1-1 平凡な朝
「エレナ」
返事はない。
「エレナ」
やはり返事はなかった。
小さな木造の家に数秒の静寂が流れる。
そして――
容赦なく毛布が剥ぎ取られた。
朝の陽光が一気に部屋へ差し込む。
「きゃっ!?」
少女は短く悲鳴を上げ、慌てて身体を丸めた。
「やっと起きた?」
ベッドの傍らに立つ女性が腕を組み、呆れたように見下ろしている。
エレナは眠そうに目を擦り、乱れた灰色の髪をかき上げた。
「あと少しだけ……」
「昨日も同じことを言ってたわね」
「今日は違うもん」
「何が違うの?」
エレナは真剣な顔で少し考える。
そして答えた。
「今日は昨日より眠い」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
コツン。
「いたっ!」
額を押さえたエレナが抗議の声を上げる。
「早く起きなさい」
「はーい……」
不満そうに返事をしながらも、エレナはようやく身体を起こした。
窓の外はすっかり朝だ。
遠くから鶏の鳴き声が聞こえる。
村人たちが仕事を始める音も聞こえてきた。
エレナは大きな欠伸をする。
眠気で潤んだ銀色の瞳。
肩まで流れる灰色の髪。
十五歳になったとはいえ、どこか幼さの残る少女だった。
少なくとも、母親の目にはそう映っている。
「お父さんなら、とっくに出かけたわよ」
「また工房?」
「それ以外に何があるの?」
母はベッドを整えながら答える。
エレナは頭を掻いた。
父のロンは村一番の木工職人だ。
毎日、太陽よりも早く起きる。
春でも夏でも、秋でも冬でも。
変わることはない。
時々、本当に寝ているのか疑いたくなるほどだった。
着替えを終えたエレナは、そのまま台所へ向かう。
食卓にはすでに朝食が並んでいた。
焼きたてのパン。
温かなスープ。
こんがり焼けた卵料理。
その光景を見た瞬間。
エレナの瞳が輝いた。
そっと手を伸ばす。
パンへ向かって。
だが――
パシッ。
別の手が、それより早かった。
「食事の前につまみ食いは禁止」
母が無表情で言う。
「焼き加減を確認しようと思っただけだよ?」
「昨日も同じことを言ってたわね」
「説得力あるでしょ?」
コツン。
「いたっ!」
再び額を押さえることになる。
エレナはしぶしぶ椅子へ腰を下ろした。
「昔、お父さんだってつまみ食いしてたのに……」
ぼそりと呟く。
すると母は平然と答えた。
「だから今、朝から働かせてるのよ」
エレナは即座に口を閉じた。
それ以上言う勇気はなかった。
朝食はすぐに終わった。
母は食器を片付ける。
エレナもテーブルを拭きながら手伝った。
普段は少し面倒くさがりだが、家の仕事を嫌うわけではない。
家族は三人しかいないのだ。
誰かが怠ければ、その分だけ母の小言が増える。
それだけは避けたい。
そんなことを考えながら、小さく息を吐く。
「今のため息、何?」
母が鋭く反応した。
「別に?」
「今の顔で信じろって?」
「無理かも」
「だったらため息つかない」
エレナは舌を出す。
母は呆れたように肩をすくめた。
窓の外では木々が風に揺れている。
暖かな陽光が床へ差し込み、家の中を優しい色で染めていた。
エレナは玄関脇に置いてあった籠を手に取る。
そろそろ出かける時間だ。
その時。
「エレナ」
母が呼び止めた。
少女は振り返る。
「ん?」
母は近づくと、少し乱れていた娘の髪を整えた。
慣れた手つきだった。
何度も、何度も繰り返してきた動作。
「気をつけて行ってらっしゃい」
エレナは少しだけ目を丸くした。
そして、ふっと笑う。
「もう子供じゃないよ」
「私にとっては、ずっと子供よ」
「過保護だなあ」
小さくため息をつきながらも、その声はどこか嬉しそうだった。
エレナは玄関の扉に手を掛ける。
「行ってきます」
「お昼には帰ってくるのよ」
「わかってるって」
扉が開く。
朝の光が少女を包み込んだ。
目の前に広がるのは、いつもの村の風景。
煙突から立ち上る炊事の煙。
響く鶏の鳴き声。
遠くで木材を運ぶ人々。
畑を耕す人々。
家の前で談笑する人々。
誰もが見慣れた顔だった。
そして彼らもまた、エレナを見つけると笑顔を向ける。
「おはよう、エレナ」
「おはようございます」
「今日も寝坊したのか?」
「なんでみんな知ってるの!?」
村人たちが一斉に笑い出した。
エレナは恥ずかしそうに頬を掻く。
けれど。
その笑いにつられて、自分も笑ってしまう。
柔らかな風が吹いた。
灰色の髪がふわりと揺れる。
エレナはいつもの道を歩き出した。
大好きな人たちに囲まれながら。
大好きな村の中を。
この時の彼女はまだ知らない。
当たり前だと思っていたこの日々が。
どれほどかけがえのないものだったのかを。




