2-4 届かない手
炎はさらに広がっていた。
夜空は赤く染まり。
黒煙が村全体を覆っている。
熱風が吹き抜けるたび、火の粉が舞った。
まるで地獄だった。
エレナは必死に走っていた。
混乱する人々の間を縫うように。
助けを求める声を追うように。
「誰か!」
「助けてくれ!」
悲鳴が絶えない。
その時。
視界の端で、一人の老人が倒れるのが見えた。
見覚えのある顔だった。
村の東側に住む老人だ。
燃え落ちた梁が足元へ崩れ、逃げ遅れていた。
「危ない!」
エレナは反射的に駆け出した。
老人へ向かって手を伸ばす。
あと少し。
あと一歩。
届く。
そう思った瞬間。
轟音が響いた。
燃え上がる柱が二人の間へ倒れ込む。
炎が視界を遮った。
熱風が吹き荒れる。
思わず足が止まる。
「っ!」
歯を食いしばる。
だが近づけない。
炎が強すぎる。
老人は向こう側で何か叫んでいた。
けれど声は炎に掻き消された。
次の瞬間。
屋根が崩れ落ちる。
轟音。
火花。
そして。
何も見えなくなった。
エレナは立ち尽くした。
伸ばした手は空を掴む。
ただそれだけだった。
「なんで……」
声が震える。
だが立ち止まる暇はない。
別の場所から助けを求める声が聞こえた。
少女は再び走り出す。
燃え盛る家々の間を。
崩れた道を。
必死に。
すると今度は泣き声が聞こえた。
幼い男の子だった。
瓦礫の陰で震えている。
周囲に親の姿はない。
「大丈夫!」
エレナは駆け寄る。
少年の手を掴む。
「立てる?」
少年は泣きながら頷いた。
その瞬間だった。
鋭い悲鳴が夜を裂く。
近くの家から聞こえた。
女性の声。
聞き覚えがある。
エレナの身体が凍り付いた。
母親だった。
「お母さん!」
反射的に振り返る。
だが。
手の中には震える少年がいる。
見捨てられない。
置いていけない。
助けたい。
どちらも。
どちらも助けたい。
なのに。
身体は一つしかなかった。
数秒。
ほんの数秒。
けれど。
その迷いは致命的だった。
近くにいた村人が少年を抱き上げる。
「こっちは任せろ!」
その言葉を聞いた瞬間。
エレナは走り出していた。
母の声がした方へ。
全力で。
息が切れる。
胸が痛い。
それでも止まれない。
家が見えた。
だが。
間に合わなかった。
燃え盛る炎。
崩れた壁。
倒れた柱。
そして。
そこに母の姿はなかった。
「お母さん!」
叫ぶ。
返事はない。
何度も叫ぶ。
返事はない。
耳に入るのは炎の音だけだった。
「エレナ!」
今度は別の声が響く。
父だった。
ロンが駆け寄ってくる。
顔は煤で真っ黒になっている。
肩には怪我人を背負っていた。
無事だった。
その事実だけで少し力が抜ける。
だが。
安堵は長く続かなかった。
「村長を見なかったか!?」
ロンが叫ぶ。
エレナは首を振る。
すると父の表情が曇った。
嫌な予感がした。
胸が締め付けられる。
「さっき広場にいたはずなんだ!」
ロンはそう言い残し。
再び炎の中へ駆けていく。
「待って!」
エレナも追いかけようとする。
だが。
その時。
広場の方角から悲鳴が上がった。
少女の声だった。
聞き覚えがある。
何度も聞いた声。
毎日のように聞いていた声。
「――エレナお姉ちゃん!!」
ミア。
エレナの瞳が見開かれる。
心臓が止まりそうになる。
考えるより先に身体が動いていた。
広場へ向かって走る。
必死に。
ただ必死に。
名前を呼びながら。
「ミア!」
炎が舞う。
煙が視界を覆う。
崩れた家々が行く手を阻む。
それでも走る。
だが。
何度手を伸ばしても。
何度前へ進んでも。
届かない。
誰にも。
何一つ。
守れない。
助けられない。
伸ばした手は。
ただ虚しく空を掴むだけだった。
だから少女はまだ知らない。
この夜が。
自分の人生を終わらせる夜であり。
そして。
新しい運命が始まる夜でもあることを。




