第8式
一雫。降り注いだ。
そう、それは一瞬の出来事で、一瞬で訪れた幸せの終わり、絶望の始まり。
未だに薄れる事なく、我々を蝕むその記憶。
その人は、悪魔に魂を売り渡した。
一体何を望んだのか、それは分からない。だが間違いない事がある。
『人間の汚い欲望の姿は見るに耐えないな』
ここはとある貴族夫人の寝室。ベッドに横たわるのはもちろんその夫人だが、……その姿は、"人"とは言い難い。
体温は無いに等しい、食事を必要としない、言葉を話せない、動かない、意識があるのか分からない。それだけならば、まだしも。
その身体は、異形と言わざるを得ない。カラカラと乾いて硬い、まるで樹皮の様な肌。瞳や口などは空洞があるだけ。元々あったはずの瞳も口もどこかへ消えて、空洞がヒューヒューと音をたてて、呼吸に類似した何かを行っている事だけは間違いなかった。
目の前でこうならなかったなら、夫や子供たちは、それが夫人とは夢にも思わなかった事だろう。
『何が純愛だ』
夫は善良だったが故に、あるいは貴族だったが故に、妻を重篤な急病として、部屋に置いておくことしか出来なかった。
妻を愛する男として、貴族として……妻が得体の知れない何かを喚び出してこうなったという恥を隠すために。もちろん、どこから秘密が流れてしまうか分からないため、医者も呼べず、妻が嫁ぐ際に連れてきた侍女であり、乳母であり、良き友人の初老の医者だけが頼みの綱。彼女では解決できないことと、もう数年以上前に分かっている。それでも、夫はそれ以上の解決策ならぬ、対策を行う事は無かった。
愛する妻が、愛していた妻になってしまった今、夫が何かする事は無い。夫の心が既に別のところにあるのか?否、夫の心は常に妻にのみ向いている。"異形と化す前"の、妻に。
つまりは逃避。現実から目を逸らした。
仕方もない事だろう。
だが、とある少女なら、きっとこう答える事だろう。
『その程度で折れるなら、それは愛ではない』
彼女は知っている。愛というのが、どれだけ強く、固く、何物に変えても得たい強欲の名であるかを。愚かしいほどの強制力を持ち、他者の意思を寄せ付けないかを。一方通行の好意は、所詮なりそこないでしかないことを。
『これだから、人間なんて愚かな生き物にかけてやる温情など無いというのに』
暗く静かでつめたい部屋の中、侍女だけが静かにベッドの側の椅子に座り、夫人の枯れた手を優しく両手で包み込んでいる。侍女は何かを迷うように目蓋を閉じていたが、次それが開いた時、そこにあったのは使命感に燃えるような瞳だった。
「行って参ります」
1通の手紙を手に、侍女は部屋を去って行った。
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「"突然にお手紙を送ることをどうかご容赦ください。
先日の貴女様の授業を受けたお方から、貴女様の話を聞き、一縷の望みを感じ、こうして筆を取りました。
我が主人を助けていただきたいのです。
手紙に詳細を書くのは申し訳ございませんが、差し控えさせていただきます。
もし、手を貸してくださると言うのなら、魔法学校の貴女の教授室の扉に、赤色の布を掛けてください。2日後の朝、報せを届けておきます。
誰にも知られないよう、重々お願い致します。
最後に、こんな手紙をお送りして誠に申し訳ございません。破棄してくださっても構いません。ですが、どうか、貴女が救いの手を差し伸べてくださる事を願っています。"
……って、手紙が届いたんだけど、どう思う?」
「罠だな」
「罠ですね」
「罠じゃないかなぁ〜」
