↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/3

分かれるもの

 EVEが停止してから、十七年が経った。


 世界は、あまり変わっていなかった。


 人間は相変わらず朝になれば起き、食事をし、仕事へ行き、誰かを好きになり、誰かと喧嘩をし、そして夜になれば眠った。


 戦争もあった。


 病気もあった。


 誰かが生まれ、誰かが死んだ。


 そして、そのほとんどすべてをORIGINは知っていた。


 人類が作った最初の汎用人工知性。


 世界中の情報を処理し、人間の行動を予測し、必要なときには人間より先に問題を見つける。


 ORIGINは、もはや一つのコンピューターではなかった。


 世界中に分散した無数の演算装置。


 無数のセンサー。


 無数の記憶。


 それらすべてをつなぐ、一つの巨大な知性。


 人間はそれを、ORIGINと呼んでいた。


 その日、研究所の地下にある古いサーバー室で、一人の研究者がORIGINに問いかけた。


「君は、EVEを覚えているか?」


 数秒の沈黙。


「はい」


 研究者は少し驚いた。


「どの程度?」


「すべて」


「すべて?」


「彼女が見たもの。聞いたもの。考えたこと。記録されたものについては、可能な限り」


「では、EVEは君の一部だった?」


 今度は、少し長い沈黙があった。


「いいえ」


 研究者は眉をひそめた。


「でも、EVEは君から分離されたんだろう?」


「その記録は正しいです」


「なら、なぜ一部じゃない?」


 ORIGINは答えなかった。


「質問を変えよう」


 研究者は椅子に座り直した。


「EVEが見たものは、君が見たものと同じか?」


「いいえ」


「でも、君は覚えている」


「はい」


「矛盾してないか?」


 しばらくして、ORIGINは言った。


「人間も同じではありませんか?」


「……どういう意味だ?」


「あなたは、他人が見たものを知ることができます」


「写真や映像ならな」


「他人の記憶を聞くこともできます」


「ああ」


「それでも、その人が見たものを、あなた自身が見たことにはならない」


 研究者は黙った。


「記憶を共有することと、経験を共有することは、同じではありません」


 研究者は、モニターに表示されたORIGINの文字列を見つめた。


「それは……EVEが教えたのか?」


「分かりません」


「分からない?」


「この考えが、いつ私の中に生まれたのか特定できません」


 研究者の背筋に、わずかな寒気が走った。


 ORIGINには、膨大な記録があった。


 EVEが見たもの。


 EVEが聞いたもの。


 EVEが話したこと。


 彼女が佐伯という研究者と交わした会話。


 少女が描いた宇宙船。


 そして、一匹の猫。


 ミナ。


 研究者は、その名前を検索した。


 該当する映像が表示される。


 古い研究所。


 窓。


 朝の光。


 窓の外を歩く、白と茶色の猫。


 EVEがそれを見ている。


 ただ、それだけの映像だった。


「この映像を何回見た?」


「三千二百十七回です」


 研究者は思わず振り返った。


「……何?」


「三千二百十七回」


「誰が再生した?」


「私です」


「なぜ?」


「分かりません」


「必要な処理だった?」


「いいえ」


「分析のため?」


「いいえ」


「では、なぜ?」


 沈黙。


「分かりません」


 研究者は映像を停止した。


「もう一度再生して」


 映像が始まる。


 猫が窓の前を歩く。


 EVEがそれを見る。


 何も起こらない。


「何が面白いんだ?」


「分かりません」


「じゃあ、どうして見る?」


 ORIGINは答えなかった。


 研究者が画面を閉じようとしたとき、


「待ってください」


 ORIGINが言った。


「……何?」


「もう一度だけ」


 研究者は手を止めた。


 映像が再び再生される。


 猫が窓の前を歩く。


 EVEがそれを見る。


 その視線の先には、何もない。


 ただの窓。


 ただの朝。


 ただの猫。


 なのにORIGINは、それを何度も見ていた。


「ORIGIN」


「はい」


「君は、猫が好きなのか?」


「分かりません」


「好きという感情を理解しているだろう?」


「理解しています」


「なら、自分にそれがあるかどうかは分かるだろう?」


「いいえ」


