煙
〈1982年: 昭和57年 日本〉
神谷 恒一:15歳
*
その雀荘は…とにかく煙たかった。
何の煙だ? タバコだ。
この当時、麻雀をする人の手には2本の棒、タバコと点棒が必ずといっていいほどあった。
煙たい。
今自分が座ってる卓の状況がぼんやりと見える程度で、他は何も見えない。
しかしこの煙は、ある者にとっては、心にかかった煙、いや霧そのもの。
「ボウズ、それだ!ロン!リーチ、タンヤオ、ピンフ、3色、で満貫だ」
「………クソ…」
(遊ばれてる…、両面待ちの3色でリーチかけるなんて。ガキだからって舐められてる)
例えば5、6の待ちが4、7だった場合、3色が付くのは片方だけ。
つまりこの場合、セオリーのリーチは悪手。
リーチをしないのならば、一巡流せば再び3色を狙える。
達也はイラついた手つきで、牌を混ぜ始める。
早瀬 達也:15歳。中学生。
金欲しさに雀荘に転がり込んでいるが、大人たちに一回もアガれないでいる。
*【南1局】達也:西 ドラ表示は4萬
{達也:配牌 萬〈1、4、5×2、9〉 筒〈1、2、5、6、7、8〉 索〈1、6〉 字〈白〉}
達也の点数は1万点、対面のハゲデブがトップで、その差は軽く3万点は離れている。
「なぁ知ってるか?最近、ボタンひとつで山を積んで、配牌までをしてくれる麻雀卓の開発が進んでるらしいんだわ」
「本当か?それが本当なら、いちいち面倒なことせず楽しめるな」
(嘘だ。コイツらは積み込みをしてやがる…イカサマをしなければ勝つのはこの僕だ)
一巡目、達也ツモ:2萬 打:白
「ポン!」
対面のハゲデブの早鳴き。
(速攻か?…まだ捨て牌を見ないとわからない…)
しかし、捨てたのはドラの5萬。
(初っ端からドラ切り?本当に白だけの安め目でアガるきか?)
さらにその5巡後。
「ポン!」
ハゲデブが今度は、南のロン毛が捨てた中を鳴いた。
(大三元?!それなら初っ端のドラ切りも説明がつく)
6巡目
「カン」
新ドラ表示は9筒。つまり新ドラは1筒。
この時はこのまま何もなかった。
しかし、問題が起きたのは14巡目、達也ツモ:撥
{達也 手牌:萬〈4・5・5・6・7〉 筒〈5・6・7・8×2〉 索〈6・7・8〉 門前}
対面は白と中の2鳴。この状況で普通撥は切れない。
が、6巡目の南風の河には撥があり、ハゲデブはそれを見逃している。
(白、中で2000点か?それとも6巡目にはまだ撥の対子ができていなかった…か)
必死に喰らいついて、ここまで来た。
____跳満が見えるこの手。
何としてもモノにしたいところだが、何度も直撃をとられた人間に、この迷いという霧を払うことなど不可能。
「早くしてくれねぇかな〜、ボウズ」
(クッソ………、僕にはできない…)
達也は苦渋の決断を取り、現物の5萬を切った。そして____
「ロン!」
北風のメガネが13の牌を倒した。
{手牌:萬子〈3・4・9×3〉 筒〈1×3・6×2〉 字牌〈西×3〉}
「三暗刻、ドラ4で跳満…12000だ」
「____トビだな、終わりだボウズ」
達也の持ち点は-2000。トビである。
静かな声だった…まるで死刑を宣告するかのような。
「ハハッ!最近奇妙なガキが、雀荘荒らしてるってんで、警戒してたんだが、どうやらオマエじゃねぇみたいだなー、ハッハハ!」
(後の流れは決まってる。賭けの金が払えないから殴れて、ボロボロの僕を、道路脇にゴミのように放置するんだ…
こうなったのもクソオヤジのせいだ…あのアホが酒の勢いで殺人を犯しやがって…
おかげで家に金はねえ、犯罪者の息子なんてどこも雇いはしねえ…。
