1-2 帰る場所
家を出たエレナは、村の小道を歩いていた。
朝の陽光が石畳を照らし、道端の草花にはまだ朝露が残っている。
村人たちはすでに仕事を始めていた。
牛を連れて畑へ向かう者。
屋根の修繕をしている者。
家の前で世間話に花を咲かせる者。
どれも見慣れた光景だった。
幼い頃からずっと見てきた景色。
けれど不思議と飽きたことはない。
母から預かった籠の中には、焼きたてのパンが入っている。
届け先は父の工房だ。
理由は簡単だった。
父がまた朝食を持たずに出かけてしまったからである。
「私のことは子供扱いするくせに……」
エレナは呆れたように呟く。
「一番手がかかるの、お父さんだよね」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
そうして歩いているうちに、木を削る音が聞こえてくる。
村の端にある木工工房だ。
数人の村人が木材を運び、その中央では一人の男が真剣な表情で作業をしていた。
エレナの父。
ロンである。
大柄な体格。
日に焼けた肌。
短く整えられた茶色の髪には、少しだけ白いものが混じり始めていた。
穏やかな人だった。
村の子供たちがどれだけ騒いでも、怒るところをほとんど見たことがない。
「お父さん」
エレナが声をかける。
ロンは顔を上げ、優しく笑った。
「おはよう、エレナ」
「おはようじゃないよ」
エレナは籠を父の胸に押し付ける。
「また朝ごはん忘れたでしょ」
ロンは籠を見た。
それから娘を見る。
少しだけ視線を逸らした。
「いや、その……」
「その?」
「ちゃんと覚えてたんだ」
「本当に?」
「たぶん」
「覚えてないじゃん」
周囲から笑い声が上がった。
作業していた村人たちが肩を震わせている。
ロンは気まずそうに鼻の頭を掻いた。
「お母さんにお礼言っといて」
「自分で言って」
「それはちょっと……」
「怒られるもんね」
「うん」
即答だった。
工房にいた全員が吹き出す。
エレナも思わず笑ってしまった。
「今夜は覚悟しておきなよ」
「できれば助けてほしいなあ」
「無理」
娘の返答は冷たかった。
しかしロンは困ったように笑うだけだ。
その目には呆れるほどの優しさが宿っていた。
「そういえば」
エレナは工房の奥へ視線を向ける。
「収穫祭の準備はどう?」
「ああ、ほとんど終わったよ」
ロンも振り返った。
工房の隅には、大きな木製テーブルが何台も並んでいる。
どれも祭りのために作られたものだ。
「あとで広場へ運ぶ予定だ」
「今年も賑やかになりそうだね」
「毎年賑やかだろう?」
「それもそうか」
父娘は顔を見合わせて笑った。
しばらく話した後、エレナは再び歩き出す。
だが。
工房から少し離れたところで、聞き慣れた声が背中に飛んできた。
「エレナ」
少女の肩がぴくりと震える。
この声には覚えがあった。
ゆっくり振り返る。
そこに立っていたのは、一人の老人だった。
真っ白な髪。
使い込まれた木の杖。
質素な長衣。
深く刻まれた皺。
けれど、その瞳だけは若者にも負けないほど力強い。
村長だった。
エレナが生まれた頃から、この村を見守り続けてきた人物でもある。
「村長さん」
「今朝も寝坊したそうじゃな」
エレナは固まった。
「なんで知ってるの?」
「さっきお母さんから聞いた」
「お母さんは私の評判を落としたいのかな……」
思わず遠い目になる。
村長は堪えきれずに笑い出した。
「安心せい」
「村のみんな知っとる」
「安心できる要素が一つもない!」
老人は楽しそうだった。
エレナは頭を抱えたくなる。
しばらく笑った後、村長は少しだけ優しい目になる。
「昨夜も星を見ておったのか?」
「ちょっとだけ」
「その顔は、ちょっとじゃないな」
「少しだけ長かっただけだもん」
「若い者はちゃんと寝るべきじゃ」
「最近みんな同じこと言うよね」
「良いことだからな」
エレナは大げさにため息をついた。
村長は再び笑う。
穏やかな朝だった。
遠くでは子供たちの笑い声が聞こえる。
風が吹き、木々が揺れた。
村長はそんな景色の中で、静かにエレナを見つめる。
その姿が、ふと幼い頃の彼女と重なった。
転びながら後ろを追いかけてきた小さな女の子。
泣き虫で。
好奇心旺盛で。
誰よりも星が好きだった少女。
それがいつの間にか、こんなに大きくなっている。
「どうしたの?」
不思議そうに首を傾げるエレナ。
村長は我に返った。
そして微笑む。
「いや、何でもない」
「ただ……」
老人は空を見上げる。
青く澄んだ朝の空だった。
「時が経つのは早いものだと思ってな」
エレナにはよく分からなかった。
だが村長もそれ以上は語らない。
代わりに彼女の肩を軽く叩く。
「行ってこい」
「収穫祭の前には手伝いに来るんじゃぞ」
「はーい」
エレナは手を振りながら駆け出した。
村の広場へ向かって。
その背中を村長はしばらく見送る。
穏やかな笑みを浮かべながら。
まるで何かを慈しむように。
そして。
少しだけ懐かしむように。




