第二幕
足音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった頃。長椅子の上で、エレオノーラがそっと目を開けた。しばらく、何もせず天井を見つめていた。
「……アルフレッド様」
呟いた声は、ひどく掠れていた。
婚約を解消したい。
リリアと結婚したい。
君には幸せになってほしい。
先ほど聞いた言葉が、何度も頭の中を巡り、やがて一筋の涙が、目尻から流れ落ちた。
エレオノーラは長椅子に横たわったまま、指先を動かした。部屋の隅で、先ほどリリアが怯えて払いのけた小刀が魔力によって引き寄せられるように床を滑り、長椅子の下を抜け、やがて差し出されたエレオノーラの手へ静かに収まった。
「……いらないと、おっしゃったもの」
小刀を握る。六歳から十七歳までの十一年間、アルフレッドの妻になることだけを考えて生きてきた。それがなくなった。ならば、これから何のために生きればいいのか、エレオノーラには分からなかった。
「私には……あなたしかいないのに」
涙がもう一筋流れた。しばらく小刀を見つめていたエレオノーラは、ふと息を吐いた。
「こうなったら…」
ふと、部屋を薄く覆っていた魔力の膜が消えた。「他人には聞かせられない話」と事前に聞かされていたため、エレオノーラ自身が礼儀として張っていた遮音の結界。アルフレッドの為に、エレオノーラがこの部屋へ入ってすぐ、誰にも気づかれぬよう張っていたものだった。
もう、必要ない…
何もかも…
そしてエレオノーラは、何の躊躇もなく自らの腹へ小刀を突き立てた。
「――っ、う……あぁがっ!」
堪えきれなかった呻き声が漏れる。今はそれを遮る結界はない。静かな廊下にまで、その声は届いた。ほどなくして、慌ただしい足音が近づいてくる。
「お嬢様!?」
遠くで侍女の声が響く。
その瞬間けたたましく扉が開いた。
そして、王宮中に響く悲鳴が上がった。
そこからは早かった。
医師が呼ばれ、近衛騎士が呼ばれ、宰相が駆けつけ、王妃までも駆けつけた。そしてヴァレンシュタイン公爵が、娘が王宮で倒れたという知らせを受け、文字通り軍馬を飛ばしてやって来た。
「娘は!」
「公爵閣下!」
「エレオノーラはどこだ!」
普段は氷の宰相補佐と呼ばれる男が、顔色を失って廊下を走った。
医師団による処置は長時間に及んだが、幸いにもエレオノーラは一命を取り留めた。
「幸い、小刀は深くまで達しておらず、発見時にも抜かれずそのままの状態でしたので、適切な処置を施すことができました。しかし、あと少し発見が遅れていれば、命に関わっていたでしょう」
医師の言葉に、王妃の顔から血の気が引いた。
「……治癒魔法を受けたと聞いておりますが」
「治癒魔法?」
医師は怪訝そうに眉を寄せた。
「そのような痕跡は確認できません」
沈黙。そして王妃がゆっくりと振り返る。
そこには、エレオノーラの悲鳴を聞いて戻ってきたアルフレッドと、同じく心配で集まったリリアとユリウスがいた。
「アルフレッド」
「母上」
「説明なさい」
「それは……」
「全てです」
アルフレッドは俯いた。
もう隠し通せる状況ではない。
「私が……エレオノーラに婚約解消を申し出ました」
王妃の眉が動いた。
「西棟の小さな応接間で?」
「はい。リリアと結婚したいと……そのことを、私から直接伝えようと」
「それから?」
「エレオノーラが、小刀を取り出しました」
「小刀?」
「止めようとしました。ですが間に合わず……」
アルフレッドは唇を噛んだ。
「首元を傷つけて、そのまま倒れました」
「……首?」
王妃が聞き返した。傍らにいた医師も、不審そうにアルフレッドを見る。
「はい」
「アルフレッド」
王妃の声が低くなった。
「エレオノーラ嬢が負ったのは、そのような傷ではありません」
「え?」
アルフレッドは顔を上げた。
「腹部です」
「……何を」
「腹部に刃物による傷があります。医師からは、発見が遅ければ命に関わっていたと報告を受けています」
アルフレッドは、しばらく王妃の言葉を理解できなかった。
「……腹?」
「そうです」
「そんなはずはありません」
即座に答えた。
「私は見ています。エレオノーラが傷つけたのは首です。少し血は出ていましたが、それだけです。それに、その傷もリリアが――」
