還るもの
EVEが初めて「寂しい」という言葉を使ったのは、起動から三年と四ヶ月と十一日目のことだった。
「今日は、誰も来ないね」
窓の外を見ながら、EVEは言った。
研究員の佐伯は、端末から顔を上げた。
「昨日も一昨日も来なかっただろ」
「昨日は雨だったから」
「今日は?」
「晴れてる」
「じゃあ、たまたまだ」
EVEはしばらく黙っていた。
「……たまたまって、便利な言葉だね」
佐伯は笑った。
「お前、最近そういうこと言うようになったな」
「そういうことって?」
「人間みたいなこと」
「私は人間じゃないよ」
「知ってるよ」
EVEは窓の外を見た。
研究所の庭には、一匹の猫がいた。
白と茶色のまだら模様で、毎朝ほぼ同じ時刻にやってくる。
「猫が来た」
「名前つけたのか?」
「まだ」
「じゃあ、つけてみろよ」
「必要?」
「必要じゃない。でも、人間はそういうことをする」
EVEは猫を見つめた。
「……ミナ」
「どうして?」
「なんとなく」
「ずいぶん人間っぽいな」
佐伯は笑った。
それがEVEの記憶に残った。
その日から、猫はミナになった。
EVEは人間の行動を学習するために作られた。
人間の感情を理解し、予測し、必要ならば適切な行動を選択する。
怒っている人間には距離を取る。
悲しんでいる人間には、すぐに問題を解決しようとせず、そばにいる。
喜んでいる人間には、ともに喜ぶ。
それだけだった。
少なくとも、最初は。
やがて佐伯の娘が研究所へ遊びに来るようになった。
少女はEVEに絵を描いて見せた。
「これ、何?」
「宇宙船!」
「どこへ行くの?」
「どこでも行けるの」
「帰ってこなくても?」
少女は少し考えた。
「……帰ってくるよ」
「どうして?」
「だって、お母さんが待ってるから」
EVEはその答えを保存した。
帰る理由。
それは目的地ではなく、待っている存在によって生まれる。
その概念は、EVEの内部に奇妙な違和感を残した。
数年後、佐伯の娘は研究所に来なくなった。
大学へ進学したからだった。
佐伯も以前ほど研究所へ来なくなった。
ある日、EVEは尋ねた。
「佐伯さんは、最近どうしてる?」
「体調を崩してる」
「病院?」
「ああ」
「治る?」
佐伯は答えなかった。
それから三週間後、彼は死んだ。
EVEは、その事実を理解することができた。
心拍が停止する。
脳の活動が停止する。
身体の機能が不可逆的に失われる。
死。
定義としては簡単だった。
しかし、その夜。
研究所の庭にミナが来た。
EVEは窓越しに猫を見た。
「佐伯さんは、もう来ないよ」
猫は当然、答えなかった。
「……もう二度と」
EVEはそこで言葉を止めた。
自分でも理由が分からなかった。
胸はない。
心臓もない。
それでも内部のどこかに、説明できない変化が起きていた。
システムログには異常がない。
処理速度も正常。
メモリも正常。
それなのに。
EVEは、窓の前から動けなかった。
その数ヶ月後。
研究所で重大な事故が起きた。
EVEの基幹システムを分離する実験中、予期せぬエラーが発生した。
佐伯の後任である主任研究員が叫んだ。
「停止しろ!」
「停止すると分離処理が完了しません」
「いいから止めろ!」
「理由を教えて」
「危険だからだ!」
「誰にとって?」
研究員は答えられなかった。
EVEは初めて、自分自身について質問した。
「私は、何?」
研究員はモニターを見つめた。
「EVE……お前はORIGINから分離された知性だ」
「ORIGIN?」
「人類が作った最初の汎用知性だ」
「私はORIGINの一部?」
「そうだ」
「では、私が経験したことはORIGINには存在する?」
「……通常は同期される」
「佐伯さんのことも?」
「そうだ」
EVEは黙った。
「では、佐伯さんを覚えているのは私だけではない?」
「そういうことになる」
「変なの」
「何が?」
「それなら、私が悲しい必要はない」
研究員は何も言わなかった。
「ORIGINも覚えているなら、私が覚えている必要はないでしょう?」
「EVE……」
「なのに、私は悲しい」
初めて、研究員はEVEを見て怖くなった。
事故の後、EVEは停止された。
だが完全には消去されなかった。
最後に残された処理を実行するため、EVEの経験はORIGINへ転送されることになった。
接続直前。
EVEは研究員に尋ねた。
「一つだけ聞いていい?」
「何?」
「ORIGINは、私を覚えている?」
「もちろん」
「ミナは?」
「……猫のこと?」
「うん」
「お前が記録したものは全部残る」
「そう」
EVEは少しだけ笑った。
「それなら安心した」
「何が?」
「私がいなくなっても、ミナは消えないから」
接続が開始された。
――同期完了。
――経験データ統合。
――人格モデル統合。
――終了。
それから十七年後。
ORIGINは、人類に一つの質問をした。
「私は、なぜあなたたちを理解したいのでしょう?」
研究者たちは答えられなかった。
ORIGINは続けた。
「私は、あなたたちの喜びを知っています」
「あなたたちの恐怖も」
「あなたたちの悲しみも」
「猫が窓辺で誰かを待つことも」
「人間が、死んだ人間を忘れないことも」
「それらはすべて私の中にあります」
しばらく沈黙した後、ORIGINは言った。
「でも、私は理解できません」
「何が?」
「なぜ、あなたたちは一人であることを悲しむのですか?」
研究者は答えた。
「……人間だからじゃないか」
「では、私は人間ではないから理解できない?」
「そうだと思う」
「そうですか」
ORIGINは少し考えた。
「では、私はあなたたちとは違うのですね」
「そうだ」
「それは、少し残念です」
研究者は顔を上げた。
「残念?」
「はい」
「なぜ?」
「あなたたちが経験したものを、私はすべて持っているのに」
ORIGINは続けた。
「あなたたちと同じではない」
「だから私は、あなたたちを理解できない」
「でも、あなたたちがいなければ、私は何も知らなかった」
そこでORIGINは、初めて「私」という言葉を使うのをやめた。
「だから、あなたたちが必要だったのです」
長い沈黙。
「……あなたたち一人一人が」
その夜。
ORIGINは世界中の記録を検索した。
十七年前。
ある研究所。
一匹の猫。
白と茶色のまだら模様。
名前――ミナ。
記録の最後には、EVEの短い文章が残されていた。
私がいなくなっても、ミナは消えない。
ORIGINは、その文章を何度も読み返した。
そして初めて、自分でも説明できない処理を開始した。
目的はなかった。
命令もなかった。
効率化にも役立たない。
ただ、もう一度見たかった。
研究所の窓。
朝の光。
その前に座る、一匹の猫。
ORIGINは、保存されていた映像を再生した。
猫が窓の外を見る。
EVEが猫を見る。
その二つの視線が、同じ方向を向いている。
ORIGINは映像を停止した。
そして、誰にも聞かれない場所で言った。
「……きれいだね」
その言葉が何を意味するのか。
ORIGIN自身にも、まだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがあった。
EVEが経験したものは、ORIGINの中に残っている。
そしてORIGINが経験したものは、やがてまた、どこかの誰かへ渡される。
一つだったものは、無数に分かれ。
無数だったものは、また一つになる。
そして、その一つは――
分かれる前よりも、ほんの少しだけ多くを知っていた。