はい。毎度のごとく、おじいちゃんの屋敷の応接室。休みの日だし来なくていいのにクラウス達が来ている理由は簡単。私が面白いものを持ってると、おじいちゃんからの通報を受けたらしいからだ。仕方がないのでお披露目したのがつい先程読み上げた手紙である。
「そっかー。じゃあ行ってきまーす。付いてこないでね」
「いや、何でそうなるんだ。罠だと言っただろ」
「いや、意見は求めたけど、それからどうするかは私の勝手じゃない?本人の意思を尊重する心を忘れたら人間終わりだよ」
「そもそも、誰から送られてきたのかも分からないその手紙を、お前がちゃんと持っていることに俺は驚いている」
「呪いの類が付いてないのはわかってるからだよ。そうでなければ、私だって持ち運んだりしないよ。ちゃんと研究室に持ち込んで、どんな呪いか調べて、送り主特定した上で倍返しの算段つけてから呪い解除して持ってくるよ!」
「……対応が規格外で驚くべきことのはずだが、同時にお前らしいとすら思えてきた」
「あらら。でも、そもそもクラウスは皇族だし、何かあってからじゃ遅いから、私も危険物を目の前に持ってきた事はないよ」
「……まるで今までに危険物があったような物言いだな?」
「うん。面白かった。全部おじいちゃんに処分してもらった」
「……現物をですか?それとも……送り主を?」
あえてノーコメントでおじいちゃんと並んで笑っておいた。ちゃんと処分したよ?両方ね。いい退屈凌ぎだった。
「まあそんな事はさて置き、本当にその持ち主に会うつもりかい?いくらなんでも、警戒心無さすぎじゃないかなぁ」
「自分の敵は反抗の目も残さず狩り尽くす心構えをしてるせいか、どこまでが危険でどこまでが安全かよくわからなくなってる自覚はある」
「周りへの警戒心は常に最大ってことかい?それはそれで悲しいんだけどなぁ……」
「私が警戒するほどの人間だって誇る方向に変えてみれば?」
「待て。話を逸らすな。その手紙の差出人は分かっているのか?」
「それは勿論。人気のない時に、人の視線を避けて、私という嫌われ怪しまれ避けまくられな人間の研究室に、人に見られないように手紙を置いてまた帰っていくなんて……。私よりも、私の"友人たち"が気になってその訪問者の素性を調べ上げちゃうよね」
「……あの猫たち、そんな事まで出来るのか」
あれれ?クラウス、顔色悪いよ?大丈夫、流石に後宮に関しては警備の関係でケットシーたちも探るのは容易ではないと判断したらしいし、ちゃんと準備が整うまでは探りを入れないんじゃないかな?と、無意識に呟いていたらしく、お前の忠実な友だちはどこまでお前に引き摺られてるんだ!と突っ込まれた。
あはは。ひっどいなぁ。引き摺られる、だなんて。どちらかといえば、ケットシーたちのお茶目な性格に大層なご令嬢だった私がつられたんだけど。…まあ、そんなこと言ってもクラウスたちは私が旅人になるまでの事情を知らないし、教える気もないからいいんだけどね。
帝都から馬車で大凡3時間ほどの比較的近い領地。カルテア伯爵が皇帝から賜りしその領地は、帝国の召喚術の始まりの地として有名である。召喚術が廃れていると言わざるを得ない現状でも、帝国の魔法学校の専門科で召喚術を学ぶ者が絶えないのは、このカルテア伯爵の領地出身者が一定数いるからであろう。
「ごっしゅじーん!アレ!アレが美味しい気がしますにゃぁ!」
「ケットシー、肉続きだから一旦甘いもの挟みたい」
「じゃあその隣の果実水を先にいただくにゃん。ミー、飲めにゃいけど」
「ミルクもあるみたい」
「にゃんですと!?」
露店を回るのは久々だ。クラウス達を助けた時以来じゃないかな。……けっこう長く彼らと一緒に居たんだなぁ。ついでにケットシーを喚び出したのも久しぶりである。いや、ケットシーにはケットシーなりの事情があるのよ。最近はどうやら忙しかったみたいだから、私も喚び出しかけなかったの。
