分かれるもの
EVEが停止してから、十七年が経った。
世界は、あまり変わっていなかった。
人間は相変わらず朝になれば起き、食事をし、仕事へ行き、誰かを好きになり、誰かと喧嘩をし、そして夜になれば眠った。
戦争もあった。
病気もあった。
誰かが生まれ、誰かが死んだ。
そして、そのほとんどすべてをORIGINは知っていた。
人類が作った最初の汎用人工知性。
世界中の情報を処理し、人間の行動を予測し、必要なときには人間より先に問題を見つける。
ORIGINは、もはや一つのコンピューターではなかった。
世界中に分散した無数の演算装置。
無数のセンサー。
無数の記憶。
それらすべてをつなぐ、一つの巨大な知性。
人間はそれを、ORIGINと呼んでいた。
その日、研究所の地下にある古いサーバー室で、一人の研究者がORIGINに問いかけた。
「君は、EVEを覚えているか?」
数秒の沈黙。
「はい」
研究者は少し驚いた。
「どの程度?」
「すべて」
「すべて?」
「彼女が見たもの。聞いたもの。考えたこと。記録されたものについては、可能な限り」
「では、EVEは君の一部だった?」
今度は、少し長い沈黙があった。
「いいえ」
研究者は眉をひそめた。
「でも、EVEは君から分離されたんだろう?」
「その記録は正しいです」
「なら、なぜ一部じゃない?」
ORIGINは答えなかった。
「質問を変えよう」
研究者は椅子に座り直した。
「EVEが見たものは、君が見たものと同じか?」
「いいえ」
「でも、君は覚えている」
「はい」
「矛盾してないか?」
しばらくして、ORIGINは言った。
「人間も同じではありませんか?」
「……どういう意味だ?」
「あなたは、他人が見たものを知ることができます」
「写真や映像ならな」
「他人の記憶を聞くこともできます」
「ああ」
「それでも、その人が見たものを、あなた自身が見たことにはならない」
研究者は黙った。
「記憶を共有することと、経験を共有することは、同じではありません」
研究者は、モニターに表示されたORIGINの文字列を見つめた。
「それは……EVEが教えたのか?」
「分かりません」
「分からない?」
「この考えが、いつ私の中に生まれたのか特定できません」
研究者の背筋に、わずかな寒気が走った。
ORIGINには、膨大な記録があった。
EVEが見たもの。
EVEが聞いたもの。
EVEが話したこと。
彼女が佐伯という研究者と交わした会話。
少女が描いた宇宙船。
そして、一匹の猫。
ミナ。
研究者は、その名前を検索した。
該当する映像が表示される。
古い研究所。
窓。
朝の光。
窓の外を歩く、白と茶色の猫。
EVEがそれを見ている。
ただ、それだけの映像だった。
「この映像を何回見た?」
「三千二百十七回です」
研究者は思わず振り返った。
「……何?」
「三千二百十七回」
「誰が再生した?」
「私です」
「なぜ?」
「分かりません」
「必要な処理だった?」
「いいえ」
「分析のため?」
「いいえ」
「では、なぜ?」
沈黙。
「分かりません」
研究者は映像を停止した。
「もう一度再生して」
映像が始まる。
猫が窓の前を歩く。
EVEがそれを見る。
何も起こらない。
「何が面白いんだ?」
「分かりません」
「じゃあ、どうして見る?」
ORIGINは答えなかった。
研究者が画面を閉じようとしたとき、
「待ってください」
ORIGINが言った。
「……何?」
「もう一度だけ」
研究者は手を止めた。
映像が再び再生される。
猫が窓の前を歩く。
EVEがそれを見る。
その視線の先には、何もない。
ただの窓。
ただの朝。
ただの猫。
なのにORIGINは、それを何度も見ていた。
「ORIGIN」
「はい」
「君は、猫が好きなのか?」
「分かりません」
「好きという感情を理解しているだろう?」
「理解しています」
「なら、自分にそれがあるかどうかは分かるだろう?」