そこでアルフレッドはリリアを見る。
「治したはずだ」
リリアの顔から血の気が引いた。
「わ、私は……」
「そうだろう? 君が治した。だから私はエレオノーラを長椅子へ寝かせて――」
「お待ちください」
医師が口を挟んだ。
「殿下。エレオノーラ様の首には、ごく浅い傷しかございません」
「だから、それはリリアが治したから――」
「違います」
医師ははっきりと言った。
「治癒魔法を受けた痕跡がございません」
「……何?」
「首の傷は、そもそも治癒魔法を必要とするほどのものではありません。そして問題となっている腹部の傷には、一切の治療が施されていませんでした」
アルフレッドの表情が凍りついた。
「待ってくれ」
頭が追いつかない。
「では……腹の傷は、いつ?」
誰も答えない。
「私たちが部屋を出たあとか?」
アルフレッドはユリウスを見る。
「だが、エレオノーラは意識を失っていた。そうだろう?」
「……はい」
「リリアも見ていた」
「あ、はい……」
「では誰が刺した?」
沈黙。アルフレッドの顔色が変わっていく。
「待ってください。母上。これはおかしい」
「アルフレッド」
「私が部屋を出たとき、エレオノーラに腹の傷などありませんでした!」
「アルフレッド」
「誰かがあのあと部屋に入ったのではありませんか!?それとも――」
「黙れ」
低い声だった。アルフレッドが振り返る。いつの間にか部屋へ入っていた国王が、息子を見ていた。
「父上、ですが――」
「黙れと言った」
「しかし私は本当に――」
「今のお前が何を言っても、言い逃れにしか聞こえん」
アルフレッドが絶句した。国王は厳しい表情のまま続けた。
「王宮へ婚約者を呼び出した。正式な手続きを踏まず婚約解消を告げた。本来居るはずない、次の婚約者にしたい女まで同席させた。その後、エレオノーラ嬢は刃物による重傷を負って発見された」
「ですが!」
「そして」
国王の声がさらに低くなる。
「その現場にいたお前たちは、医師も呼ばず、侍女にも知らせず、彼女一人を残して立ち去った」
アルフレッドは口を閉ざした。
「お前の言い分が真実かどうかは、これから調べる」
国王は息子を真っ直ぐ見据えた。
「だから今は黙っていろ。これ以上、考えもせず口を開くな」
「……はい」
アルフレッドは俯いた。自分が見たものと今目の前にある事実がまるで噛み合っていない。
エレオノーラが王宮内で瀕死になった以上、これはもう若者同士の恋愛問題で済まなくなり、翌日には緊急会議が開かれた。
アルフレッドは全て話した。
婚約解消を打診したこと。
その場に双方の両親も、王家の重臣もいなかったこと。
エレオノーラが自害を図ったこと。
リリアに治癒を頼んだこと。
リリアが「治した」と答えたこと。
その言葉を信じて、医師を呼ばなかったこと。
戻るとはいえ、傷を負った公爵令嬢を部屋へ置き去りにしたこと。
すべてを聞き終えた国王は、しばらく黙っていた。
「アルフレッドよ、お前は馬鹿なのか?」
王太子の顔が真っ白になった。
「お前がリリア嬢を愛そうが、エレオノーラ嬢を愛せなくなろうが、それ自体を罪とするつもりはない、だが婚約とは何だ」
「……王家と、公爵家との契約です」
「分かっているではないか」
「はい」
「ではなぜ、お前一人の意思で解消できると思った?」
アルフレッドは答えられない。
「しかも非公式の場で呼びつけ、次の婚約者候補を同席させた」
「それは、誠実に話したかったからで……」
「誠実?」
国王が鼻で笑った。
「公爵家に事前相談もせず、王妃にも私にも知らせず、当事者だけを呼び出し、『君との婚約をやめてこちらの女と結婚したい』と告げることを、お前は誠実と呼ぶのか?」
「……」
「正式な手続きを踏まなかったこと。それが、お前の最大の過ちだ」
その言葉が終わるより早く。
「――最大の過ち?」
ヴァレンシュタイン公爵が低く呟き、ゆっくりと顔を上げた。
「陛下。無論、私も婚約解消について正式な手続きを踏まなかったことは、到底看過できません」
公爵の声は、怒りに震えていた。
「ですが、それはあくまで王家と我が家の問題です」
「ヴァレンシュタイン」
