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第十話 悪魔召喚




「さあ。私の名を呼んで。ずっと待っていたよ、リーゼ…」


 がさりと乾いて固い手が腫れて塞がった瞼を撫でる。


「ああ、痛かったね。ごめんよ。君の器だとわかっていたけれど…。

 でも、リーゼ。君も悪いんだよ?こんなモノのせいで、こんなモノを残して私を置いていってしまうから…。

 コレが君の器になると気がつくまでは、どうやって処分しようかと毎日そればかりだった。

 気がついてからも、コレが君を私から奪ったのだと思うと、つい手にかけてしまいたくなるから。激情を止められそうになくて、コレから離れていたけれど。

 そのせいで君の器が穢されそうになっていたと知ったときは、あの女共までうっかり殺してしまいそうだった…。

 そんなことをしてはこれまでの計画も水の泡だから耐えたよ」



 父公爵はうっとりと言葉を重ねる。ずきずきと痛む頭はとっくに思考を放棄している。


「あれらはね、ほら、そこにあるだろう」


 肩をぐっと押され、よろけた足がたたらを踏む。

 まだ塞がっていない方の目で促された方へ視線を投げる。

 重なるように横たわる二つの体。ぼんやりと霞む視界でわかるのは、それらがおそらく女性であるだろうということ。

 深緑色のドレスと、薄紫色のドレス。

 今朝見かけた継母が着ていたドレスは深緑色だった。異母姉は会っていない。


「リーゼの分の魂と、私の願いを叶えるための魂。二つ必要だろう? だから丁寧に大事にここまで囲ってやったんだ。決して君を裏切ったわけではないよ。私が愛するのはリーゼ、君だけだ」


 嬉しそうに無邪気な声を上げる父公爵は、まるで褒めて褒めて、とせがむ子供のようだった。しかし無言でいるわたくしに父公爵が気まずそうに視線をそらす。


「………あのときは悪かったよ。君という人がいたのに、あの売女の誘惑に負けてしまって…。

 だって仕方がないだろう? 君は婚姻するまでは駄目だと言うし、私はそういう年頃だったんだ。許しておくれ。女の君にはわからないだろうが、男には耐え難いものがあるんだ。

 リーゼの貞淑は美徳たけど、時に苦しいのだよ…」



 手前勝手な男の理論だ。

 しかし神官様も仰せだった。男を誘う女の罪なのだと。姦淫は欲に負けた女の罪が引き起こす。淫蕩に耽る女が男を色欲に堕とす。


「ああ…。本当に長かったよ、リーゼ。君と初めて出会ったあの日に戻るために、君の器が成人する十五の年まで待ったんだ。ああ、綺麗だよ、リーゼ。まるであの日のまま………とはいかないけど」


 ぎょろりと目玉を回して父公爵が上から下まで矯めつ眇めつ眺める。そしてたっぷりと蓄えた亜麻色の髭の下、ふっと口元を緩めるのがわかった。


「…でも君の器に私の血が流れていると思うと、それはそれでとてもそそられる。そうだろう? リーゼ」

「………わたくしはリーゼではございません。ヘクセですわ、おとう、」



 ばしん。

 明いていた方の目もついに塞がり、世界が真っ赤に染まった。


「………まだ混乱しているんだね、リーゼ。仕方がない。地上に戻ってきたばかりだものね」


 違う、あなたの降霊術は失敗したのだ、と言おうと口を開こうとしたが、大きな手が顎をつかんで持ち上げた。頬にぎりぎりと指が食い込む。


「いいんだよ、リーゼ。君が長らく不在だったことに私は怒ったりしない。だいぶ待たされたけれど。その分私の君への愛は熟成されたのだ。わかってくれるね?」



 熟成されて腐り落ちたのだ。父公爵からは耐え難い腐臭が漂っている。

 何も見えない中、ふと頬にかけられた力が緩んだ。崩れ落ちて床に座り込むと、頭上で何かが動いているような、空気の揺れを感じる。


「それにしても悪魔は姿を見せないのだろうか。早くあれらを回収してほしいのだが」


 悪魔が現れるのを待っているのか、と納得する。そんなものくるわけがないのに。だってわたくしは教えてもらった。本当の召喚術を。降霊術を。それらに必要な贄と重ねる魔法円と、それから――…。








「悪魔なら、ここにおりますよ。公爵閣下」




 甘い、甘い匂いがする。どこまでも魅惑的な、朽ちりかけの花の、それから芳醇なカルヴァドスの、焼き立ての焼き林檎の。あの、魂の揺さぶられる、全てを譲り渡したくなる。官能に満ちた匂いがする。



「大変お待たせいたしました。お嬢様」











 ええ。待っていた。ニヒト。












 ゆらり。ゆらり。ニヒトの身体が黒い靄に包まれていくのがわかる。

 瞼が切れ、視界は自らの血で塗りたくられているのに、なぜかニヒトの姿が浮かび上がって見える。

 その背からは大きな蝙蝠のような漆黒の翼が広げられ、額の左右から生えた複雑に捻じれる角は牡羊のそれと似ている。それからそれより少し上から天を目指す牡牛の角。うねうねと自由に動き回る蛇が翼の後ろで揺らめき、いつも履いている磨き上げられたブーツはニヒトの足元になく、その代わり、大きな雄鶏の足。その足が空を掴むように大きく開かれ、宙に浮いている。


「…ふふふ。そちらにおられるのは、我が敬愛なるお嬢様でございます。公爵閣下。『リーゼ』などという魂はどちらにも見当たりませんが?」

「お前は奴隷の…! なんだ! お前は…いったい………化け物…? 化け物め!」


 はっと息をのむ音。それから混乱に陥っているような父公爵の焦った声。

 ニヒトは可笑しそうに嗤う。うっとりと恍惚とした笑みを浮かべるニヒトの顔だけがよく見える。


「化け物とな。なんと低俗な存在と違えられたものよ。我こそは地獄の七王が一人。色欲と憤怒、破壊と復讐の大悪魔」


 ごきゅり。何かが潰れる音。


「………そして、忠実なる僕」


 濃い匂い。甘く、痺れる匂い。


「さぁ、お嬢様」


 肩を抱かれ身を起こされると、脱臼した関節が痛んだ。真っ赤な視界に浮かぶニヒトの顔はわずかに顰められ、膝裏に腕が回される。体が宙に浮かぶ。


「私めの名をお呼びください――…」





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