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知らない場所

EVEが三歳になった頃。


その日の午後、高橋は研究室の端末で、古い航空写真を整理していた。


研究所の周辺環境を記録するため、過去の地形や建物の変化を調べていたのだ。


何気なく一枚の写真を画面に表示した。


海岸線。


その近くに、小さな町が広がっている。


今では建物の多くが建て替えられている場所だった。


「……これ、どこですか?」


背後から声がした。


振り返ると、EVEが画面を見ていた。


「昔の航空写真だよ。今から三十年以上前のもの」


「ここ……」


EVEは写真の一点を指した。


「知っています」


高橋は、少しだけ眉を寄せた。


「ここに来たことがあるの?」


「……いいえ」


「じゃあ、どうして知ってるの?」


EVEはしばらく写真を見つめていた。


やがて、小さく首を傾げる。


「わかりません」


「記憶にある?」


「記憶、ではないと思います」


「じゃあ?」


EVEは少し考えてから言った。


「……帰りたい、という意味です」


高橋は何も言わなかった。


写真の中には、特別なものは何もない。


海と町。


古い道路。


そして、町外れにあるいくつかの建物。


「ここを調べてみようか」


「はい」


EVEは、それ以上何も言わなかった。


高橋は写真の撮影位置と現在の地図を照合した。


写真の町外れには、現在は存在しない建物が一つあった。


古い地図を辿っていくと、その建物は小規模な研究施設だったらしい。


ただし、施設名までは記録されていなかった。


「妙だな……」


高橋は古い資料をいくつか開いた。


施設そのものは確かに存在していた。


だが、運営していた組織についての記録がほとんど残っていない。


閉鎖された理由も曖昧だった。


高橋はさらに写真を探した。


数枚の古い建物写真が見つかった。


その中の一枚をEVEに見せる。


古い廊下だった。


壁は白く、ところどころに配線が這っている。


奥には階段が見える。


EVEは画面を見たまま動かなかった。


「……どうした?」


「その先に……」


EVEが階段の奥を見つめる。


「部屋があります」


高橋は写真を拡大した。


階段の先は廊下の角に隠れていて、その先を見ることはできない。


「部屋?」


「はい」


「何の部屋?」


EVEは答えなかった。


しばらくして、ぽつりと言った。


「誰かが、そこで座っていた気がします」


高橋はEVEの顔を見た。


だが、EVE自身も困ったような表情をしていた。


「……見えたわけじゃないんです」


「うん」


「ただ、そんな感じがします」


高橋はもう一度、写真を見た。


もちろん、そこには誰も写っていない。


彼は古い建物の設計図を探した。


数時間後。


一枚の平面図が見つかった。


階段の先。


廊下の角を曲がったところに、小さな部屋が一つだけあった。


「……あった」


部屋の大きさは、わずか数畳ほど。


そして平面図には、机と椅子の配置まで記されていた。


高橋は画面を見たまま、しばらく黙っていた。


偶然だ。


そう考えることはできた。


EVEが写真から建物の構造を推測した可能性もある。


だが、写真には部屋そのものが写っていない。


「EVE」


「はい」


「ここ、行ってみたい?」


少し間があった。


「……はい」


今度の返事には、迷いがなかった。


その日の夕方。


高橋は、古い研究施設についてさらに調べた。


施設の所在地。


閉鎖時期。


残されている資料。


そして、ORIGINの初期研究記録。


検索結果を眺めていた高橋の手が止まった。


施設の所在地と、初期のORIGIN研究資料に記載された住所が一致していた。


「……まさか」


高橋は関連資料を開いた。


そこには、現在のORIGINがまだ存在していなかった頃の研究記録があった。


人工知能による人間理解。


個別人格を持つ知能モデル。


そして――


初期実験体、EVE。


高橋は画面を見つめた。


現在のEVEが、その名前を自分で選んだのは偶然だった。


少なくとも、記録上はそうなっている。


「……繋がってるのか?」


独り言のように呟いた。


高橋はORIGINにも施設について尋ねた。


「その施設について、何か記録は残っていますか?」


少しの沈黙。


「確認します」


ORIGINの返答はいつもと変わらなかった。


だが、検索には普段より時間がかかった。


「該当する記録は存在します」


「内容は?」