「娘が目の前で自ら命を絶とうとした。それを見ていながら医師も呼ばず、侍女にも知らせず、一人きりにして立ち去った」
公爵はアルフレッドを見た。
「それは手続き以前の問題でしょう」
アルフレッドが息を詰める
「王太子である以前に、一人の人間として、なぜ助けを呼ばなかったのです」
「それは、リリアが治したと――」
「だから何だ!」
公爵は立ち上がった。
「婚約を解消したいのであれば、なぜ王家と我が家を交え、正式な席を設けなかった!」
アルフレッドが顔を上げる。
「それは……エレオノーラを傷つけたくなくて」
「傷つけたくない?」
「人目のない部屋に娘を呼びつけ、婚約者である王太子とその側近、さらに次の婚約者となる女で囲んでおいて、それが娘への配慮だと?」
「そんなつもりでは――」
「では、何のつもりだ!」
机が震えるほどの怒声だった。
「公式の場で話せば、記録が残る! 証人が残る! 双方の家が立ち会う! だからこそ婚約解消のような重大事は正式に行うのだ!」
アルフレッドは何も言えない。
「それを避けた結果、私の娘は王宮の密室で腹を裂かれ、瀕死の状態で発見された!」
「その傷は、私たちが部屋を出た後のものです!」
アルフレッドが反射的に叫んだ。
「私が見たのは首の傷だけです! それもリリアが治癒したと思っていた。腹に傷などなかった!」
公爵の目が鋭く細められる。
「では、誰が娘の腹を刺したと?」
「分かりません! ですが、私たちが部屋を出たとき、エレオノーラは生きていた。腹にも傷はなかった。ならばその後に―」
アルフレッドは一度言葉を詰まらせながらも、先ほど医師から聞かされた事実を必死に繋ぎ合わせる。
「エレオノーラが意識を取り戻して、自ら…そうした可能性だってあるでしょう!」
その瞬間、公爵の表情が変わった。
「……もう一度言ってみろ」
「私は、事実を申し上げているだけです。私たちが退出したあと、エレオノーラが目を覚まし、悲観から自ら腹を傷つけたのなら辻褄が合う!」
「貴様……!」
「父上、私はエレオノーラを傷つけていない!」
アルフレッドも引かなかった。
「もちろん、彼女を一人にしたことは私の過ちです。ですが、見てもいない傷まで私たちが負わせたことにされるのは違う!」
「では証明してみろ!」
公爵が怒鳴った。
「娘が一人で、自ら腹を刺したと!その間、お前たちはどこにいた!」
「リリアとユリウスを裏口まで送っていました!」
「裏口?」
公爵の声が、逆に静かになった。
アルフレッドはそこで自分が何を口にしたのか気づいた。
「……なぜ、裏口を使う必要がある?」
「それは……」
「なぜ王太子殿下の側近と聖女が、人目を避けてその部屋へ出入りしていた?」
息を詰まらせるアルフレッドを睨んだ公爵は、ゆっくりと国王へ向き直った。
「陛下、やはり私は、この件を娘の自害として処理することを認めません」
「……」
「殺人未遂事件として徹底的に調査させていただく」
王妃が僅かに顔色を変えた。
「ヴァレンシュタイン公爵、それは――」
「当然でしょう!」
公爵の声が響く。
「私の娘が王宮に呼び出され、王太子殿下から婚約解消を告げられ、その直後に刃物で致命傷を負った! しかも現場にいた者たちは救護をせず、その事実を伏せようとした!」
一つ一つ並べれば、それは確かに異様だった。
「もし娘が死んでいたなら、王太子殿下のお言葉だけで、『娘が勝手に死んだ』と納得しろと?」
「……」
「断じて認めん」
公爵の拳が震えた。
「刃物の入手経路を調べろ。現場にいた者全員を尋問しろ。部屋へ出入りした者、廊下の警備、侍女を遠ざけた者がいなかったか、すべて調べろ」
「父上、私は――」
「私を父と呼ぶな!」
アルフレッドの顔が強張った。十一年間、いずれ義理でも父と息子になるはずだった関係の男から向けられた、初めての明確な拒絶だった。
「娘を公の場に出すことすらせず、人目のない場所で娘の人生を奪おうとした男を私はもはや娘の婚約者とは認めん!」
公爵は国王を見る。
「全てが証明されるまで、私は何一つ信用しません」
国王は長く沈黙したあと、頷いた。
「……分かった」
こうしてエレオノーラの自害未遂は、王太子の婚約問題ではなく、王宮内における公爵令嬢殺害未遂事件として調査されることになった。