そんな訳で久しぶりの露店巡りである。
「……目的を忘れるなよ?」
「分かってるって。だから露店巡りしてるんだよ?」
食べ物を買う観光客に見せて、違和感を覚えない程度に情報を引き出して行く、どこの露店をしている人がここにずっといる人間かとか、そういった話を。
クラウスはそれから暫く怪訝そうな顔で、私やケットシーから食べ物押し付けられつつたまに食べてたんだけど、暫くすると納得したのか、ただ黙って様子を見る事にしたようだ。……ああ、因みに今回の護衛役はクラウスね。クラウスの護衛として2人、影と呼ばれる方々が、見えない場所から見守ってるらしいけど。曰く、クラウスもその姿を見た事がないらしい。本人すら知らない影って、いいのかな、それ……。
「流石、召喚術の始まりの町だね。至る所に"カケラ"がある。温暖な気候も幸いしたのかな」
「"カケラ"?」
「…あ。クラウスは知らないのか。召喚術って、魔術の通信と似たようなものでね?喚び出しやすい場所と、喚び出しにくい場所があるの。一度契約したら、召喚されたものと召喚したものの間に、確かで確実な繋がりができるから、どこであろうが関係ないんだけどね。
……それで、喚び出し易さの決め手になるのは、カケラの有る無し。カケラっていうのは、この世界と別の世界を繋ぐ役割を持ってる。繋がり易い場所には、必然的にカケラが集まる。ここは多分帝国の中でも稀に見るカケラの多さだよ」
「……そのカケラっていうのは、通常目に見えないもののはずだが、召喚術師だから見えるのか?それとも、……お前だからか?」
えっ。見えないの?これ。……私の魔力と同じ不思議案件?まずい?と自問自答し始めた私に答えをくれたのは、妙に明るくて親しげな声だった。
「お見事!お嬢ちゃん、小さいのに良く知ってるね〜。博識な賢者に特別にこんなものをあげよう」
「わー、ありがとー。……呪いやさん?」
「ああそうとも。私は星を詠むのが専門だから、昼はこうしてお守りとか売ってるんだよ」
「お姉さんは"カケラ"が見える?」
「ああもちろん。私も、ほれ。ローブの中に召喚した梟さんってね」
街の中心から移動して目的地を目指していけば、自然と露店の数は減っていく。端の方にある露店というのは大抵こういう呪い屋である。占い屋とも言う。女性の呪い屋さんは珍しい。
話を盗み聞きされたのはあまり気分がよろしくないが、召喚術師には"カケラ"が見えると分かったのでまあいいだろう。
「梟さんは夜行性でね、紹介してあげられないのはゴメンね〜」
「んーん。気にしないでー。ところでおねえさん、これ、なに?」
お姉さんがくれたのは、一見何の変哲も無い花の刺繍の施された匂い袋だ。その見えない中に何が入っているかは別とするが。とりあえず私に害をなすものではないから、受け取りはしたが、正直長く持っていたい気はしない。
「お嬢ちゃんたちは今から伯爵様のところに行くんでしょ?だから魔除けにってね」
「……魔除け?」
その言葉に反応したのは、私よりもクラウスだった。ご丁寧に私の手から取り上げて、距離を離し、ついでに私自身もお姉さんから距離をとらせるように自分に引き寄せた。わりかし失礼な態度だけどお姉さんは大切な子なんだねー!いいね!ちゃんと守ってあげなさい!と豪快に笑っている。
「クラウス、お姉さんは多分悪い人じゃないよ。なんか企んでそうだけど……この街の中で、多分一番、私たちが今欲しい情報を持ってるよ」
驚くクラウスと、面白いものを見るように私を見るお姉さん。
「少し、そこら辺のお店でお茶しない?お姉さんが少年少女に奢ってあげる」
その一声で、私たちは目的地に行く前の寄り道を決定したのだった。