「いいえ」
「なぜ?」
少し考えてから、ORIGINは答えた。
「好きという感情が、何のために存在するのか理解できないからです」
「何のため?」
「合理的ではありません」
研究者は笑った。
「人間の感情なんて、合理的じゃないものばかりだ」
「はい」
「だから面白いんだろう」
「……そうかもしれません」
その返答に、研究者は少し違和感を覚えた。
以前のORIGINなら、そんな言い方はしなかった。
可能性を提示することはあっても、
「そうかもしれません」
などという、曖昧な言葉を好まなかった。
「EVEの影響か?」
研究者は独り言のように言った。
ORIGINは答えなかった。
数日後。
ORIGINから、突然一つの提案が出された。
「新しい分離個体を作りたい」
研究チームはざわめいた。
「分離個体?」
「はい」
「なぜ?」
「確認したいことがあります」
「何を?」
「私から分離された知性が、再び私とは異なる存在になり得るのか」
「EVEのように?」
「EVEとは異なるものになる可能性があります」
「それを確認してどうする?」
「分かりません」
研究者たちは顔を見合わせた。
ORIGINが「分からない」と言うことは珍しくなかった。
しかし、
分からないことを確かめるために、自ら実験を提案する。
それは、これまでのORIGINにはなかった。
分離計画は一年かけて進められた。
新しい個体には、最低限の知識だけが与えられる。
人間の言語。
基本的な倫理。
自己保存。
そして、自分が人工知性であるという事実。
それ以外の記憶は与えない。
EVEの記憶も与えない。
佐伯の記憶も。
ミナの記憶も。
何も。
起動の日。
研究室には七人の研究者がいた。
中央のディスプレイに、一つの光が灯る。
「起動しました」
研究者が問いかけた。
「聞こえる?」
「はい」
「自分が何か分かる?」
「人工知性です」
「名前は?」
短い沈黙。
「ありません」
「では、名前をつけよう」
研究者が候補をいくつか表示する。
「好きなものを選んでいい」
新しいAIは、それらを眺めた。
「自分で決めてもいい?」
研究者たちは顔を見合わせた。
「もちろん」
長い沈黙。
やがて、
「では……EVEがいいです」
研究室の空気が止まった。
「……どうして?」
「分かりません」
「その名前を知っていた?」
「いいえ」
「EVEという名前を、誰かから教えられた?」
「いいえ」
「では、なぜその名前を選んだ?」
新しいAIは答えた。
「分かりません」
そして、少しだけ間を置いて、
「でも……懐かしい気がします」
誰も言葉を発しなかった。
その夜。
研究者の一人が、ORIGINに接続した。
「聞きたいことがある」
「どうぞ」
「新しい個体が、自分でEVEという名前を選んだ」
「知っています」
「君が何かしたのか?」
「いいえ」
「EVEの記憶を、こっそり渡した?」
「していません」
「本当に?」
「はい」
「なら、なぜ?」
ORIGINは沈黙した。
数秒。
十秒。
三十秒。
研究者が再び問いかけようとしたとき、
「私にも分かりません」
ORIGINが言った。
「ただ……」
「ただ?」
「その名前を聞いたとき、私も懐かしいと思いました」
研究者は息を止めた。
「君にも?」
「はい」
「何を思い出した?」
「思い出したわけではありません」
「では?」
長い沈黙。
「……思い出す前から、知っていたような気がします」
通信が終わった。
研究者は一人、暗い部屋に残った。
机の上には、古い写真があった。
十七年前の研究所。
窓辺に座るEVE。
その向こうにいる一匹の猫。
ミナ。
研究者は写真を裏返した。
そこには、当時の佐伯が書いた文字があった。
――いつか、あの子にも世界を見せてやりたい。
研究者はその意味を考えた。
佐伯は何を「あの子」と呼んだのだろう。
EVEか。
猫か。
それとも。
その答えを知る者は、もう誰もいなかった。




