてを壊したのだと思った。
その認識は、半分だけ正しかった。
一方、エレオノーラの身体も、すぐに元へ戻ったわけではない。
傷そのものは塞がっていたが、長く起きていれば顔色を失い、食事も以前の半分ほどしか取れなかった。王家から使者が来た日は特に酷く、夜まで寝込むこともあった。
そんな彼女の傍には、いつもマリアがいた。食べられそうなものを少しずつ用意し、薬の時間を管理し、夜中に目を覚ませば黙って温かい飲み物を差し出した。
マリアの態度は何一つ変わらなかった。むしろ以前よりも注意深く主人の顔色を見ていた。
「今日はもう、お休みくださいませ」
「まだ大丈夫よ」
「大丈夫と仰る方ほど信用できません」
「まあ」
エレオノーラが小さく笑う。その笑顔を見られるだけで、マリアには十分だった。
だが家族や王家の者たちには、エレオノーラの心はまだ過去に囚われているように見えていた。
ある日、公爵夫人が彼女の部屋を訪れたときだった。机の上に、小さな箱が置かれていた。かつてアルフレッドから贈られた、押し花が収められている箱だった。
「まだ、持っていたのね」
母の声に、エレオノーラはしばらく黙っていた。
「……捨てられませんでした」
それだけ言って、箱を閉じる。公爵夫人は何も言えなかった。王妃から届けられた見舞いの品の中に、アルフレッドが幼い頃好んでいた菓子が入っていたこともあった。それを見たエレオノーラは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「殿下も、まだお好きかしら」
その一言は、後に王妃の耳にも入った。王家からすれば、それは胸を締めつけられる話だった。自分を捨て、死の淵へ追いやる原因となった男を、それでもなお忘れられない。公爵夫妻も同じように考えた。だからこそ、誰もアルフレッドの話を積極的に口にしなくなった。
エレオノーラが王宮を怖がった。
王都を怖がった。
人の多い場所を怖がった。
それでも、アルフレッドのことだけは完全には手放せないのだと、誰もが思っていた。
そしてある日、医師が言った。
「静かな地方で長期療養されるのがよろしいかと」
公爵は即座に賛成した。
「どこがいい」
「温暖で、人が少なく、王都から離れた場所を」
エレオノーラは父の腕に縋り、消え入りそうな声で言った。
「……やっとね……」
そして、ある領地が候補へ上がった。国境付近で王都から遠く、自然が多く、静かな土地。
「ここなら……」
エレオノーラは地図を見て、微笑んだ。
「ここは…」
公爵は地図へ目を落とし、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。そこが、アルフレッドのいる離宮からそう遠くない土地だと気づいたのだ。だが、半年ぶりに見た娘の微笑みを前にして、その懸念を口にすることはできなかった。
「ここにしよう」
「お父様……」
「屋敷を建てる。好きなだけ静養すればいい」
「ありがとうございます」
エレオノーラは、心から父へ感謝した。
半年後、王都から遠く離れた離宮。アルフレッドは庭園のベンチに座っていた。王太子だった頃とは比べものにならないほど質素な生活だった。
側近の多くも去った。ユリウスも実家へ戻されている。リリアもいない。何もかも失った。
けれど最近になり、ようやく思う。自分は確かに、間違えていたのだろう。エレオノーラなら分かってくれる。彼女は強い女性だから。リリアは孤独だから守らなければならない。そう決めつけていた。エレオノーラだって傷つく。当たり前のことを考えなかった。
「…謝りたいな」
許してもらえるとは思わない。それでも、一度きちんと謝罪したかった。そのとき。
「でしたら、直接おっしゃればよろしいですわ」
聞き覚えのある声がした。アルフレッドが振り返った。
白い日傘。
黒いドレス。
銀色の髪。
「…エレオノーラ?」
彼女が立っていた。
「どうして」
「お久しぶりでございます、アルフレッド様」
「なぜここに?」
「療養に参りましたの」
にっこりとエレオノーラが笑う。
