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第九話 愛するエリーザベト




 ああ。どうして。


 それだけが頭の中で何度も何度も繰り返し。

 けれど目の前のこのおぞましい光景から逃れようと意識を飛ばそうとしたところで、何も解決するはずもなく、最も柔く大事な部分、魂が穢されようとしている。



「ああ…! ああ…! 私のリーゼが戻ってきた…! 待っていた、この日を待っていたよ、リーゼ…」



 恍惚とした狂人の目。濁ったオリーブの瞳。父であるはずの男の視線が身体中を舐めるように這う。

 きつく締めあげていたはずのレースアップは解かれて緩み、胸元は大きくはだけ、ドレスも腰のあたりから切り裂かれている。シュミーズとドロワーズの生成り色と肌色の足。

 父の生ぬるく湿った吐息が頬にかかる。たっぷりとした口髭が目尻を掠める。亜麻色の頭髪と同じ色の髭は想像より柔らかかった。


 幼子の頃、一度抱き上げてくれたときは、「おひげがチクチクして痛い」と不満を口にした記憶がある。

 思い返してみれば、ずいぶん怖いもの知らずだ。しかしあのとき父公爵はいつものような冷たく無感情なガラス玉の目ではなく、なぜか温かな光を宿した目を細め、まるで慈しむかのように頬を撫でた。そしてあのときの父公爵の言葉。


「早く大きくなっておくれ」


 そう言った。まるで子を慈しむ父親のような台詞。




 それはこういうことだったのか。



 わからない。何が痛いのかも、苦しいのかも。

 はあはあと不快な父公爵の熱い呼気が、べっとりとしたこの甘ったるい匂いが。


 口腔内の錆びた鉄の味。大きな手でぶたれた頬も、鞭うたれた背も、ドレスを切り裂くときにかすめたナイフの刃先が触れたくるぶしも。熱かったはずなのに、今は痛くない。

 どこか奇妙に醒めた目で自分を俯瞰しているよう。魂だけは穢されぬよう、見下ろすわたくしの目からは大粒の涙があとからあとからこぼれ落ちている。何が痛いのだろう。何が悲しいのだろう。何が怖いのだろう。


 薄っすらとヴェールのかかった意識で、働かない頭をゆっくりと動かす。

 足元に石灰で描かれた魔法円。チェストの上には開かれた黒書。銀皿の上には黒いべったりとした液体のこびりついた臓物。床に投げ出されたハシバミの杖。

 それから、術者を慕う生きた人間。



 ああ、父公爵は悪魔を召喚しようとしているのだな、とわかった。おかしなことだ。自称悪魔ならいつでも屋敷にいたのに。やはり自称ではなく本物の悪魔でないといけないらしい。




「………お父様…」


 ばしんっ。


 額から頬にかけて、強くぶたれる。くらくらとして立っていられない。視界が真っ赤に染まった。

 ぐいと腕を引っ張り上げられ、背中に腕を回される。この匂い。命あるものが腐ったような、べとつく、この匂い。

 父公爵の濡れたくちびるが滴る血と涙に触れる。


「お父様ではないだろう? リーゼ。私は君の夫なのだから」



 リーゼ。エリーザベト。

 わたくしの生みの母。




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