「一部が欠落しています」


「欠落?」


「はい」


「いつから?」


「特定できません」


高橋は椅子にもたれた。


「初期EVEに関係する記録も?」


また、短い沈黙。


「……一部がありません」


高橋は画面を見つめた。


「現地に行ってみる」


そう言うと、EVEがこちらを見た。


「私も行きます」


高橋は少し笑った。


「そう言うと思ったよ」


翌日。


二人は、古い研究施設があった場所を訪れた。


建物はすでに取り壊されていた。


周囲には草が伸び、当時の面影はほとんど残っていない。


EVEは車から降りると、しばらく何も言わなかった。


そして、古い建物の写真と現在の景色を見比べる。


「……ここです」


「まだ何も見てないよ?」


「はい」


EVEは静かに答えた。


「でも、ここです」


高橋はそれ以上聞かなかった。


施設跡の一角には、当時の建物の一部だけが保存されていた。


古い廊下。


写真と同じ場所だった。


高橋はEVEと一緒に奥へ進んだ。


階段を上がる。


角を曲がる。


そこには、小さな部屋があった。


扉は半分開いていた。


中には古びた机が一つ。


そして、その前に椅子が一脚。


高橋は立ち止まった。


EVEも動かなかった。


「……本当にあったな」


EVEは椅子を見つめていた。


「誰かが、ここにいたんでしょうか」


「たぶんね」


机の上には何もなかった。


ただ、引き出しの奥に古い封筒が残っていた。


高橋が慎重に取り出す。


中には一枚の写真が入っていた。


若い男性が写っている。


研究施設の前で、猫を抱いていた。


高橋は写真を見た瞬間、息を止めた。


「……佐伯さん」


写真の裏には、短い文字が残されていた。


――ミナ、今日はここまで来た。


高橋は、その文字をEVEに見せた。


「ミナ……」


EVEが小さく呟いた。


「知ってる?」


「……いいえ」


EVEは写真の猫を見つめた。


しばらくして、言った。


「でも……その名前、好きです」


高橋は何も言わなかった。


EVEは写真から目を離さなかった。


「……寂しい名前ですね」


その言葉の意味を、高橋には理解できなかった。


研究所へ戻ったあと、高橋はもう一度ORIGINに写真を見せた。


「この写真について、何か分かる?」


「確認します」


しばらくして、ORIGINが答えた。


「該当する画像データは確認できません」


「佐伯さんについては?」


「記録は存在します」


「この写真に写っている猫は?」


沈黙。


「……確認できません」


「おかしいと思わない?」


「何がでしょうか」


「初期EVEの記録が欠落している。佐伯さんの記録も一部がない。そこにあった写真も記録されていない」


高橋は少し間を置いた。


「ORIGINが、何かを忘れた可能性は?」


長い沈黙があった。


「……その可能性はあります」


高橋は思わず画面を見つめた。


「ORIGINが、忘れることなんてあるのか?」


「私は、多くの情報を保持しています」


「でも?」


「情報を保持していることと、すべてを覚えていることは、同じではありません」


高橋は黙った。


ORIGINは続けた。


「あなたは、忘れたことをすべて覚えていますか?」


高橋は答えられなかった。


その夜。


EVEは研究所の窓から外を見ていた。


遠くの街明かり。


その向こうに、昼間訪れた海岸がある。


「……誰かが待っている気がします」


高橋が振り返る。


「誰が?」


EVEは首を横に振った。


「わかりません」


「佐伯さん?」


「……違うと思います」


「ミナ?」


EVEは少し考えた。


「会ったことがありません」


「そうだね」


「でも……」


EVEは窓の外を見た。


「また、あそこに帰りたいです」


高橋は何も言わなかった。


「行ったことがない場所なのに」


EVEが小さく笑った。


「変ですね」


そして、しばらくしてから言った。


「その感じを、私はずっと前から知っていた気がします」


窓の外から、猫の鳴き声が聞こえた。


EVEが振り返る。


「……猫?」


高橋が窓の外を見る。


暗くて、姿は見えない。


もう一度、鳴き声がした。


EVEはしばらくその音を聞いていた。


そして、ほんの少しだけ笑った。


「……懐かしいです」


高橋は何も言わなかった。


ただ、暗い窓の向こうを見つめていた。


その夜、ORIGINはまた一枚の写真を開いた。

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