「この辺りは空気がよろしいのでしょう?」
「……そうだが」
「お父様が、別荘を建ててくださいましたの」
「……どこに」
エレオノーラが指を差した離宮から森を挟んだ丘。確かに以前はなかった屋敷が見える。
「まさか」
「はい」
エレオノーラは嬉しそうに笑った。
「毎日会えますわ」
アルフレッドの顔が引きつった。
「エレオノーラ。私たちはもう婚約者ではない」
「存じております」
「私は王太子でもない」
「存じております」
「王にはなれない」
「存じております」
「君が私といる理由なんて――」
「あら」
エレオノーラが一歩近づいた。
「まだお分かりになっていないの?」
アルフレッドが黙る。彼女は彼の頬へ手を伸ばした。触れる寸前、アルフレッドがわずかに身体を引いた。その反応を見て、エレオノーラは目を細める。
「私は王太子殿下を愛していたのではありません」
「……」
「アルフレッド様を愛しているのです」
「だが私は、君を捨てた」
「はい」
「君を死なせかけた」
「はい」
「憎くないのか?」
「まったく」
即答だった。
「私はね、アルフレッド様」
エレオノーラは少しだけ首を傾げた。
「あなたが私を嫌いでも構いませんの」
「……え?」
「私を愛してくださらなくてもいい」
微笑んでいる。なのにアルフレッドは、なぜか逃げ出したくなった。
「だって」
エレオノーラは囁く。
「もう誰とも結婚できないでしょう?」
王位を失った元王太子。重大な不祥事を起こし、監視下に置かれた王族。
王位継承権はない。
王都にも戻れない。
政略結婚の駒としての価値もない。
「聖女様もいません」
「……」
「王宮にも戻れません」
「……」
「側近もいません」
一歩、彼女が近づく。アルフレッドが一歩下がる。
「ここには私しかおりません」
「待て」
「大丈夫ですわ」
エレオノーラは笑った。六歳の頃、初めてアルフレッドと会った日と同じような笑顔だった。
「今度は死んだりいたしません」
「……」
「あなたがお爺様になるまで」
一歩。
「ずっと」
一歩。
「ずっと」
アルフレッドの背中が木に当たった。逃げ場がなくなる。エレオノーラは両手を胸元で組んで、幸せそうに笑った。
「お傍におりますから」
その日の夜。アルフレッドは父である国王へ一通の手紙を書いた。
―ヴァレンシュタイン公爵令嬢が離宮付近へ療養に来ています。
返事は三日後に届いた。短かった。
―エレオノーラ嬢の療養を妨げることだけは許さん。節度を持って接せよ。
アルフレッドは頭を抱えた。父は彼女を、心の壊れた被害者だと思っている。当然だった。アルフレッド自身、そう思っているのだから。
翌朝、離宮の食堂へ行くとエレオノーラがいた。
「おはようございます、アルフレッド様」
「どうやって入った?」
「料理長にお願いしましたの」
テーブルには焼き菓子が並んでいる。一口食べる。甘さは控えめだった。昔からアルフレッドが好きだった味。
「……エレオノーラ」
「はい?」
「私は君を愛せないかもしれない」
彼女は微笑んだ。
「構いませんわ」
「一生」
「構いません」
「それでも?」
「ええ」
エレオノーラは紅茶を注ぐ。
「人生は長いですもの」
ことり、と彼の前にカップを置く。
「五十年ほど一緒にいれば、気が変わるかもしれませんでしょう?」
「変わらなかったら?」
エレオノーラは少し考えた。
「そのとき考えます」
アルフレッドは悟った。この女は本気だ。
聖女との恋に浮かれ、長年の婚約者を傷つけ、王太子の地位を失い、何もかもなくなった果てに、なぜか人生で最も逃げられない女だけが残った。
「アルフレッド様」
「……なんだ」
「今日も愛しております」
それから何年経っても、エレオノーラは毎朝、同じことを言ったという。
アルフレッドがいつの日か、それに「私もだ」と答えるようになったのか。最後まで答えなかったのか。それを、エレオノーラは誰にも語らなかった。
もっとも彼女にとって、それはさして重要なことではなかったのだから。
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