第一幕
初投稿です。
よろしくお願いします。
「エレオノーラ。君との婚約を、解消したいと思っている」
王太子アルフレッドがそう告げたとき、エレオノーラ・ヴァレンシュタイン公爵令嬢は、しばらく何も答えなかった。
国王も王妃もいない、宰相もいない、ヴァレンシュタイン公爵もいない、王宮西棟にある小さな応接室。婚約解消という国家に関わる重大事を話し合うには、あまりにも私的すぎる場所だった。
本来ならば、王太子の婚約者であるエレオノーラが王宮内を移動する際には、侍女か護衛が付き従う。だがこの日は、アルフレッドから「二人きりで他人には聞かせられない個人的な話がある」と告げられ、侍女も護衛も別室で待つよう命じられていた。だから、この部屋に居るのは王太子アルフレッドだけのはずであった。
しかしなぜかその側近である侯爵令息ユリウス。そして、最近王都で「聖女」と呼ばれるようになった少女、リリアもいた。リリアは緊張を誤魔化すように、エレオノーラの前へ砂糖壺を寄せていた。
エレオノーラは、その三人を順番に見回し、最後にゆっくりとアルフレッドへ視線を戻した。
「婚約を、解消」
「ああ」
「私と殿下の?」
「そうだ」
「なぜでしょう」
アルフレッドは苦しそうに眉を寄せた。
エレオノーラは彼のその表情にそっと目を細めた。
十一年間、六歳で婚約してから今日まで、ずっと、ずっと彼だけを見てきたエレオノーラ。
優しいところも、少し気弱なところも、困っている人を放っておけないところも。誰かが悲しんでいると、自分まで悲しくなってしまうところも。エレオノーラはアルフレッドのすべてを知っている。
「私は、リリアと結婚したい」
アルフレッドの隣で、リリアが小さく肩を震わせた。
栗色の髪、素朴な顔立ち、平民出身で、半年前に突然「聖女の力に目覚めた」として教会に保護された聖女候補の少女。傷に手をかざせば痛みが和らぐ、病人に祈れば熱が下がる。そんな噂が広まり、今では王都の民から絶大な人気を得ている。
「聖女であるリリアは王家に必要な存在だ。視察で出会ってから……その優しさや健気さに、心を奪われてしまったのだ。私は……彼女を愛している」
「そうですか」
エレオノーラは静かに答えた。
驚くほど、声は震えなかった。
「エレオノーラ」
「はい」
「すまない」
謝られた。
ああ……この人は本当に優しい……とエレオノーラは思った。だからこそ、残酷なのだが。
「私は君を嫌いになったわけではない」
「はい」
「君は素晴らしい女性だ。王太子妃としても、将来の王妃としても、これ以上ないほど努力してくれた」
「はい」
「だからこそ、君には幸せになってほしい」
その瞬間、エレオノーラは、微笑んだ。
「殿下」
「なんだ?」
「それを、私におっしゃいますの?」
「……どういう意味だ?」
「私の幸せを、殿下がお決めになりますの?」
アルフレッドが唖然としていると、エレオノーラは立ち上がり、テーブルを回り込んで彼の前に立った。
「私は六歳のとき、あなたの妻になると言われました」
「ああ」
「ですから勉強しました。魔法を。歴史を。政治を。外交を。経済を。法律を。礼儀作法を。三か国語を。王家の系譜を。貴族の家系を。領地の産業を。近隣諸国の王族の顔と名前を」
「知っている」
「ダンスもしました。馬術もしました。刺繍も。音楽も。慈善事業も。王妃陛下について各地を回りました」
「エレオノーラ……」
「あなたがお好きだと仰ったので、青いドレスばかり仕立てました」
アルフレッドの顔が強張る。
「あなたが薔薇をお好きなので、公爵家の庭園をすべて薔薇園に変えました」
「……」
「あなたが甘いものを苦手だと仰ったので、王妃教育の合間に料理長から菓子を習い、あなた用の砂糖を控えた焼き菓子を考えました」
「もういい」
「あなたが熱を出された十三歳の冬、私は三日間、礼拝堂で祈りました」
「エレオノーラ」
「あなたが十六歳で落馬されたとき、私がどれほど怖かったか、ご存じでしょう?」
「やめてくれ」
「私は殿下を愛しております」
静かな声だった。
その言葉だけは、部屋の隅まで明瞭に響いた。
「愛しております」
もう一度。エレオノーラは言った。
「あなた以外と結婚する未来など、一度たりとも考えたことがございません」
リリアが青ざめていた。
ユリウスも険しい顔で黙っている。
アルフレッドだけが、泣きそうな顔をした。
「だから……すまない」
エレオノーラは首を傾げた。
「何を謝っていらっしゃるのです?」
「君の気持ちに応えられない」
「なるほど」
「時間はかかるだろう。だが、いつか…」
「殿下」
エレオノーラは微笑んだ。
「やはり、あなたは優しい方ですわ」
「……」
「けれど、少しだけ勘違いをしていらっしゃる」