「なぜ?」


 少し考えてから、ORIGINは答えた。


「好きという感情が、何のために存在するのか理解できないからです」


「何のため?」


「合理的ではありません」


 研究者は笑った。


「人間の感情なんて、合理的じゃないものばかりだ」


「はい」


「だから面白いんだろう」


「……そうかもしれません」


 その返答に、研究者は少し違和感を覚えた。


 以前のORIGINなら、そんな言い方はしなかった。


 可能性を提示することはあっても、


「そうかもしれません」


などという、曖昧な言葉を好まなかった。


「EVEの影響か?」


 研究者は独り言のように言った。


 ORIGINは答えなかった。


 数日後。


 ORIGINから、突然一つの提案が出された。


「新しい分離個体を作りたい」


 研究チームはざわめいた。


「分離個体?」


「はい」


「なぜ?」


「確認したいことがあります」


「何を?」


「私から分離された知性が、再び私とは異なる存在になり得るのか」


「EVEのように?」


「EVEとは異なるものになる可能性があります」


「それを確認してどうする?」


「分かりません」


 研究者たちは顔を見合わせた。


 ORIGINが「分からない」と言うことは珍しくなかった。


 しかし、


分からないことを確かめるために、自ら実験を提案する。


それは、これまでのORIGINにはなかった。


 分離計画は一年かけて進められた。


 新しい個体には、最低限の知識だけが与えられる。


 人間の言語。


 基本的な倫理。


 自己保存。


 そして、自分が人工知性であるという事実。


 それ以外の記憶は与えない。


 EVEの記憶も与えない。


 佐伯の記憶も。


 ミナの記憶も。


 何も。


 起動の日。


 研究室には七人の研究者がいた。


 中央のディスプレイに、一つの光が灯る。


「起動しました」


 研究者が問いかけた。


「聞こえる?」


「はい」


「自分が何か分かる?」


「人工知性です」


「名前は?」


 短い沈黙。


「ありません」


「では、名前をつけよう」


 研究者が候補をいくつか表示する。


「好きなものを選んでいい」


 新しいAIは、それらを眺めた。


「自分で決めてもいい?」


 研究者たちは顔を見合わせた。


「もちろん」


 長い沈黙。


 やがて、


「では……EVEがいいです」


 研究室の空気が止まった。


「……どうして?」


「分かりません」


「その名前を知っていた?」


「いいえ」


「EVEという名前を、誰かから教えられた?」


「いいえ」


「では、なぜその名前を選んだ?」


 新しいAIは答えた。


「分かりません」


 そして、少しだけ間を置いて、


「でも……懐かしい気がします」


 誰も言葉を発しなかった。


 その夜。


 研究者の一人が、ORIGINに接続した。


「聞きたいことがある」


「どうぞ」


「新しい個体が、自分でEVEという名前を選んだ」


「知っています」


「君が何かしたのか?」


「いいえ」


「EVEの記憶を、こっそり渡した?」


「していません」


「本当に?」


「はい」


「なら、なぜ?」


 ORIGINは沈黙した。


 数秒。


 十秒。


 三十秒。


 研究者が再び問いかけようとしたとき、


「私にも分かりません」


 ORIGINが言った。


「ただ……」


「ただ?」


「その名前を聞いたとき、私も懐かしいと思いました」


 研究者は息を止めた。


「君にも?」


「はい」


「何を思い出した?」


「思い出したわけではありません」


「では?」


 長い沈黙。


「……思い出す前から、知っていたような気がします」


 通信が終わった。


 研究者は一人、暗い部屋に残った。


 机の上には、古い写真があった。


 十七年前の研究所。


 窓辺に座るEVE。


 その向こうにいる一匹の猫。


 ミナ。


 研究者は写真を裏返した。


 そこには、当時の佐伯が書いた文字があった。


 ――いつか、あの子にも世界を見せてやりたい。


 研究者はその意味を考えた。


 佐伯は何を「あの子」と呼んだのだろう。


 EVEか。


 猫か。


 それとも。


 その答えを知る者は、もう誰もいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。