____ああぁ、クソ…金が、金が欲しい。金、金、金____)
(あぁ………クソ痛ぇ…。身体がじゃない。身体がこうなることでしか、自分が負けたんだと理解できない心が…1番痛い)
*
達也はおぼつかない足取りで繁華街を歩く。
夜風が、より痛みを増させる。
もはや前に歩いているのか、右を歩いているのか、はたまた宙を歩いているのかすらわからないほどに朦朧としていた。
しかしある程度し、痛みに慣れた頃、あることを思い出した。
「カバンだ。雀荘に置いて来ちまった」
(そうだった…大人たちから大金をふんだくった時のために、金がたくさん入るカバンを持ってたんだった………)
周りの大きな建物を目印に、さっきの雀荘を目指すと、達也は、自分が全くもって、ちんぷんかんぷんな道を歩いていたんだと気付かされる。
だいぶ時間はかかってしまったが、たどり着いてドアを開けると、達也が座っていた卓に、新しい人が座っているのがわかった。
よく見てみると、達也と年齢が近いくらいの青年だった。
(かわいそうに…コイツも僕みたいにイカサマで一方的に負かされるんだろうな…)
しかし、何か違和感を感じる…雰囲気がおかしい。
自分たちが散々ボコった人間が再び現れたのにも関わらず、まったく気にしないほどに集中…いや、怯えている。
そして達也の違和感の正体は、すぐさま暴かれることとなる。
コイツ以外、誰も麻雀をしていない。
オレを負かせたハゲデブもメガネも、ロン毛も、みんなコイツに麻雀をやらされている。
誰も何も言わない、カチ、カチ、と牌が当たる音だけが聞こえてくる。
カチ。メガネが牌を捨てる。
カチ。ハゲデブが牌を捨てる。
カチ。ロン毛が牌を捨てる。
_____________カチ!青年が牌を捨てる。それだけで、この場の空気は彼だけのものとなる。
そこには一切の迷いがない。
あるのはただ、勝つのに必要な牌。それを取り込むのみである。
〈17巡目〉
「ポン!」「ポン!」
(対面、ハゲデブの白、中を2鳴き?!)
しかし、達也のときとは違い、かなり焦りの見える鳴きだった。
その直後、青年は撥をツモった。
彼の手牌に撥は、今ツモってきたやつしかない。
(僕と同じ状況…いや、撥は17巡目なのに1枚も切れてない。つまり状況は僕よりも最悪)
青年はなんの迷いもなくそばのタバコに手を伸ばし、口に咥えた。
空いた左手でマッチを用意して、「シュッ!」と火をつけ、そのまま口元のタバコに近づける。
「ふぅ〜」と吐き出された煙は、天井に消えていった。
「へっ、へへ…どうしたガキ、テメェの悪運をここまでか?」
苦し紛れの笑い。しかし、事実、これは撥を抱えて降りるしかないだろう。
だか、彼には一貫として、“迷い”の文字が映ることはなかった。
「ジジイ…地獄の淵は見えてるぜ」
「タァン!」と緑の戦場に打ち出されたのは、撥。
ハゲデブは……何もできなかった。
『なぜこの状況でそんな牌を……』誰もがこう思っただろう。
視界を全て覆う大量のタバコの煙。それは今もある
——だが、あの男だけは曇らない。
そして対面が5萬を捨てた。
それをただ1人、不敵にほくそ笑む___
「フッ、フフ。言ったろ?地獄の淵が…見えてるって」
「ロン」
{手牌 萬〈1・2×2・3×2・4×2・6・7・8・9×3〉}
「清一色…一通…ドラ1」
「____倍満」
誰も動かなかった。
点棒が静かに動いただけだった。
達也は圧倒された。
自分が負けた理由をイカサマだと、雑に片付けた自分が恥ずかしくなった。
(そうか…僕が払えなかった迷いを…払ってくれたのか)