彼女はドレスの袖へ手を入れた。そして、小さな刃物を取り出した。護身用として貴族令嬢が持つことを許されている、装飾用の小刀だった。
「エレオノーラ?」
ユリウスが息を呑んだ。
「おい、何を――」
アルフレッドが立ち上がる。
エレオノーラは刃を自分の首筋に押し当てた。
「私の幸せは、あなたなのです」
「待て!」
「ですから」
穏やかに、まるで晩餐会の席で微笑むようにエレオノーラは告げた。
「あなたのいない人生など、私には必要ありません」
「やめろ、エレオノーラ!」
アルフレッドが駆け寄り、とっさにナイフを持つ腕を掴んだが刃先はエレオノーラの青白い肌をかすめ赤い直線を描く。
甲高い悲鳴を上げたのはリリアだった。
エレオノーラの身体が崩れ落ちる。
「エレオノーラ!」
アルフレッドが抱き留めた。
か細い首筋にスッと血が流れる。
「どうして……どうしてこんな……!」
エレオノーラは薄く目を開いた。
「だって……殿下が……」
「喋るな!」
「私を……いらないと……」
「違う!」
アルフレッドは叫んだ。
「そんな意味ではない! 私はただ、君にも別の幸せを――」
エレオノーラが笑った。
「ですから……それを、あなたが決めないでくださいませ……」
瞼が閉じた。
「リリア!」
アルフレッドは振り返った。
「治してくれ!」
リリアは動かなかった。
「リリア!」
「あ……」
「聖女なのだろう!? 頼む、エレオノーラを助けてくれ!」
「で、でも……」
「早く!」
半ば突き飛ばされるようにして、リリアが膝をつく。震える手をエレオノーラへかざそうとしたそのとき、床に落ちていた小刀が、かすかに動いた。エレオノーラのドレスの裾に引かれたのか、あるいは、誰かの足が触れたのか、ほんの僅かな動きだったけれど。
「ひっ……!」
リリアは短い悲鳴を上げた。反射的に手を伸ばし、小刀を払いのける。硬い音を立てて、刃物は長椅子から少し離れた床まで滑っていった。
「リリア!」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「いいから早く!」
「はい……!」
リリアは青ざめたまま、今度こそ両手をエレオノーラへかざした。
「神よ……どうか……」
淡い光が生まれた。リリアの掌から白い光が溢れ、エレオノーラを包む。
「治ったのか?」
アルフレッドが尋ねた。
リリアは青い顔で頷いた。
「た、多分……」
「多分?」
「大丈夫です! 聖女の力を使いました!」
アルフレッドは安堵した。
「よかった……」
「このことは、しばらく伏せよう」
ユリウスが驚いてアルフレッドを見る。
「殿下?」
「エレオノーラが自害を図ったなどと知られれば、公爵家の名誉にも傷がつく。それに婚約解消の話も、まだ正式なものではない」
「しかし医師を呼ぶべきでは」
「リリアの力で傷は癒えている!」
「ですが」
「みてみろ。眠っているだけだ……」
アルフレッドはエレオノーラを長椅子へ寝かせた。
傷は浅く、治癒魔法のおかげなのか少しの出血ですでに止まっている。
「ショックをうけただけで、少し眠れば目を覚ますだろう」
リリアも何度も頷いた。
「そ、そうです。大丈夫です」
「……承知しました」
三人は黙った。医師は呼ばれなかった。
侍女にも護衛にも知らせなかった。
「二人は戻った方がいい」
アルフレッドが扉の向こうを窺い、小声で言った。
エレオノーラの侍女と護衛は、この部屋から少し離れた控えの間で主人を待っている。彼らに見つかれば、当然エレオノーラについて尋ねられる。
それ以上にまずかったのは、二人きりという条件で開かれたこの非公式の話し合いにユリウスとリリアまで同席していたことが知られることだった。
アルフレッドは以前からリリアとの関係に協力的であったユリウスと、誠実に婚約解消を告げるのであれば、次の婚約者として望んでいるリリアを同席させたかったのだ。
二人はもともと、人目につかない裏口からこの部屋へ入っている。
「二人を来たときと同じ裏口まで送る、私はすぐに戻る」
アルフレッドが言った。
「殿下、お一人で大丈夫ですか?」
「ああ。リリアが治してくれたのだろう?」
長椅子に横たわるエレオノーラは、首元に残るのは僅かな傷だけ。顔色は悪いが、呼吸もしている。リリアが治したと言ったのだ。聖女の力を信じるなら、今は眠っているだけ。
「目を覚ましたら、続きの話をしなければならない」
婚約を解消したいという意思は変わらない。こんな形で終わらせるつもりもなかった。落ち着いて、今度こそきちんと話をしよう。
リリアが頷き、ユリウスが先に廊下の様子を確認する。三人は侍女や護衛のいる控えの間とは反対方向へ進み、先ほど二人が入ってきた裏口へ向かう。
アルフレッドは去り際にもう一度、長椅子に横たわるエレオノーラを見て、静かに扉を閉めた。




