跋文 堕ちた令嬢
「…あなた、本当に悪魔だったのね…」
「ええ。お嬢様。私めは悪魔だとずっと申しておりましたでしょう?」
くちびるに指を当て、あざとく小首を傾げるニヒトに嘆息する。
「そうね。でもまさか、地獄の王様だなんて。そんなに偉い立場にある悪魔が、なぜここで奴隷などに甘んじていたの?」
「王と申しましても、悪魔とは気まぐれなものでして。人間のように忠誠を誓うわけではなく、単純に力のある無しなのですが…。でもそうですね。この地に残っていたのは、お嬢様の側にありたかったからです。その高潔で美しい魂を、いつかこの手で穢してやろうと夢見ておりました」
うっとりと夢見るように語る言葉に、溜息が漏れるばかりで、嫌悪感はもはや沸いてこない。なぜならもう知ってしまったからだ。
ニヒトは悪魔で、その悪魔が教えてくれた建国神話。悪魔が真実を語るはずもないけれど、騙され悪に唆され道を踏み外すだけなのだとしても。それでもすでにわたくしの魂は穢れ、罪に塗れていた。
「ですが今は、穢すよりも、その美しい魂がより輝く様を見たいのです。ですからお嬢様には真っ当な幸福を得ていただかなくては」
「………真っ当な幸福だなんて…。わたくしはオーディン様の使徒にはなれないわ…」
「オーディンは死んだとお伝えしておりましたでしょう?」
細く長い指で何かをやわらかく撫でるような、優美な舞のように手を振る。
その先にはこの地下牢で床に転がる三人が倒れこんでいて、ニヒトが手を振った途端、汚れた衣服がもとの通り、すっかり整えられた状態になった。
「ええ。でもそうではないの。わたくしの信仰心が消えてしまったのは、救ってくれなかったなどと傲慢な失望をしたわけではないのよ」
「ではなぜですか? 私めにも、その理由をお聞かせいただけますか?」
どろりと色欲に塗れた、甘く官能的な、白い花の匂い。そう。ニヒトの匂いは、色欲に塗れている。
わたくしは知っていた。その匂いの意味を。そしてわたくしがすでにその匂いに夢中になってしまっていることを。とっくに取り込まれてしまっていたことを。
気がつかないふりをしていただけ。
ぶたれた瞼や頬の痣も、背中の鞭打ちの痕も、踝の切り傷も、何も残っていない。外れた肩の間接も元通り。
だけど元通りにはなれない。穢れた望みを、己の淫蕩と好色を知ってしまった。
「………わたくしは、それでもいいと思ってしまったの…」
なんて醜く穢れた娘なのだろう。
これほどまでに浅ましかったなどと知りたくはなかった。
ぼろぼろと流れ落ちる涙も浅ましく醜悪で、誰の同情を乞おうとするのか。まさか目の前の悪魔の同情を?
すうすうと平和な寝息をたてて眠る三人を眺める。
なにもかも元通りになった父公爵に継母に異母姉。この地下牢で起こったことについて、彼らの記憶は残されていない。
魂を捧げてはいないけれど、わたくしは悪魔の名を自らの声帯を震わせ音を出し、呼んだ。
「わたくしは………お父様がわたくしを愛してくださるのなら………リーゼになろう、と…」
恐ろしい罪を告白しながらも、その罪深さに震えもしない体。悪徳に染まった心。父公爵のゆっくりと挙上する胸とその呼吸を見つめている。
愚かな娘に父公爵はきっと失望したのだろう。
愛した女性の命を奪って生まれてきたものが、これほど醜く浅ましく愚かなどと。だからきっと、器としても大事にできなかったのだ。愛する女性を再び招き入れる器として、きっと丁重に扱いたかっただろうに、こんなにも出来損ないで。
満足に神に祈ることもできず、父公爵を罪から救えず、奈落の底へと引きずり込んでしまった。
「わたくしが生まれてさえこなければ、お父様は罪を犯すこともなかった。わたくしが愚かでなければ、ただ無気力に無為に耐え続けているのでなければ、お父様をお救いすることもできた。
わたくしが厩舎で馬丁に辱めを――」
くちびるに湿った吐息が触れたかと思うと、柔らかく冷たいものが押し当てられ、頬にさらりと小麦色の髪が滑り落ちた。
どこまでも甘い、朽ちゆく手前の濃厚な花と、香ばしい林檎の匂い。
目を瞑ると触れたくちびるの先から溶けていきそうで、そんな甘い柔らかな感触に溺れた。頬を撫でる冷たい指先。そのまま顎から耳へと辿ったかと思えば、ゆっくりと頸をなぞって鎖骨までおろされていく。それから手のひら全体で肩をおされた。
くちびるが離れ瞼を開けると、黄金色の目を細めたニヒトが底冷えするようなおそろしいほど美しい微笑を浮かべていた。
「お可哀そうなお嬢様」
「わたくし、可哀そう?」
「ええ。とても。お可哀そうで、とても愛らしいですよ」
悪魔だというのに、いや悪魔だからなのか、労りに満ちた優しい手つきに心がひたひたと満たされていく。
わたくしの腰を抱くニヒトの華奢な腕。わたくしの胸にあたる柔らかくまろやかな胸。艶やかなくちびる。
「ニヒトって、こんなに美しい女性になれたのね」
くすくすと笑うと、ニヒトがわたくしの頸の後ろを撫でる。ぞくっとする感覚に足が震える。
「お気に召されましたか?」
「ええ! とっても! なんて素敵なの」
垂れ目がちの黄金の瞳に、細くまっすぐのびる鼻筋はその先つんと尖って小さく、薄いくちびるは魅惑的に弧を描く。
きゅっと小さな頤から細く長い首が続き、くびれた腹部に豊かな胸と腰。
さらさらとなびく小麦色の髪は男性であったときと同じように首の後ろでひとくくりにしている。
「お気に召していただけてよかった」
ふんわりと笑うニヒトは、無垢な少女のよう。くすくすと笑う声が止められない。
ああ、こんなにも楽しい。
淫らでおぞましい自分に嫌悪するでも絶望するでもなく、呆れることすらなく。
目の前の少女の姿をした悪魔が手を差し伸べてくる。
「ねえ。ニヒト。わたくし堕落してしまったわ。もう祈り続けられないの。どうしたらいいかしら」
伸ばされた細い手を取る。折れそうなほど華奢で、体温を感じさせない冷たい指。
ニヒトが艶やかに笑む。
「それでは私めが、お可哀想なお嬢様に、たくさん気持ちのよいことを教えて差し上げますね」
「ええ。お願いね」
魂を売り渡さずに穢すだけでいいなんて、情け深い悪魔の手を取る。
すでに穢れきった淫蕩な魔女に、悪魔は言った。「正当なる手段で、正義の名の下にお嬢様の復讐を叶えましょうね」と。
わたくしの真っ当な幸福が望みだという悪魔。
それならばわたくしは真っ当な幸福を手に入れなくてはならない。
「お嬢様に相応しい、淫らで高潔な魂の持ち主を私めが探してご覧にいれましょう」
ええ。そうね。お願いね。
でもそのときもきっと、あなたはそばにいてね。約束よ。
了




